180530 プラスチックの行き先 <マイクロプラスチック “見えない”汚染の実態>を垣間見て
今日はなにかと忙しく、いつの間にか依頼人との電話が終わったら7時を過ぎていました。これからブログを書くのは少し頭が痛いですが、30分程度で仕上げたいと思います。
話題は新聞を見てもとくに興味をそそるものがなかったので、先日ちらっと見たマイクロプラスチックによる海洋汚染の放送から、少し考えてみたいと思います。
マイクロプラスチックという用語はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。放送はどんな番組だったかとネットを見たら、<クローズアップ現代+ マイクロプラスチック “見えない”汚染の実態>というのがありましたが、この番組自体は15年放送ですので、再放送をみたのか、これと異なるものだったか、たしかニュース番組で少し取り上げられた程度であったような記憶です。ただ、このウェブサイトは割と情報があるので参考になります。
ところで、私がプラスチックによる海洋緒性に注目したのは90年代初頭だったと想います。その後ナホトカ号事件を調査していく中で、石油流出汚染がもたらす被害の累積影響が生態系に与える影響が甚大であることを多くの関係者からのヒアリングで徐々に身にしみて感じるようになりました。プラスチックも石油精製品ですが、石油自体が問題ですね。
その調査の延長で、アラスカ・バルディーズ湾まで飛んでいって、エクソンバルディーズ号油流出事件の顛末を地元で住民などからヒアリングしたり、現場を訪れたりしたのですから、物好きと言えば物好きでした。
その調査の中で知り合った佐和和子氏も、高田馬場にある海洋工学研究所を訪ねていろいろ助言を得たり、彼女も来てもらって情報交換したのはもう20年以上前でしたか。佐和氏とはそれ以来、生態系豊かな各地の写真を掲載したカレンダーをいただいていますが、とくに編集された『プラスチックの海』という書籍はこの分野の先駆的な作品ではないかと想います。当時は、プラスチック粒子といういい方をしていたかと思います。
小笠原諸島父島に打ち上げられたプラスチック片を整理して撮影した写真なども、20年以上前でしたが、問題の深刻さをよく訴えていました。
広がる海のプラスチック汚染という章では、漂流物としてのプラスチック、プラスチック粒子を取り込む海鳥、ウミガメ、海のほ乳類やミズウオなどがとりあげられています。
私と同期の海渡雄一さんも、海の法律というテーマで関係する内外の法規の概要をまとめています。いまは原発問題でとても時間がないでしょうけど。
ところで、なぜ20年以上前の本を取り上げたかというと、問題の本質がほとんど変わっていないことを改めて指摘したかったからです。
プラスチックは非常に便利で多様に製品化したり、工業部品など多面的に使われてきました。しかし、その後始末が簡単ではないのに、まるでリサイクルでクローズドシステムであるかのような法制度の整備で対応できているかのような傾向を感じるのです。
容器包装リサイクル法といったものが一定程度、プラスチックの一部について生活部門で一定のリサイクル効果があることは私も否定しません。それは大きな前進でしょう。しかし、それが適切にさらにクローズドにリサイクルできている状況をつくれているかは疑問です。単に圧縮して埋立処分する状況が変わっていないのではないでしょうか。
昔、私の同期の一人が国会議員で、彼を訪ねるとプラスチック製の背広を着て、リサイクル社会に貢献している前向きの姿勢を見せていましたが、最近よくTVにも映っていますが、別の背広を着ているようで、貫禄も出たようです。ま、国会議員も長くやっていて役職にも就けば、プラスチック製の背広はなかなか似合わないかもしれませんね。相当の哲学というか意志が高くないとだめでしょう。話は違いますが、安倍首相や麻生財務相の背広は、別格です。生地も仕立ても、英国紳士に負けない立派なものですね。
で、リサイクル製品は、残念ながらなかなか市場性を勝ち得ず、結局、廃棄物として処分されるのが大半ではないでしょうか。それでも排気部処理が適切に行われていればまだいいのですが、豊島事件をはじめ、不法投棄は各地で蔓延しています。
私が30年前にボルネオを訪れたとき、そこにもプラスチックボトルなどがすでに先住民の世界に入っていました。陸の孤島で、ボートでしか行けないようなところでもです。そしてその集落のはずれにはプラスチックのゴミが無残に捨てられていました。彼らにはプラスチック製品を購入し使うことはできても、その廃棄処理については一切教わっていないし、行政もそこまで及んでいませんので、少なくとも河の汚染は先住民の世界でひろがっていました。
他方で、先進国・AIなど最先端の技術を駆使できる都市住民は、ほんとうにプラスチックの使用後の廃棄について理解しているでしょうか。スーパーではいくらでも包装袋として渡されます。それはどこにいくのでしょう。マイクロプラスチックになる前に、いくらでも発生抑制する手法があるにもかかわらず、私たちは等閑視し、あるいは必要な手段を講じないで、先住民の世界と大きな違いがない!状態で、生活を送っていることを改めて感じてしまいます。
容器包装リサイクルとして分別排出すればそれでよい、というのも一つかもしれません。少なくとも的確に出している限りは生活者としては一応セーフと言いたいですね。でも、その後の収集、中継、処理までの過程についてしっかり配慮して、社会の仕組みがこれでよいのかを考えることこそ、社会人として求められる知見、意識ではないかと、このマイクロプラスチック問題を見ながら、そして数十年かけて意識しつつ、自らも有効な手立てをとれていないふがいなさを感じながら、今日は筆を置きます。ちょうど30分でした。
また明日。
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