170609 川を考える <河川法改正20年目の挑戦 多自然川づくり、川が森になる>を読んで
今朝は明るくなってから目覚めたように思うのですが、あるいは目覚めいても目を開けないでいたのかもしれません。ともかく明るくなったからと言ってようやく5時過ぎたばかりなので起きる気がしません。この明るさなら本を読めると、時折目を通す木下 晴一著「古代日本の河川灌漑」をぱらぱらとみながら一時間過ごしました。
割合本格的な論文で、記紀など原文に近い状態で引用してあるのと、取り扱う流域について情報を持っていないこともあり、なかなか理解が進みません。ただ、著者が記紀や続日本紀などに書かれている「溝」にはため池からの水路や運河とは異なる河川感慨の水路も含まれていることを指摘し立証しようとする、なみなみならない意思を感じて、その推論をなんとかフォローしようと前に言ったり後ろに行ったりしながら読んでいます。
弥生時代に始まった水田耕作は、灌漑用水が必須です。ではその灌漑用水はなにを水源としたか。湿地帯などでは湧き水もあったでしょうし、谷戸では沢水もあったでしょう。一定の集団が形成された頃には土堤をつくってため池感慨も可能になってきたでしょう。記録上は日本最古最大とも言われる大阪の狭山池はその一例なのでしょう。では河川感慨はどうか。私は紀ノ川といった大河川からの灌漑は江戸期(たとえば大畑才蔵による藤崎井、小田井など)かもしれないですが、中小河川だと木下氏が指摘されているように、古代にさかのぼることができるのではないかと思っています。
少なくとも、水路・運河ないし類似のものは、中国とはとても比較できませんが、それでも古市大溝や斉明天皇による石造りの大溝があるのですから、技術的には可能だったのではないかと思っています。
さてもう5時を過ぎていますので、本題に入ります。日経コンストラクション記事は時々関心をひくことがありますが、<河川法改正20年目の挑戦 多自然川づくりの評価、写真だけではお粗末>と続く<川が”森”になる、北海道豪雨が見せた脅威>は、中村太士・北海道大学農学研究院教授のインタビューで、連載されたものです。
90年代は今から思えばリオサミットから21世紀に向かって「環境の時代」への高揚を感じることができたように思えます。さまざまな分野の法律に「環境」という文言が目的などとして追加されたり、あの環境基本法も成立した時代でした。
河川法改正もその一つ。当時の全国的な河川保全に向けた住民意識の高まりは相当なものだったと思います。住民参加の河川審議会や委員会などで、河川環境の保全が激しく議論され、洪水対策を含む治水対応としても脱ダムの動きも熱い思いがあったように思います。
さてそれから20年、河川は変わったのでしょうか。国土交通省が法改正20年の検証で立ち上げた「多自然川づくり推進委員会」の委員でもある中村氏が、2つの連載記事で、2点を強調しています。
一つは、多自然型川づくりという、改正法で導入された方式では、外形的な景観変化だけとりあげられ、本来の生物の多様性、生態系の多様性の変化はほとんど考慮されていなかったという点です。
中村氏の表現では<多自然川づくりの実施前後の“スナップショット”がたくさん紹介されました。コンクリートの三面張りの姿から、緑があり川が蛇行しているような姿へと変化を遂げてきた良い事例がたくさん紹介されました。ただ、私が気になったのは、たった1例か2例かで魚が増えたという結果が紹介された以外、他の事例は景観で評価されていたことです。>それも写真だけでポイントだけの紹介です。多自然型川づくりは河川流域全体がどう改善されるかが忘れられています。また、中村氏は指摘していませんが、本来住民参加が基本ですが、一時はそういった組織や手続きが反映されたと思いますが、いまでは忘れ去られているような印象です。
河川の生物データの収集・分析が重要ですが、それがほとんどされていないように思います。中村氏は<河川水辺の国勢調査は5年ごとに決まった場所でどれだけの種類の魚、鳥がいたのかをある意味、無目的に調査するものです。この調査自体は意味があるのですが、時間を経てどういう理由でそうなったのかという原因を突き止める調査フレームになっていません。多自然川づくりの内容や川の流速などの情報もありません。>
実際、<河川環境データベース 紀の川>を見たのですが、まったくといってよいほどデータがないように思います。これは他の河川でもそう違いがないのか、あるいは私のデータ検索に誤りがあるのかここは自信がありません。というのは40年近く前、荒川では(これは東京都かどこかの区が調査したように記憶)膨大な生物種の調査データが河口から中流域まで詳細に収集され書籍化されていました。あるいは調査データの共有ができていないのかもしれません。
ただ、紀ノ川に関して言えば、ウェブ上はもちろん、文献調査でもまじめに探していませんが、見つかっていません。
強いて言えば<国交省 紀の川下流の環境の現状|生物環境|底生動物>とか、<紀ノ川の生き物たち>といった程度のものしかウェブ上ではありませんでした。
なお、荒川の場合、当時日本野鳥の会をはじめ多くの自然観察会が行われていて、いろいろな調査も行われていたように思います。そういう協力があったのかもしれませんが、紀ノ川では流域を見てもそういった組織がどの程度あるのかもよくわかりません。
で、中村氏が環境の面で現場の技術スタッフの構成に問題があると指摘していますが、それは20年以上前から言われていたことでもありますが、旧態依然ですね。景観を考える場合でも、景観工学的アプローチが中心で工学部的発想なのです。景観でも景観生態学や景観哲学などのアプローチができる人材や、生態学・生物学の技術系のスタッフをそろえないと、名前だけの環境改善となり、生物多様性や生態系の多様性には寄与しないことになりますね。
中村氏が指摘しているもう一つの問題、<川が”森”になる>脅威について、とくに氾濫原のアンダーユースが森をつくり、洪水になると大変な流木被害の発生になっているというのです。
<高水敷という氾濫原の部分は、畑などに使用されているケースが多いのですが、人口減少の影響から、徐々に畑として利用されなくなってきました。アンダーユースです。その結果、樹木が生育し始めます。最近目立つのは樹木を伐採するにもお金がないケースです。切ってもその後の処理に苦慮します。都道府県管理の河川はそのため、樹木が生い茂り、川が森のようになっています。>
このことは、アメリカ軍が戦後昭和22年代に全国を航空写真で撮影していますので、その写真を見れば、たとえば紀ノ川の氾濫原は田んぼか畑として利用尽くされていました。見事なほど整然として利用されていました。まるで圃場整備したかのように。ところがその後高水敷堤防ができ堤防内には分譲地がどんどん広があり、氾濫原で会った場所は放置され、いまでは森林です。むろん広場や運動場として使われているところもありますが、それ以外は立派な雑木林です。当然、洪水時は大水で溢れなぎ倒され、中には流木となって下流に流されるわけです。
中村氏の提言を最後に取り上げます。
<元々、水と土砂とのバランスのなかで森は維持されると見るべきです。であるならば、自然流況を可能な限り復元し、総合土砂管理といって水系一貫で土砂の流れをきちんとコントロールすることを考える必要があります。
「洪水攪乱(かくらん)」といってもう少し川が“動く”ようなシステムをつくっていかなければなりません。洪水時にみお筋が動いてくれれば、稚樹のまま流されるので、樹林が拡大することはありません。>
簡単ではないですが、自然とともに生きる長年の叡智を、それが日本人が培ってきたたぐいまれな才能でもあるわけですから、改めて見直すことが必要かと思います。
そろそろ一時間となりました。今日はこの辺で終わりとします。
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