180512 公文書とは <メールは公文書か>と<加計問題 柳瀬氏答弁広がる矛盾>を読みながら
今日は懸案の仕事を片付けようと思っていたのですが、いろいろ所用がはいり、つい私の興味のある話に花が咲いた?ような気がして、残務整理などしていると6時になっていました。
今日も行き当たりばったりでブログのテーマを考えながら、書いています。看護師のセクハラ問題が取り上げられていて、興味を引いたのですが、やはり懐かしい顔を記事に掲載されていたので、これはこちらかと<論点 メールは公文書か>を取り上げることにしました。
と同時に、あまり取り上げるには気が重い<加計問題柳瀬氏答弁広がる矛盾 愛媛知事、証拠示し反論>も関連で無視できないので、関連のある範囲で少し取り上げてみようかと思います。
さて今日の論点では、メールが公文書かどうかを対立する論者が意見を独自に述べ合っています。私の知り合いは弁護士の森田明さんです。彼と仕事を一緒にした経験はないですが、日弁連などでなにかと議論した記憶があり、明快な議論は聞いていて気分がいい方です。私より世代が若いこともあって、私には丁寧に対応してくれるというか、私がおおまかなので、気安く話す相手でした。といっても20年も前の話でしょうかね。
私は彼が長く情報公開問題に関わり、努力しているのを見ていましたので、彼の立ち位置がぶれない点を評価しています。
ところで記事では<学校法人「加計(かけ)学園」や自衛隊イラク日報の問題を巡り関係省庁で送受信されたメールが公開され、実態解明に大きな役割を果たした。しかし、公用メールの多くは事実上、官僚の裁量で廃棄され、大臣、副大臣らは私用メールや通信アプリを多用している。公文書管理の点から電子情報はどう扱われるべきか。【聞き手・日下部聡、大場弘行】>と電子情報の扱い方を問題にしています。
森田さんの主張は、多くの弁護士、日弁連の立場とも大きく変わらないと思います。
彼の意見は<メールは送受信した時点で誰かと共用されるわけだから、職務上のメールは行政文書に当たるとみなされるべきだ。たとえば、知事が秘書と日程について連絡したメールなどは行政文書だ。1対1でも、職務上の相手方であれば私的なものとはいえない。また、私用アドレスだったとしても、職務上のやり取りであれば行政文書だろう。>と。
これに対し、福田峰之・元副内閣相は意思決定<「プロセス」を残す怖さ>を指摘して、メールなど電子情報を公文書として扱うことに反対の立場です。
<副内閣相だった頃、官庁から与えられていた公用アドレスのメールは一度も使わなかった。>というのですから、クリントン女史が国務大臣時に私用メールを使ったことへの批判は彼には意外と言うことなんでしょうかね。あるいは立場が違うというのでしょうか。
しかし、電子情報は最も重要な情報伝達・交換・意思形成などのツールとして使われていることを自認しています。<私用アドレスのメールを使うこともあったが、LINEは特定メンバーでグループを作って一つの画面でメッセージをやり取りできて便利だ。当時、約30人の官僚、他省庁の副大臣、与党議員らとLINE上に複数のグループを作っていた。他の副大臣や議員とは「この案件、どう思う?」と意見交換し、官僚らには外出先から指示を出したり、報告を受けたりして、必要な資料は添付して送ってもらった。多い日で数十件のメッセージをやり取りしていた。>
彼なりに興味深い弁明をしています。<こうしたツールは電話でしゃべるのと同じ感覚で使う。実際、スマホの音声入力機能はしゃべった内容をそのままメールの文面にしてくれる。それを紙の文書と同じように公文書として残せというなら、電話で話した内容も全部録音して残さないとバランスが取れない。>
バランスがとれないというより、電話会話も録音する公用として必要があればすべきでしょうし、少なくとも文書化すべきではないでしょうか。音声入力は有効なのですから、それこそ一定の条件で公文書として扱うのが本来ではないでしょうか。
これに対し、福田氏のプロセス論からの消極説は<メールや通信アプリを使う目的はあくまでもコミュニケーションと情報収集だ。プロセスの断片に過ぎない。本や資料を読んだり、人に会って話を聞いたりするのと変わらない。そうした行為まで公的な記録として残すのは思想チェックになってしまう。>と一気に思想検閲になっています。えっと思いますね。
だいたい一般的なコミュニケーションや情報収集なんでしょうか。しかも本や資料を読んだり、人と会って話を聞くのと同じという、それぞれ異なる内容を一緒くたにしていますね。例に挙げた本や資料を読むことと、電子情報のやりとりは明らかに違います。特定の組織の一員との電子情報の伝達は、行政組織としての活動以外の何物でもないように思うのです。人と会って話すことも、その内容が業務に関わることであれば、基本は行政活動の一環ではないでしょうか。それは決して内心の思想を開示させるものではないと思うのです。
ある行政施策について、是非を議論するような電子情報のやりとりもあるでしょうが、そういった議論も、行政過程、政策やさまざまな行政行為の実行に至るプロセスを合理化する、あるいは後に検証するために、公文書として記録化することが本来ではないでしょうか。それこそ民主主義の毛細血管の最も敏感な部分になるのではと思うのです。
福田氏はさらに情報の一部が切り捉え一人歩きする怖さを指摘しています。
<例えば、学校法人「加計学園」の獣医学部新設問題。官庁内のメールやメモ類が流出して首相や官邸幹部の関与があったかのように批判された。官僚は政治家の発言をメモしたり、上司らにメールで報告したりする。政治家の発言した言葉と官僚のメモやメールの文面のニュアンスが異なることはあり得る。それなのに、政治家側に内容の確認も取らずに表に出され、世論は「事実」として受け止める。これでは、官僚はメモやメールにウソを書いて気に食わない政治家を抹殺できることになる。>
まるで愛媛県職員の記録について言っているようにも感じるのは私だけではないでしょう。その記録が、記憶だけで平気で事実をねじ曲げることを許容する政府・官僚の対応について<加計問題 柳瀬氏答弁広がる矛盾 愛媛知事、証拠示し反論>として赤裸々になったのではないでしょうか。いや、そうではない、柳瀬氏の弁解のように、勝手にメモを書いて残せば、それが正しいというのはおかしいといった、とんでもない発言を現在の政府・与党が許しているように思うのは少なくない人たちではないでしょうか。
また福田氏は<公用メールは全部残すべきだとの議論もおかしい。>と断言し、<もちろん、正式な報告書や議事録、決裁文書など結論が記載されたものは残さなくてはいけない。これらは発言者に内容を確認させた上で保存、公開対象にする。政治家はその結論に対して責任を持つ。それで十分だ。>というのは、いずれもプロセスをベールに包んでしまい、国民には結果だけを示せば良いといっているのに等しい、一代前の考え方ではないかと思うのです
むろん費用や時間をかけて、公文書管理のために過大な負担を課すことは避けるべきでしょう。他方で、AI機能を充実させ、より簡易に、記録・整理が可能ではないかと思うので、できるだけ電子情報を公文書として管理する方向で検討してもらいたいと思うのです。
森田さんの意見を最後に引用しておきます。
<米国では公用メールに管理基準を設け、公文書として保存する方向に向かっている。日本も電子的な記録に合わせた管理システムを導入する時期だろう。少なくとも「役所のどこにどんな文書があるのか」を一元的に把握できる仕組みが必要だ。そうすれば検索が可能になり、情報公開請求があるたびに書棚やファイルをひっくり返すようなことをしなくて済む。役所にとっても負担の軽減になるだろう。公文書を巡る一連の問題を公文書管理改善の好機ととらえたらいいのではないか。>
30分を過ぎてしまいました。今日はこの辺でおしまい、また明日。
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