180929 雅と人の性 <澤田瞳子 王朝の雅 安穏とはいかない人間模様>などを読みながら
明日は猛烈な台風が日本列島を縦断するということで、スーパーには人の波です。以前は気象予測もそれほど正確ではなかったかもしれませんが、最近は進路も速度変化やその脅威も極めて正確になってきたように思います。そのうえ台風の脅威が気候変動の影響を受けてかその威力が増しているようです。たいていの人は、その脅威を事前に告知されているので、備えを万全にしようとしているのでしょう。
そういった気象予報のない時代、自然災害は天災として、天罰といったとらえ方を長い間していたのではないかと思います。神社仏閣に天罰を受けないように依拠していたのではないでしょうか。たとえば平安時代なんかは、一部を除き戦争もなく、死刑もなく(東北で最期まで抵抗した阿弖流為を除き)、平和を満喫していたようにも考えられていますね。
でも澤田ふじ子氏は異なる視点で、平安時代をはじめ天平から近世まで、たとえば『天平大仏記』『陸奥甲冑記』『流離の海 私本平家物語』などで、その社会に生きる底辺の人々から高貴な人々までの実相に迫る小説を私たちに提供してくれています。私はファンの一人となっています。
今朝の毎日記事<澤田瞳子の日本史寄り道隠れ道王朝の雅 安穏とはいかない人間模様>を読みながら、その語り口と澤田という名前から、しばらく読んでいない澤田ふじ子氏のことをふと思い出しました。澤田瞳子(とうこ)さんのことをウェブで調べたら、お母さんはふじ子氏だったのですね。
いやはや驚きつつも、母親の視線と似つつも、新聞紙面とエッセイ的な内容のせいかもしれませんが、フラットな筆運びに思えました。
瞳子氏の小説はすでに相当あるようです。どれか一読してみたくなりました。
さて記事では<王朝の雅>の実相について、「葵祭」で目にしたり、源氏物語などで描かれている貴族の生活をイメージする現代人に、高貴な身分の人も、現代の人とさほど大きく違わないかのような事例を取り上げています。
<毎年5月15日に京都で開催される「葵(あおい)祭」は、王朝の雅(みやび)を伝える祭礼として、人気が高い。きらびやかな十二単(ひとえ)をまとった斎王代が腰輿(およよ)と呼ばれる輿(こし)に乗り、平安装束に身を固めた男女の官人、騎乗の武官、美しい牛車などとともに都大路を練り歩く。>
40年くらい前、私も一度だけ見ましたが、どうも雅なものにはあまり関心がなかったようで、垣間見た程度でその次にみたいという気持ちにはならなかったようです。たしか鎌倉でも似たような行事があったかと思いますが、鎌倉居住時代も一度もみたことがなかったですね。
とはいえ多くの人にいまでも人気があるようですね。牛車(ぎっしゃ)をゆったりと練り歩く姿には雅さの典型かもしれません。
しかし瞳子氏は<「枕草子」の筆者である清少納言は、当時、もっとも一般的だった牛車の一種・網代車(あじろぐるま)を指して、「網代車は速い方がいい。人の門前をさっと走り過ぎて、お供の者がその後をついて駆けているのを眺め、はて今のは誰の車だったかなと考えるのが面白い。遅い車はつまらない」と評している。>として、自転車並みのスピードがでて、乗り手の人や牛によってはスピード狂のようにも、また暴れ牛になることもあったことを指摘しています。
瞳子氏は、さらに<「源氏物語」や「落窪物語」などの平安文学には、祭り見物などの折、従者たちが車の停車場所を巡って争う「車争(くるまあらそい)」の様が描かれる。それもただ、他の車を押しやるだけではなく、場合によっては石を投げつけ、相手の牛車をほとんど堀に落としてしまう粗暴ぶり。>として、<現代社会にいろいろな性格の人間がいるごとく、一見、優雅と映る平安時代にも気の荒い人物はいたのだ。>と指摘されています。
この牛車の暴走や従者などの粗暴さに関しては、五木寛之氏が『親鸞』でリアルに描いていますね。これは臨場感あふれるもので、五木氏らしい親鸞像の一端を示していますが・・
母親のふじ子氏の場合、現代社会がもつ格差や不公正さ、差別的取扱いの原点であるかのごとく、奈良・平安から鎌倉・室町と、それぞれの時代の奴隷制の実態や身分制における人間の実相に迫る描写をしているように思えます。
瞳子氏は、<清少納言の主・藤原定子の弟である藤原隆家は、当代一の「さがな者(荒くれ者)」。>と紹介し、<時の上皇に矢を射かけたり・・・、従者を武装させて往来でけんかを起こしかけたり・・・赴任した大宰府では、折しも海を渡って攻めてきた女真族3000人に抵抗すべく兵を募り、中央の指示を仰がぬままそれを撃退したのだから、まさに「戦う貴族」というべき人物と言える。>と貴族が荒武者のごとき性格の者もいたというのです。
ま、これは不思議に値しませんね。天皇・上皇でもそうなのですから。いやいや、僧侶・神人はそれ以上でしょうか。私の?連載が中途になったままの伊藤正敏著『寺社勢力の中世』では、中世の始まりは祇園社の河東占地で、鴨川右岸より東側を祇園社が占拠した1070年2月20日だそうです。無縁所の始まりと言うことです。
そこでは朝廷はもちろんその後に成立した幕府権力も及ばない不入地(寺社勢力による独立した警察権・支配権)となったそうです。それだけ僧侶も神官も軍事、経済・政治力を握ってしまっていたのですね。悪僧という言葉も頻繁に使われていたようです。そのことはいずれ書きたいと思っています。
最期に、荒々しいのは男性の専売特許でないことは当時も今も同じでしょうか。瞳子氏は、女性も散見するとして、<村上天皇の中宮・藤原安子は、関白太政大臣の孫として生まれ、14歳で入内した、まさに絵に描いたようなお姫さま。それにもかかわらず、他の妃(きさき)の美しさに嫉妬した末、壁の割れ目から土器のかけらを投げつけるという、およそ深窓の姫君とは思い難いまねをしている。しかもそれに怒った天皇が彼女の兄弟を謹慎させると、それに詰め寄って処分を撤回させたというから、気の強いことこの上ない。>
なかなか文字として残されているのが少ないだけで、実際は、結構そういう女性はいたと思うのです。「平家物語」に登場する巴御前は強力と強弓に加え美貌の女武者として描かれ、木曽義仲に仕えて(連れ合い?)最期まで闘ったというのですね。豪傑ですね。
私たち人間は、社会が作ったさまざまな身分、階級、職業、夫、妻などある枠組みのある種の仮面をつけることを社会的に求められ、自らもそうなることにつとめるのかもしれません。平安時代で言えば、公家、その官職、摂政や関白など、道長の日記『御堂関白記』はほんの一部をさらっと見た(読んだとまでいえません)とき、彼も普通の人かなと思ってしまいます。
それは現代で言えばさまざまな職業もそうでしょう。国会議員や閣僚、官僚といった人から、法曹三者の人、経営者、労働者、などなど、その仕事の時はある種仮面をつけてそれぞれの仕事を通じて演じているのかもしれません。でも人間の本性はいつも変わらないものがもしかしたら縄文以来連綿と続いているのかもしれません。
今日はこれにておしまい。また明日。
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