171115 戸籍とマイナンバー <論点戸籍制度のあり方>を読みながら
今朝はわが家の谷間がとても奥ゆかしい雰囲気に包まれました。全体に靄がかかり、小集落が見え隠れしたり、遠くの高野の連峰が霞んだり見えなかったりと、深い靄のおかげです。
そういえば霧のロンドンもいい雰囲気ですね。90年代はまさに大気汚染で現在の中国ほどではないとしても青空だといやな感じでした。でも霧がかかり、テムズ川の汚れも見えず、石畳の街路もガス灯?もぼんやりと浮き出てきて、なんともいえない情緒を感じました。
さてと今朝も終日なにかと忙しくまだ仕事が終わっていませんが、帰宅時間が過ぎているので、今日も短時間にブログをまとめることにしました。
毎日朝刊の<論点 戸籍制度のあり方>は反橋希美記者が3人の有識者からヒアリングした記事です。戸籍というと、たいていの人は滅多に目にする機会がないのではないかと思います。いや離婚歴が多いので結構見慣れていますとか、転職が多くてそのたびに企業から求められましたとか、というのは希でしょうね。専門職以外はあまり戸籍謄本などをみることもないでしょう。
まして大正期や明治期の手書きのものとなると、よほどの人でないとみたことがないでしょうね。戦前のものを見ると、まさに家制度がしっかりと戸籍制度によって社会的に確立されてきたのだなと感じます。戸主を頂点に、すべて家族が順序立てられ、長幼も、男女の性別も、嫡出・非嫡出も明確に規律されています。
でも血のつながりを家制度が連綿と保持してきたといった意識がどこかにあるかと思いますが、意外と血縁と関係ない養子縁組も少なくないように思います。むしろ家を家産を守る意識の方が強かったのではないかと思うこともあります。
とはいえ、長男とか次男ということがわが国では当たり前ですが、北米などではそんな英語表現はないのではないかと思います。Brotherと呼称するかファーストネームを呼び捨てするかが普通でしょう。長幼も順序もないのですね。個人の尊厳を基本とすれば当たり前でしょう。ジェンダーも次第に社会の中で受け入れられていっていますので、性差もいまと異なる取り扱いになるのもそう遠くないでしょう。
さて本論に入ります。といっても残り15分くらいで書き上げようかと思っていますので、コピペでまとめます。
遠藤正敬・早稲田大台湾研究所非常勤次席研究員は、まず出発点としての戸籍制度について、<戸籍は個人の身分関係を記録する公文書であり、東アジア固有の制度だ。元来、戸籍は徴兵や徴税、治安維持を登録の主な目的とし、個人よりも国家に利便性のある制度だった。>と国家のための制度と位置づけます。
個人しての価値はというと<近代以降、戸籍への登録が旅券取得や社会保障などの権利と結びつくことで、国民にとっても多少は有用なものになった。だが、そもそも、戸籍は人口統計や個人識別には役に立たない。現在の基本的な行政サービスを受けるには、居住の事実が要件となる場合が多いため、戸籍よりも住民票が重要になっている。>と否定的です。
利用価値の乏しい制度がなぜ現在も残っているのかについて、<実効的な機能は乏しくなる一方にもかかわらず、なぜ戸籍制度が維持されてきたか。理由は、戸籍の道徳的な機能と深く関わっている。>としています。
それを次の3つの要素から根拠づけています。<日本の戸籍は(1)天皇の「臣民」としての登録(2)家の登録(3)「日本人」の登録--という三つの独特な性格があった。1点目の臣民登録は、古代国家において戸籍制度が実施された時からの性格だ。天皇を戸籍に記載せず、「氏姓」を授ける立場とすることで神格化し、臣民との間に絶対的な境界線を引く意義があった。今も天皇や皇族は戸籍法が適用されず、その構造は変わっていない。>と。
しかし、日本人の実態は歴史的には純血でないことは証明済みですね。<だが、その「日本人」は純粋な血統上の「日本民族」ではない。古代の渡来人に始まり、さまざまな民族との血の混交を伴って現在の戸籍に登録されており、「単一民族」や「血統」という概念は擬制だ。>
そして将来の姿については、<人の国際移動や家族の多様化が進む今日、型通りの「日本人」しか登録しない戸籍と現実のねじれは明らかだ。戸籍に家の系譜としての価値や、日本国家との結合性を見いだす人々もいるだろうが、実生活でそれ以上の存在意義はない。真に必要なのは、国民の多様な生活実態を把握し、平等に権利や機会を保障する弾力的な身分登録制度だ。>とマイナンバー制を評価しているわけではないですが、個人を単位とする制度化を求めているように思えます。
この点、二宮周平・立命館大教授も<個人単位の編製に改めよ>と基本的には同一の歩調に近いのでしょうか。
戸籍制度が持つ価値について、<こうした家族単位の戸籍は、祖先や他の親族関係をたどれる追跡機能と、家族の状況が一目で分かる一覧性が利点として語られてきた。だが、追跡機能については、出自の差別に利用されてきた歴史がある。第三者や弁護士ら有資格者は戸籍法で定められた場合しか戸籍謄本などの取得はできないが、不正取得事件が後を絶たない。一覧性も、本籍を変更する「転籍」や、離婚して除籍されるなどの事情がないことが前提となる。>とその利害得失を問題にしています。
そして同教授はまさにマイナンバー制の導入を積極的に支持しているかのように<今後、法制審議会で戸籍事務にマイナンバー制度を導入するための議論が進められる。事務の簡素化などの枝葉末節の議論ではなく、戸籍のあり方の見直しにつながる機会になるよう期待したい。>と述べています。
最後は申 栄(シン・キヨンさん、漢字がないので空白)・お茶の水女子大准教授は<「時代遅れ」と韓国では廃止>と、その先進例を紹介しています。
韓国と言えば、あのイザベラ・バードが『朝鮮紀行』で李氏朝鮮の現状を鋭く考察していますが、日本以上に儒教社会の厳しい男女差別や長幼差別があるなど問題点を指摘しつつ、その人々の心遣いなどのすばらしさを細やかに描写しています。
でも89年の戸主権の廃止後、<父系血統主義的な姓制度や、戸主と家族の主従関係の撤廃を求める運動が続き、違憲訴訟も相次いだ。>そしてついに、憲法裁判所が画期的な判決を下して一気に改革が進んだようです。
<憲法裁判所は05年2月、家族制度の「伝統文化」について(1)歴史性や時代性を持つ概念として人道的精神などを考慮して今日的にとらえるべきだ(2)憲法が保障する個人の尊厳と両性の平等に反してはならない--とする判断を下した。「伝統文化よりも憲法理念が重要」という明確な立場が示されたことで、戸主制度、戸籍制度の廃止が一気に進んだ。>
なにか慰安婦問題が次第に取り上げられた時期と重なるような印象を受けます。90年代以前は、多くの個人、とりわけ女性は批判的な発言をすることが容易でなかったのではないかと思うのです(いまもあまり変わらない部分はあると思いますが)。
現行の新戸籍制度は、個人の人格に光をもたらしたようです。
<現行の「家族関係登録制度」は個人単位。家族関係証明書も交付を受けられるが、記載は本人中心だ。家族は配偶者、父母、自分の子に限られ、兄弟や祖父母は表示されない。父母の合意があれば子は母の姓も名乗れる。戸籍制度では外国籍の配偶者は排除されていたが、登録制度では、韓国語表記だが姓名ともフルネームで示される。親の離婚歴や嫡出子かどうかは本人の記録には残らない。差別的な項目をなくし、多様な家族形態を許容する形式になっている。
戸籍制度の廃止は韓国社会において革命的な発想の転換を生んだ。自分が家族関係の中心であるという自立的な考えが芽生え、両性平等という感覚が育っている。例えば、90年の性別出生率は、男子を選んで出産する人が多かったため、第3子、第4子は男児が女児の2倍だったが、現在では、ほとんど男女差はない。これは、家制度を守るために長男を産まなければというプレッシャーから女性が解放された表れではないか。>
今日はこの辺でおしまい。
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