170524 森と都市生活 <Country Gentleman 愛する森を守るために=C・W・ニコル>を読んで
夜はTVニュースを見ますが、朝は暗闇の中ではただ野鳥の鳴き声だけ。そして明るくなって起き出すとNHKFMのクラシック音楽を外まで聞こえる音量で流し放し。外で花に水をやっていてもその音と野鳥の声がうまくハーモニーになって新鮮な空気がさらに居心地よく感じます。
それでも新聞を手に取ると、イギリスでの自爆テロや北朝鮮のミサイル発射問題に、国内では共謀罪を盛り込んだ改正案が衆議院で可決しプライバシーの危機を憂う多くの抗議など、物騒な内容ばかりで、安らかな気持ちも長く続きません。
そして仕事もあまりはかどらない中、いつのまにか5時を過ぎています。本日のお題をと考えてもなかなか気が乗ってこず、少しは気分転換になるテーマをと思っていたら、ニコルさんの<Country Gentleman 愛する森を守るために=C・W・ニコル>の記事にふと目がとまりました。隣の<イチからオシえて 蓄電技術で電力変動に備え 再生エネ拡大「自然任せ」から「計算」へ>とどちらにしようか迷いつつ、二つを取り上げてみるのもいいかもと思ってしまいました。さてどうなることやら。
ニコルさんの記事は、以前もこのブログで取り上げたことがあると思います。それで関連記事を見ると、毎日新聞がニコルさんのコラムを今年3月から毎月1回掲載していて、これが3回目でした。
ニコルさんは、最初のコラム<大地に根を下ろす人への信頼=C・W・ニコル>で、次のように述べて、「究極の紳士」を理想像として、日本で田舎暮らしを続け、森と生態系の再生を目指して努力を続けてきた自負を語っています。
<日本の田舎に暮らして37年になるが、私は日本人の一人として「カントリージェントルマン」たるべく努力したいと思っている。>と。すごいですね。
では、Country Gentlemanとはどんな人かについて、ニコルさんは明快に述べています。
<田舎なくして、土地や水源なくして、都会生活は立ち行かない。英国で生まれ育った者にとって、「田舎に住んでいる」と言えるのは誇るに値することなのだ。
英国では長きにわたり、「田舎」に土地を持たない都会人には選挙権が与えられなかった。暴動や戦争が起きた際、国を守るための人手や馬、食糧を集めることができないからだ。真の誇りとは土地に根ざしたものであり、土地を守り、育む者こそが人々の尊敬を集めたものだ。>
たしかに英国紳士といえば、貴族階級でしょうか。そして映画でしか知りませんが、広大な牧草地をもち、狩猟するのが重要な趣味でもあると感じたりもします。ただ、ニコルさんは、単に田舎に住んだり土地を持つことだけが紳士としての資格を認めているのではなく、「土地を守り、育む者」と述べています。
そして次のコラム<私を助けてくれた礼儀作法=C・W・ニコル>では、彼は英国と日本で礼儀を厳しくしつけられ、修練したことを指摘しています。その内容は新渡戸稲造が指摘するような奥の深いものとは言いがたいですが、十分な教育の機会を得なかったと思われる彼にとっては国立公園レインジャーとしての逞しい技量に加えて、この礼儀作法といったものが紳士に近づく重要な意味を持ったと思われます。
で今回のコラムでは、先の「土地を守り、育む者」を実践した生き様を示しています。彼は
北長野に80年に移り住み、その後黒姫山を中心に薮状態で違った意味で「沈黙の」森を次のようにして、見事に豊かな生態系が息づくアファンの森を作り上げ、維持しているのです。
ここまで書いて、来客対応をしていたらもう7時半になりました。そんなわけで後は簡単にして終わらせてもらいます。
<86年、私は地元の放置林の購入に着手した。いつかこの地に生物多様性豊かな元の森をよみがえらせようとの思いを胸に。それには地元の協力と専門の技術・知識が必要だ。ちょうど猟友会の仲間に、松木(信義)さんという土地のことを知り尽くした林業のプロがいた。それから16年、私たちはともに森林再生に取り組んだ。彼の勧めで、生まれ故郷ウェールズの森林公園にちなんで、森を「アファン」と名づけた。そして2002年、私は森林と資産を寄付し、財団法人「C・W・ニコル アファンの森財団」を設立した。>
そして、その活動は多様な仲間を呼び込み、森の復活とともに人々の心に共同して働く喜びを提供してきたように思えるのです。再び彼の説明を引用します。
<初めの16年は、活動や調査の費用を私が負担したが、現在は財団が引き継いでいる。財団ではあらゆる種類の調査を実施し、異なる分野の専門家を一堂に集めて、それぞれの活動について発表、その後全員で話し合う。これは実に意義があり、重要なことだと思う。すべての生命は必ずどこかでつながっている。異なる分野の研究家と話をするなかで、そうした神秘的ともいえる絆を発見するのは実に刺激的だ。討論の場には、大学教授も学生もいる。研究者、林業家、大学とは無縁の地元の専門家もいる。全員で意見を交換し、次に実施すべき調査や活動を決めるのだ。私たちが知らないことは、森が教えてくれる。>
コモンズとしての森林の利用は、都市住民にとっても多様な機会を提供してくれるいい例だと思うのです。さらに新たな取り組みが生まれてくるでしょう。カントリー・ジェントルマンたらんとするもの、いやカントリー・レディもですが、それぞれの森にチャンスが広がっていると思いたいです。
で、最後に、<イチからオシえて蓄電技術で電力変動に備え 再生エネ拡大「自然任せ」から「計算」へ>の記事にどんな意味があるかですが、見方によれば根は一緒ではないかと思うのです。ここでは、再生可能エネルギーの新たな活用が語られています。あるいはエネルギー利用の偏在を前提に、蓄電の新たな技術に言及されています。それぞれ、原発依存の社会構造から循環社会へ、そして地球環境の持続的発展への道を正当に探る方策として、評価できると思うのです。
ただ、それでほんとにいいのでしょうかということも考えておきたいのです。最近は省エネがかなり普及して、エネルギー消費量もだいぶ下がってきたかもしれません。それでも朝夕とか集中的に電気消費量が増大する傾向に大きな変化がなかったり、夏冬の冷暖房が一挙に集中利用され、極端に消費量が上がるといった傾向に大きな変化はないのではないでしょうか。またゴミの廃棄量はというと、一廃、産廃問わず、増える一方で、処分場の不足が問題になる状況は変わりません。なにかおかしくないでしょうか。
私はいま、いわゆる焼却ゴミの袋を出すのは月1回で十分です。それは極端かもしれませんが、昔ドイツの環境対応を取り扱った番組で放送されたある若い夫婦の映像が忘れられません。一ヶ月に出るゴミは小さな、そうあの海苔の入ったカンくらいのものでも余る程度なのです。水はというと流し放しで平気な日本人が多いですね。
再生利用エネルギーをさらに普及する努力は大切ですが、私たちともに生育する、あるいは生息する多様な生き物たちとの共生を図るのであれば、彼の生息域を狭めたり、その環境を悪化させる方向になっているわれわれの生活様式そのものに見直しの目を向ける必要があるのではないかと思うのです。
現代のカントリー・パースンは、コモンズとしての森林や沿岸域など水域の再生を目指す共同行動が必要であるだけでなく、都市生活により森林などの生態系を脅かすことを避けることが求められているのではないかと思うのです。それが地球生態系に生きる現代的作法、礼儀ではないかと思うのです。 これで今日はおしまい。
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