たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

歩く道(その7) <中世名手荘と丹生屋村を歩いてみる>

2019-01-27 | 心のやすらぎ・豊かさ

190127 歩く道(その7) <中世名手荘と丹生屋村を歩いてみる>

 

昨日は当地も雪が断続的に降りました。たまにしか歩かない高齢者にとっては年寄りの冷や水以上に危ない橋を渡ることになるかもしれないと早々と歩きを断念しました。

 

今日は曇り空でしたが風が冷たく少しきつかったのですが、平日ほとんど歩いていないので、昨夕の大坂選手の元気をいただき、歩くことにしました。いや粘り強くなりましたね。我慢強くなりました。その冷静さを失わないようちょっとした仕草で気持ちを展開する様子が素直で、彼女が23歳から4歳になったと優勝記者会見でユーモアたっぷりに話していたのを見て自己分析もしっかりしていますね。

 

むろんラケットさばきはどんどん進化していることが素人でも少しはわかります。バックハンドでは、あの腰を低くしたスタイルで相手のボールを引きつけ、ためをつくって鋭く相手コートに打ち込むのは美しいですね。フォアハンドではどのように打っているのかわかりませんが、ヒッティングポイントがいいのでしょうか、強烈にサイドラインぎりぎりを狙いますね。相手のベトラ・クビドバもすばらしい集中力を見せましたね。第2セットでは大阪選手にマッチポイントを3度も握られながら連続ポイントを勝ち取りそのセットを奪い取ったのですから、さすがと思いました。この時点で、大坂選手のショックもあり、これは勝てないなと思ってしまったほどです。それを建て直して全豪オープン優勝を勝ち取ったのですから、見事でした。

 

まあこれだけの大坂選手の素晴らしい精神力・技術力を見せてもらったわけですから、私も少しは元気になろうと思った次第です。関係ないですが、私も含めすばらしい元気というプレゼントをいただいた気分ではないでしょうか。

 

さて今日の歩く道は、粉河と名手の中世時代の紛争地を訪ねることにしました。ただ、前回、文覚井の場所を見ようと思って山の中に入ったものの、事前に地図も見ずきちんと検討しなかったため簡単に見つけられると思ったところ、見当違いの獣道?歩きをしてしまったので、今度はできれば井堰のあるところを見つけようと思い、そこは車で近くまで行こうと考えたのです。

 

ところが地形図を見ないで、グーグルマップなど普通の地図を見ただけでしたので、近くまで行ったのですが、どうやら見当違いで、改めて地形図を見てから出直すことにしました。

 

だいたいグーグルマップだと、道路は割合正確に表現されていますが、川や水路となると当てにならないことが少なくありません。まあ利用者で私のような見方をする人は希でしょうから仕方ないですね。

 

桛田荘という紀ノ川北岸の、現在で言えばかつらぎ町笠田全体に近いでしょうか。現在で言えば笠田東、笠田中、萩原、窪当たりに通水していたと思われるのですが、それには北川にそびえる小高い山の背後を流れる、当時で言えば静川、北川、あるいは四十八瀬川(現在の穴伏川)のどの当たりに井堰を設け取水し、用水路をどのように通したかは興味深いところです。現在も続く誰がいつ開削したかの議論も興味深く、その領地支配の構造も気になるところです。

 

今回訪ねたところはおそらく少し上流まで行きすぎたようです。実は穴伏川を車で下っていく途中、たまたまその谷間景観を写真に撮ろうと、道路上で下車して一枚盗ったところ、自宅広場から私の方を見ている人がいて、どちらからともなく声をかけて30分近く話をすることになりました。その方Hさんから、おおよその文覚井の記念碑的な表示がある場所をうかがい、だいたいの見当がつきました。さすが地元の方、文覚井のこと、私が関心を持つ大畑才蔵のこと、よくご存知でした。小田井用水の功績の偉大さも。他方で、当時も今も農民は田んぼ一枚をとても大事にする(最近は違うという人もいるかもしれませんが、農家の意識はさほど変わっていないと私は思っています)ことを踏まえて、才蔵だけの手腕でできることではない、多くの地元の有力者なりが地元の意見を調整して協力したからできたのだと話してくれました。私も同感です。

 

帰りに、ハッサクとネーブルをたくさん頂きました。まるでNHK人気番組の鶴瓶さんや関口知宏さんみたいでしたが、まあ私の場合は普通の通りがかった歩き人(今回は車でしたが)にすぎないのですが、農村では結構そういうことがあり、そんな雰囲気が農村の良さでしょうか。

 

さてそれから1時間くらい元の名手荘の一部を歩いてみました。歩いたのは大和街道を東から西に、名手川にぶつかり、右岸側を紀ノ川まで下り、その後紀ノ川沿いを遡りました。

 

大和街道では、途中に名手谷川という幅数m、実際の水流は50㎝ほどでしょうか、小さな川を横切り、次に名手川という川幅50mくらいはあるのでしょうか、そこまで西に行ったのです。大和街道の途中にある旧名手宿本陣が国指定史跡で、その妹背家住宅が国指定重要文化財になっているところを訪ねました。

 

重要文化財ですから、表にはよくある看板に説明書きがありますね。その説明書きを見て、ふと気になってしまいました。冒頭にある「妹背家は、中世以来紀伊八庄司の一つに数えられた名家で、当時名手荘及び丹生谷を領した土豪であった。」です。

 

この「当時」が気になるのです。中世以来長く名手荘と丹生谷(村)は水、土地、山の境界を争って暴力沙汰、訴訟沙汰を繰り返しているはずです。そして私が今日訪れたのも、その争論の源である名手川を見たい、その川の東西をまたいで争った両者の土地柄を見たいと思ったからです。

 

たしかに近世初頭には両者は統合されていて、妹背家が支配していたかもしれません。しかし、それまでは両者の対立は尋常でなく、その争いは鎌倉期の朝廷、幕府を困惑させるほどでした。まあこれもいくつか文献を読んだ程度の生半可な知識ですが。たとえば服部英雄氏の<名手・粉河の山と水  ー水利秩序はなぜ形成されなかったのかー>はこの当たりを丁寧に考察していますので、関心のある方は参照ください。

 

服部氏が指摘しているように、名手川は水無川だったのですね。現在も川幅はある程度ありますが、水量はわずかです。服部氏によれば、丹生谷村は丹生屋氏が支配し、他方で名手荘は高野山が支配して、旱魃が起こると、水争いが深刻化したようです。現在の温暖化以上に厳しい炎熱状の旱魃だったのかもしれません。

 

で丹生谷村は粉河寺が背後にいて、名手荘は高野山がということで、両寺が支配権をめぐって争っていたようです。その争いが収束したのは、それまでに朝廷の裁許があっても一向に解決されなかったのですが、秀吉による粉河寺殲滅と高野山の降参ではないでしょうか。

 

高野山は名手荘の立場で、先に触れた静川(現在の穴伏川)の水利をめぐって、神護寺領?の桛田荘とも繰り返し争っています。中世は決して平和ではなく、僧侶は荘園支配を強化しようと戦い続けていたように思います。中央では鎌倉幕府の地で決着する争い、室町幕府も無秩序状態を生み出し戦争に明け暮れていましたが、紀ノ川沿いでは命の源、水利をめぐる争いをいつ終わるともしれず続いていたと思われます。それは田畑だけでなく山も。

 

そんなことを思いながら、歩きつつ、農地の多機能化の一つ、高さ3mを越えるような太陽光発電の建設中の現場を見たり、地べたを這わすような枝づくりをする柿畑を見たり、現代的な変化もまぶたに残しました。

 

いつかこの水利紛争の顛末について、整理できればと思っていますが、いつになることやら。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 


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