180727 地域人口の好い加減 <美の基準が守るもの>と<ウォルマート、日本撤退の動き 人口減る国、魅力なし>を読んで
人口がどのくらいだと適当なのでしょうかね。それこそ人それぞれかもしれません。それが政治経済、あるいは事業経営(それは八百屋さんから大企業、学校などいろいろ)をになう人によっても異なるでしょう。
私のような人間は、どんな超一流のオペラ観劇や最高のスポーツ鑑賞ができ、高級料理店やすてきなブティックが並んでいようが、あるいは高給が保証されようが、電車や自動車、人の混雑の世界では生活する気にはなれません。過疎がなぜだめなのか私にはわかりません。
住宅は周りに住宅がない方が私には向いています。ま、今は分譲地にいますので、それは現実と違うじゃないかと言われたら、いつかと答えておきますが。
情報媒体にしても政治にしても、経済にしても、そのトップが常に人口減少を問題にします。増やすためにカジノIRなんてものまで平気で推奨するのが現状です。生き方の基本は何なんでしょうね。たしか自治体消滅とかセンセーショナルな指摘も時々紙面を賑わせますね。いくら人口が減っても自治体がなくなるとは限りません。自治体がそれに応じて変容すればいいのです。実態に応じて自治体の殻や仕組み、職員をあわせればいいのです。自治体はこうでなければいけない、なんて中央の模範というか標準で、机上の論理を繰り出すからおかしくなるのではと思うのです。
さて、はじめに経済の動きからとりあげましょうか。昨夕の毎日記事が<特集ワイドウォルマート、日本撤退の動き 人口減る国、魅力なし 変革期、飛躍への好機か>と米小売業最大手のウォールマートの日本撤退という雲行きをかぎつけて、人口減が魅力なしというのでしょうか。ま、たしかにウォールマートならそうかもしれませんね。アメリカ小売業の大規模化の象徴みたいな企業ですからね。
私も四半世紀くらい前、はじめてウォールマートの店に入ったとき、これはなんだと驚きましたが、よくみれば店舗の大きさ、商品の多さは桁違いであっても、中身はたいしたことがないという印象でした。一時的には大規模店舗で人口増を呼び込むことができたとしても、持続性の戦略があったかというと、どうでしょうね。ましてや日本市場がアメリカ消費者のおおらかさと比べて厳しい中、よほどの商戦略を生み出さないと生き残れないと思っていました。
だいたい西友を買収しても、西友を利用していたことがありますが、昔はともかくある時期からはスーパーとしての魅力を欠いていたのですから、単純に既存店舗を安易に利用しようとするのでは、うまくいかないのが当たり前ですね。買収後どう変わったかは私も利用しておらず知りませんが、あまりいい評判は聞きません。
そのようなウォールマートが人口減で魅力なしといって、日本から撤退しても、おそるに足りないと理解するのが賢い消費者、あるいは小売り事業者ではないかと思います。
人口減はとっくに想定されていたことで、それに応じた店舗経営を改革するのが事業者の才覚のはず、ウォールマートの北米型では日本にそのまま通用するとは思えません。
それは他の既存スーパーも人口減に応じた戦略を講じないと、コンビニのみが勝ち残ることになるでしょう。コンビニはすでに大幅に事業の多角化という形でサービスの多様化、そして他業種、役所との連携など、どんどん進化していますね。この話はこの程度にして、ウォールマートの撤退自体は、取り上げるに値しないくらいにかんがえてもいいのかなと思うのです。
ところで、もう一つの記事<花谷寿人の体温計美の基準が守るもの>は上記記事の隣に並んでいたのですが、ここも神奈川県で初めて過疎地域に指定されたという、真鶴町が取り上げられています。
懐かしい名前もでていました。まちづくり担当の<卜部(うらべ)直也さん(45)>です。一昔前、美の条例、美の基準が問題になった事件で、私と友人のHさん、そしてこの基準作りの立役者の一人、I教授が町から依頼されて担当したとき、まだ若い熱心な職員として登場したのが彼でした。
占部さんが書いたエッセイを見つけました。<美の基準が生み出すもの-生活景の美しさ->です。ついでに美の基準そのものを皆さんにも読んでもらいたいなと思うのです。
94年に「まちづくり条例」を策定し、独自の土地利用計画をつくり、さまざまな開発圧力に抗して、真鶴の町の保全に精力的に活動した三木町長は、すでに引退していました。それでもその意欲を引き継いだ当時の町長が美の基準を守ろうと努力されていました。
ただ、残念ながら議員の多くはそういった美の基準の高く掲げた、繊細でさまざまな町の構成要素にあった具体的な指針を理解しようとしていない印象を受けました。それでも問題の開発は、その後無理強いはしなかったと思います。法廷闘争を準備していましたが、結局、そこまでに至らなかったのです。
で、改めてこの美の基準は、できれば多くの人に読んでもらいたいと思うのです。私は日弁連で調査した93年頃でしたか、三木町長とお会いして、まだ原案段階のものを頂き、その素晴らしさに感動しました。それはどの地域でも内容は微妙に違っても、美の基準を地域にあった形で作れるはずですし、それこそわが町の自慢になるはずです。あるいは改めて気づくことも少なくないと思われます。
過疎化することに不安を抱く必要はないと思います。過疎化という概念自体、相対的なものであり、その地域自体、どのくらいの人口がちょうどいい具合かは、それぞれの時代でそれぞれの住民が決める、考えればいいのです。それよりも自分の住むまちの美の基準を自分たちで考える、取り上げることこそ、より生きがいを感じるのではないでしょうか。それは人口減についてあれこれ考えるよりも、より根源的な価値を見いだす有益な行為ではないでしょうか。
ちょうど1時間となりました。今日は2つの和解実践で忙しくして、少々疲れた中、美の基準を思い出し、少し癒やされた期分になりました。また明日。
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