170202 偏見と差別と集団心理 河瀬直美監督「あん」を見て
今朝はめずらしくいくつか気になった毎日朝刊記事がありました。<削除に6基準 請求退け、最高裁初判断>は一面記事でした。
ネット記事、とりわけ逮捕歴や処断刑の記事は、公共性があることに私も否定しません。他方で、「忘れられる権利」というEUで確立しつつある、ネット情報への対抗手段的な意義も尊重したいと思います。そういう中で、最高裁の今回の判断は、プライバシー保護を前提として検索事業者に一定の削除義務の可能性を認めつつ、情報の公共性と表現の自由の保障の観点から、両者の利益考慮の中で、かなり広範囲に後者の利益を認めた印象をぬぐえません。しかも抽象的な基準のため、適切な判断基準を最高裁自体、得られていない印象もあり、今後、下級審レベルでの判断の積み重ねを待つのかなと、不安定な状況を醸し出しています。
で、私が少し触れたいのは、そもそも逮捕情報などは、かなり警察側の恣意的判断でリークないし開示されている実態があることを感じている点です。重大な事件だと、警察庁も含めそれなりの公開基準や記者発表の内容・手順などについてガイドラインなりを定めているのではないかと思いますが、多くの見過ごされそうな事件では、現場に任せきりではないかと危惧しています。
今回の児童買春などは、その犯罪が与える広範な影響や児童への深刻な影響、また、犯罪の持続性など、この種の性犯罪類型の一つとして、公共性が高いように思いますが、一定のルールを民主的な意見を反映する形で開示基準を設けるのが望ましいのではないかと思うのです。
それ以外の犯罪では、多種多様で一概にはいえないですが、たとえば窃盗、さらに万引きと言った場合に、その盗取額、加害態様、その人の職業や社会的地位などをも考慮して、開示に抑制的であってもよいと思うのです。ときに警察の検挙実績を評価してもらうために、開示しているのではないかと疑いを抱く事案もあります。一定の開示の必要性や、その賞味期限も限度があるように思うのです。とくに逮捕後の事件フォローがほとんどないケースでは、逮捕といった事実だけが残り、その後の情報が開示されない中(不起訴など)、逮捕情報だけがネットに残るというのは無罪推定という憲法上の保障の観点からも疑問があります。
この点は、もう少し整理して、いつか書いてみたいと思います(こういってなかなか次に書くチャンスが生まれないのが実態ですが)。
もう一つ、というかあげれば切りがないので、これはウェブ情報にまだ掲載されていないのでアップできませんが、和歌山県立大学図書館の司書を取り上げた記事です。わが国では図書館の役割が多くの自治体で取り上げられますが、多くは会館建て直しといったハード面が主流か、民間委託という極端な変化が話題になっています。
ただこの司書の場合は、改めて図書館の中心的役割である司書を位置づけ、その上で、地域コミュニティとの交流を目指したさまざまな取り組みを行っています。記事の中では、具体的な司書の活動、とくに図書情報のあり方や地域や個人の情報形成・人格育成との関係でどのような活動を行っているかについて、あまり具体的な情報は示されていないので、必ずしも高い評価を与えることができるかは少しちゅうちょします。ただ、基本的な姿勢は、すばらしいと思っています。
私は図書館のヘビーユーザーの一人だと思います。首都圏にいる時代は時間もあまりなかったので、もっぱら弁護士会館図書館や最高裁図書館と法務図書館を法曹関係資料を調べるとき、それ以外は国会図書館、各大学図書館をときどき、有栖川宮公園内の都立図書館と日比谷図書館を利用していました。その中で、弁護士会館図書館は司書がしっかりしていて、懇意にしていたこともあり、いろいろ勉強になりました。
他方で、カナダに滞在しているとき図書館のあり方の違いをすごく感じました。まず地域にあるコミュニティ図書館は、地域住民の交流の場所でもあり、地域の郷土資料を調べるのに、司書も積極的に協力してくれました。経験はありませんが、地域で開発がある場合に環境アセスメント情報(これはファイルで10冊前後はあります)を備え置き、いつでも見える状態になっています。また、大学図書館ですが、とても静かで、ゆっくりと資料を読める机イスがそろっていて、何より開架式で置かれている蔵書がめちゃ多いのです。これはコンピューター検索で調べる以上に、関連図書をサーフィングするのに便利ですし、意外な発見があります。とりわけ注目するのは、貸し出し方です。これは大学によって異なるので一般論はいえませんが、私の理解では、多くは貸し出し本の数の制限も、期間制限もないという方式が少なくないのではと思っています。しかし、借りたい人が申し出たら、その書籍を一定期間以内に返さないといけません。私はよく調査旅行と称して各地に長期旅行をしていて、偶然そういう催告がありましたが、期限を徒過し、書籍代に近い制裁金を払った記憶があります。緩やかな貸し出し方針である一方、厳しい取り立て?ですが、これも一つの選択可能なアイデアかと思います。
で、いまは和歌山県立図書館と橋本市図書館の2つを利用して、月平均20冊以上は借りています。で、いずれも悪くない印象を持ちつつ、司書の活動が見えにくいという印象があります。開架式も残念ながらさほど多くなく、特に前者は相当の蔵書があるものの倉庫に置かれているため、ネットサーフィンならぬ、関連図書を気軽にとって読むことができません。地域コミュニティの情報拠点としての機能をどう位置づけているのかわかりませんが、あまりそのような実態を感じたことがありません。明るい印象の座席は、有栖川宮図書館とまではいかなくてもそれなりに内部環境と思いますが、司書を中心とする図書館職員と利用者との気さくな交流や、利用者同士の交流といったものはうかがうことができません。
橋本市図書館は、5階にあって眺望がいいところであるのに、ほとんど利用できる設定になっていません。残念ながら、司書が中心になにか意図を持って図書を含む多様な情報発信の場とするような雰囲気を感じさせるものは見当たりません。おそれらく図書館費用もかなり乏しいのではないかと思います。開架式も時折、変更しますが、その意図がはたして利用者に理解できるものか、気になります。概して図書館費用が極めて脆弱である印象が強いです。これでは地域の個々が創生の担い手になる情報発信や交流の場となるには、かなり大きなハードルになるかなと思っています。
とくに郷土資料には貴重な資料がありますが、うまく活用できるような工夫を感じることができません。人材不足でしょうか。他方で、学生たちのたまり場的雰囲気があり、本来の図書館のあり方とは異質(とはいえ多くの地域図書館ではこのような実態が見過ごされてきたようにも思います)な状況について、改善策はあまり見られないように思います。
と本論の見出しと異なる内容を長々と書いてしまいました。見出しを変えるかどうかは、この後の書きぶりで決めます。
さて、昨夜寝付けなく、録画していた見出しの「あん」を見ました。河瀬直美監督は、丹念に日常風景や日常の会話を自然な形で取り込み、他方で、風景描写も繊細で、期待している映画監督の一人です。私のような映画の素人が期待なんていうのも失礼な話ですが、鑑賞者として、もっともっといい映画を描ける監督として期待という意味です。
最初の出だしは、都心の郊外の密集した町中、とても日本的情緒のあるよな家並みとは異なる風景。そこに満開の桜並木が見事に花びらの舞うトンネルを造っています。自分が住んで事がある、あるいは近くにある町のイメージを鑑賞者に訴えてきます。その中の古い壊れそうなアパートの一室、ある中年の男性がけだるい様子で、起きだし、そして桜並木の一角に構えた、ほんとに小さな店舗で、険しい顔でどら焼きを黙々と焼いている。その前で女学生がまるで世情の厳しさを感じさせない屈託のない笑い声と楽しい話声が飛び交っています。その明と暗が交錯しつつ、触れあうことなく、どら焼きだけができあがり、彼女たちのおなかに入っていき、そのまま帰って行きます。
そこに現れた一人の女学生、深刻な顔でアルバイトをしたいと、その後に70代半ばの女性が桜の花びらのような満開の笑顔で同じく働きたいと、店主に申し出ます。店主はにべもなく断ります。ところが、高齢の女性が置いていった「あん」を食べて、その味に驚き、その後来た彼女に働くことを認めます。
店主が業務用の、機械で大量に製造されたあんを仕入れて使っているのを見て、その彼女が自ら「あん」づくりを始めます。それは小豆が生まれ育った風土や、ここまでやってきた道のりを小豆と会話しながら、長い時間をかけて、小豆と一緒になって生み出すという共同作業です。
これを見ながら、そういえば私も幼い頃、正月のもちつきのとき、あんこをつくるのを手伝ったか、見守り係的なことをしたのを思い出しました。それはゆったりした時間の流れでしたし、近所の人たちとの共同作業で、できあがったときの、みんなの楽しい談笑がありました。
彼女がつくった「あん」は予想に違わず、大評判となり、開店前に立ち並ぶ行列ができるほどになりました。すぐに売り切れました。その描写の中で、彼女は指が曲がっていて動きが少し鈍いことや、手や手首などにただれた後のような少し黒ずんだ肌を見せていました。
どら焼きの評判が広まり売上も増えている中で、店主の雇い主であり、彼が多額の借金をしている女性がやってきて、彼女がらい患者ではないかと友人から聞いた、店の評判に影響するので辞めてもらうようにと、店主を説得するのです。彼はここで深刻に悩みます。彼女のおかげで、彼はいやいや仕事をしていたのを、あんづくりを通して生きがいというものに目覚めさせてくれた、彼女への強い恩義を感じています。他方で、彼の借金は、居酒屋をやっていてけんか仲裁から相手を半身不随にしたため、その被害者に支払う多額の慰謝料を女性の夫に肩代わりしてもらった恩義も無視できない、という二つの義理に立ちゆかなくなったのでしょう。
と続けていると、映画の中身をへたに開設してしまうことになり、この辺で終わりにします。
店はいつのまにか閑古鳥がなくようになり、彼女も施設に戻りました。ハンセン病患者が造っている、ハンセン病が感染するといった一人の情報が伝搬したようです。この時代はいつか明確ではないですが、さほど古い時代ではなく、今から10年も20年も前でもないように思えます。
そして彼女は、店に出なくなり、店主と勤めたいといった少女が二人で、彼女のいる施設を訪ねました。彼女は、塀はないものの、樹木に囲まれ周囲の家々とは遮断された敷地・建物中でハンセン病患者の仲間と過ごしていました。その姿は、店にでていたときの溌剌さもなく、一気に年老いた印象になっていました。どら焼き屋での作業を通して、おそらく彼女が初めて社会中で人の喜ぶ仕事の一端を担うことができたのでしょう。
その唯一の初めての喜びを簡単に壊してしまう、人の評価、その情報の伝達は、新たなコミュニケーション手段で、より一層、隠微に・急速に拡大する時代でしょう。そこには何の情報の裏付けも、合理的な思考もなく、偏見と差別という意識すら感じることもなく、むごい仕打ちを、美しい銀杏並木や清楚な桜並木の中で、人というもの、その集団は行うことがあるのでしょう。
トランプ暴風は、どのような人々の支援、支持で、これからも世界を対立構造に導くのか、まさに視界不明の中にいます。それを笑えない、わが国の実情も、今なおあることを私はこの映画を見て、深く感じてしまいました。
なお、らい予防法違憲国家賠償訴訟は、98年に熊本地裁で国の責任を断罪する明確な判決を下していますし、01年政府と国会が、昨年の16年最高裁自体も、それぞれこの偏見と差別的取扱を謝罪しています。律令時代から続くとも言われる、ハンセン病(らい病)への偏見と差別は、このような公式判断が明確になされた後も、現実には続いていることを、改めて痛みをもって感じました。河瀬直美監督の目は、厳しく、優しく、穏やかでもありますが、このような視点で、さらに作品を続けて欲しいと思います。
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