たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

「山のきもち」考その4 <林業現場の新参入者の思いと山という「風土生命体」を考えてみる>

2017-12-13 | 農林業のあり方

171213 「山のきもち」考その4 <林業現場の新参入者の思いと山という「風土生命体」を考えてみる>

 

元朝日新聞記者・編集者でジャーナリストの辰濃和男氏が今月6日に永眠されたことをウィキペディアで知りました。天声人語でさまざまな言葉を残され、多くの著作を出され、『四国遍路』などでは日本人の魂に迫るものがあり、自然への思いも深い方でした。哀悼の意を表したいと思います。

 

私が彼と出会ったのは、高尾山を守る運動、そして天狗裁判という圏央道差止等の各種訴訟の中です。私自身は高尾山の特異性といったものをこの運動・訴訟を通じて学ぶことになりました。その中で、辰野さんからも大きな影響を受けたように思います。彼が高尾山、山というものに対して「風土生命体」という概念で全体像、本質をとらえ、裁判の中で意見表明しました。

 

穏やかな方でしたが、高尾山がもつその多様な価値は、山というものがもつ人と各種生命体(それは非生命体とされる鉱物などを含め)本質的な価値を追求し、その価値を無視して破壊しようとする施策に対しては敢然と立ち向かい、その瞳は輝いてました。

 

その「風土生命体」について、彼の陳述書から故人のお断りを得ていませんが、訴訟の中で活用させていただいた一人して、お許し願いたいと存じます。

 

辰野さんは「風土生命体に融和して」との項目で、格調高く次のように述べています。

 

「高尾山や八王子城跡(注 後者も訴訟対象でした)の主人公は、ムササピであり、オオタカです。プナやカシも主人公だし、イタチやミミズも主人公です。新参者の人聞はその末端にいます。生きものだけではない。生きものを育む水も、土も、光も、風土生命体の主人公です。

要するに、生きものも土も水も光も、そのすべてが主人公なのです。高尾山のすべてを包み込む混沌たる実体を表現するのに、私は〈高尾の風土生命体〉という言葉を使っています。人聞は、この生命体の中にいちばん遅れてやってきて、生命体の隅っこに溶け込ませてもらっている生きものにすぎないのです。このことを謙虚に受け止めましょう。」

 

さらに次の言葉も私は惹かれます。

「風土生命体は命に満ちた存在です。自然科学の思考では生物と無生物を区別します。しかし「すべてが混じりあう海然一体の風土生命体Jという考え方にたつと、生物・無生物の区別をいいたてるよりも、その一体性、融合性、有機性、循環性に目を向けたほうが実体をつかみやすい。岩は砕けて土砂になり、落ち葉は土になる。雨は土にしみこみ、土は木や草を育てる。生物とか無生物とか人聞が勝手につくった分類などおかまいなしに風土生命体のすべてが一体となり、わかちがたくつながり、命のうたを歌っています。」

 

その生命体としての命がいかに敏感で脆弱なものか、赤子を、あるいは病床にある人を思えばすぐにわかりますね。辰野さんは、国が進める工事について次のように至言を投じます。

 

「風土生命体は、掘れば、削れば血が噴き出るものです。傷の影響は全体におよぶ恐れがあります。風土生命体をトンネルで貫くということは、きわめて残酷な行為です。生きている烏が矢で貫かれた姿を想像してみてください。トンネル工事は生きている高尾山をくし刺しにするのです。」と。

 

長い引用になりましたが、それでも辰野さんの高尾山保全のために情熱をかけた文章のほんの一部です。

 

さて話変わって、もう一つの話題「山のきもち」に移りましょう。辰野さんの言葉との関係債はうまく整理できませんが、山の現状とそこに働く人たちの思いの一端を感じるのも大事かなと思うのです。

 

山本悟氏は、「林業の現場も活発化」という章で、新たな林業作業の動きを追っています。

一つは林業でも稼げるという、57人の集落で年数1000万円超を稼ぐようになった最近専業林家になった例を取り上げています。

 

所有する山林30haがあり、建設・土木会社を経験してきた親子の経験もあり、安い機械などで低予算により一定の収入が上げられたのでしょうか。経費を控除するとさほど大きな所得ではないかもしれませんが、自由と豊かな自然環境は代えがたい仕事場でしょうね。

 

こういった「自伐林家」(林地所有者)の新たな動きも受容ですが、中でも補助金に依存しないでできるという、愛媛県の菊地林業はミカン農業との兼業でやっている菊地俊一郎さんのような中堅層がでてきたのはうれしいですね。

 

で、重要なのは著名な個人林家の大橋慶三郎氏も強調されていますが、林業で稼ぐのではなく、安定的な別の収入源をもって林業を行うことで、持続的な適正な林業を行うことができると言ったような話だったと思います。この菊地さんもそういうマインドをお持ちの方でですね。実際、日本の個人林家はほとんどがそうであったと思うのです。その心が失われつつあるのが心配ですが。

 

山本悟氏が指摘している重要なことで、「もうかる林業」より「食える林業」というフレーズですね。若い世代はすでにバブル崩壊を経験し、金の亡者の盛衰を実体験しなくても、肌で感じてきているのではないでしょうか。食べるだけの収入があれば、自分の心身が充足できる生き方ができる場所で仕事をすることの方がいいと考える人も増えてきているように思います。そんな若い世代に適切に林業という職場を改善して提供する必要があるように思うのです。

 

山本氏が紹介している「成長著しい若者による林業会社」の一つ、「東京チェーンソーズ」は東京唯一の村、檜原村を拠点としています。この村には何度も行ったことがあり、戦後初期頃までまだ焼き畑が行われていた箇所もあります。戦後裸山状態だったとき、多くの人が大変な苦労して植林した話しを写真などで教えてもらったことがあります。とてもいいところです。そんなところの若者が一つの組織で各地に林業技術を披露しているのはいいですね。

 

チェーンソーはそれ自体、慣れれば伐る作業は案外簡単だと思います。しかし、急傾斜地、枝が張った林、崖地付近、などなど伐倒現場によってはとても危険で、事故も一番多いくらいです。いまもなおとても危険な作業です。安全対策も含め彼らが基本技術を普及しつつ、その多様な用途を広めることも重要でしょうね。

 

若者の中に、女性も増えてきているそうです。高性能林業機械できちんとしたキャビン(冷暖房完備にネット通信で遠隔操作が可能と行った欧米型はまだ無理かも?)がついていれば、安全で力もいらず大量生産を女性が担う先導になりえるでしょうね。いやいや、チェーンソー自体、安全配慮さえしっかりしていれば(この点は女性の方が向いているかも)、そういった高性能林業機械に頼らず、女性の進出がもっと可能ではないかと思うのです。

 

建設現場など、昔は男性の職場と言われたところに、女性の進出が著しいですね。山は男性ばかりで、寺社仏閣で女人禁制(維新まで)の感覚が、林業の世界でも山の祟りなどといって、女性を近づけなかった慣行が最近まであったようにも聞きます。それは時代にマッチしませんね。

 

むろんトイレなど整備されていないので、山の現場では少し大変かもしれませんが、もともと農家では女性が野で用を足すことは当たり前の時代がずっと続いていたのですし、山登り、キャンプでも、山小屋がないところでは、やはり現代女性も同じ事ですね。

 

たいして重要な障害ではないように思うのは、甘いでしょうかね。

 

さきほど述べた林地所有者の自伐林家と異なり、他人所有の林地を自伐するのを「自伐型林家」と呼んでいるそうですが、その先駆け的な存在、山本氏も紹介していますが「NPO法人土佐の森・救援隊理事長、中嶋健造」さんは、私も以前、和歌山県の招待で来られたとき、その講演やその後の談話で、話しましたが、すごいエネルギッシュで、見事に小規模林家というかそれにも満たない林地所有者の心をつかむ、合理的・経済的・アットホーム的なシステムをこしらえたなと思うのです。

 

そのシステムは<土佐の森・救援隊>のウェブ情報<土佐方式>が参考になります。もう5年以上前のことで、そのときの資料は内容があって、アップできれば、こんどやってみようかと思います。

 

山は、いろんな人の取り組みを待っているのではと思うのです。それは林業もその一つでしょう。それ以外にも、私も参加してきた学習型のプロジェクトや、C.W.ニコル・アファンの森、柳生博の八ヶ岳倶楽部など、いろいろな方法での山への関わりを、山のきもちは待ってくれているのではと思っています。

 

そのとき常に忘れてはならないのは、辰野さんが残された「風土生命体」というコンセプトでしょうか。


アップサイクルはあなた次第 <広がるアップサイクル リサイクルの一歩先へ>を読みながら

2017-12-12 | 廃棄物の考え方

171212 アップサイクルはあなた次第 <広がるアップサイクル リサイクルの一歩先へ>を読みながら

 

リサイクルという言葉が人口に膾炙し出したのはいつ頃でしょうか。70年代初頭でしょうか。判然としませんが、そのころは学生は日米安保反対闘争でまだきな臭い状況でしたか。そんな学生ばかりでなく、60年代後半にわき上がってきたフォークソングが若者の心をとらえていたようにも思えます。でも東京都のゴミ戦争の中でもリサイクルやゴミの分別による排出抑制を考えるほどの若者は少なかったように思います。

 

80年代でしたかね、次第にリサイクルという言葉が生活の中に定着するようになったのは。でも実際は大量生産、大量消費、大量廃棄が堂々とまかり通っていました。私が熱帯林問題に関わりはじめたときも、原木はそのシステムの歯車というか、使い捨ての一つでしかなかったように思います。

 

それが今日ではリサイクルからリユースと、私たち一人一人が生活中で自然と意識化して、選択するようになってきたように思います。とりわけ子どもや若い世代は、学校教育の中で身につけてきたように思います。意識化されていない大人の方が喫煙問題と同様に問題かもしれません。

 

さて今朝の毎日では<衣・FASHION広がるアップサイクル リサイクルの一歩先へ>というタイトルで、野村房代、川畑さおり両記者が、主にファッションを念頭に、「アップサイクル」なる新たなワイズ・ユースが広がっていることを紹介しています。

 

なんだろうと思ったら、これまでのリサイクルやリユースは使用後の対応でしたが、<製造過程で生じた廃棄物や余剰在庫を材料に、価値の高い商品を生み出すことを指す。>ということです。

 

そのフィロソフィーというか理念的な意味は少し深いようです。<任意団体「エシカルファッションジャパン」代表の竹村伊央(いお)さんは・・・「実は使用済みの衣類より、製品化までに廃棄される布の方が何倍も多い。そうした廃棄物を逆に価値の高いものに変えるのが本来の定義」と説明する。>

 

さらに<米国や北大西洋条約機構(NATO)の軍服をリメークし・・・>それを<今夏から日本で販売を手がける「ワンオー」のディレクター、大坪洋介さんは「軍服に手を加えることで戦争を否定する狙いもある。社会的に意義のある活動に賛同した」と話す。>とよりメッセージ性を持つ形でクリエイティブになっているようです。

 

いろいろなそのアップサイクル商品を写真等で紹介していますが、興味深いと思ったのが次のもの。<名古屋市のバッグブランド「モデコ」は、消防服やフローリングの端材、車のシートベルトといった産業廃棄物を生かした商品を展開する。>

 

この制作者の意図がなかなか魅力的です。<10年にブランドを設立したデザイナーの水野浩行さんは「耐火性や強度があり、バッグの素材として非常に優秀」と言う。消防服のバッグは、市消防局から「交換のため廃棄する消防服を有効活用してもらえないか」と相談を受けて13年に発売。現在は川崎市や広島市など6自治体と提携している。それぞれ色やデザインが異なり、しみや傷の付き方もさまざまで味わいがある。水野さんは「ファストファッションが生まれ、誰もが気軽にファッションを楽しめる時代になった一方、生産者や環境に対する配慮が十分ではない。デザインや安さだけではない魅力に気づいてもらえる商品を届ける責任は我々にあるが、消費者にも変わってもらえたら」と語る。>

 

このような傾向の背景については<震災を経て、ファッションにも人や環境に優しい視点が求められるようになった>といった見方も示されています。

 

さらにより先を見通して、<竹村さんは「ごみの活用はいわば後手の対応。今後は無駄のない裁断や3Dプリンターの活用といった、ごみ自体を出さないものづくりが必要になる」と課題も提起する。>

 

ファッションに誰しも興味を持ち追求するというか、追随するというか、そのためにはどんな犠牲も払うことに頓着しない人は少なくないでしょう。それもまた生き方かもしれません。しかし、ファッション追求がもたらす裏側の面、その分廃棄物が排出され、また再生可能でないもの、有害なものが環境に出回っていることも忘れて欲しくないですね。ま、それは私にも言えますが。

 

ところで、このアップサイクルは、別にファッションに限りません。あらゆる分野で見直しが必要でしょう。いや、すでに多様な分野で実施されてきたのではないかと思います。とりわけ生産分野では。トヨタなど自動車産業では製造過程でその配慮を徹底してきたのではないでしょうか。第一次産業においても、たとえば林業では枝葉などは廃棄されていましたが、少なくともバイオマスとして活用する方向が定着しつつあると思います。

 

ビル建設などでも、意匠のすばらしい建物ほど、まったく新しい素材でも意匠上不要とされれば廃棄物となり、建築現場はその量がどれほど多いか驚かされます。3D設計・施工がビルなど大規模なものについても可能になれば、もしかしたら廃棄物も相当減少するかもしれません。アップリサイクル、改めて多面的な活用の智慧をさまざまな分野で試して欲しいと期待したいです。

 

30分程度で書き上げましたが、昨夜少し考えるところがあったためか?睡眠時間がわずかだったため、今日は早めに仕事を終わらせようかと思います。

 

そんなわけで、今日はこの辺でおしまい。また明日。


「山のきもち」考その3 <林業の課題~山林、人、道具、林産業・森林のあり方を考えてみる>

2017-12-12 | 農林業のあり方

171212 「山のきもち」考その3 <林業の課題~山林、人、道具、林産業・森林のあり方を考えてみる>

 

昼休みを利用して、再び山本悟氏著『山のきもち』を取り上げ、今回はその課題の章を私なりにアプローチを試みてみたいと思います。

 

林業、林産業の課題はというと、あげだすと長い間の鬱積のようなものがどんどん噴出するかもしれません。私自身が体験したのはほんの一部ですので、山本氏が取材した内容は非常に参考になります。

 

日本の森林面積2510ha、人工林面積1035haは、いずれも世界に誇る規模ですね。ここで山本氏は、その森林の成長により年当たり7000m³としています。これに対し、木材の需給表を基に、国内総需要量7581万m³、うち国内生産量が2306万m³、他方で輸入量が5215万m³と圧倒的に輸入に依存している状況を指摘しています。

 

木材の需給でいえば、国内年間成長量(換言すれば利息的なもの)で、年間需要に応えられるのに、外材に依存し、国内材は蓄積されるまま(放置されている!)ことが示されています。

 

ここで、山本氏は「現状では、成長量の7割の5000万m³を集めるのが精一杯との見方があり」として、なぜ7割かを問題提起し、その原因を探っています。ただ、5000万m³を伐採・搬出できるという趣旨であれば、そのような実現可能性があるのか、林野庁の目標かもしれませんが、実効性ある計画があるとはなかなか信じがたい数字です。いずれにしても現在の実数が2300万m³程度であることは間違いないのでしょう。ここが問題であることは誰もが認めることでしょう。

 

山本氏が「構造上の問題として、①小規模林家、②就業者の高齢化、③技術者不足」をあげています。いずれも人の面から問題提起しています。しかも林業生産現場に限った問題として。山本氏が指摘している具体的な数値はいちいち引用しませんが、深刻な数字であることは確かで、林野庁がさまざまな施策を次々と送り出してきましたが、常に大きな壁になっていると思われます。

 

農地の零細錯圃とその農家構造と似たような関係にあるかと思います。農地の場合は遊休農地といった問題が、林地であれば荒廃地という問題が、長年にわたって懸案事項とされてきたものの抜本的な解決の糸口が見えない状態でしょうか。

 

高齢化については、「緑の雇用」制度などである程度若い世代が参入しつつあるように思うのですが、技術力不足という側面は多様な側面で本気で検討する必要があると思われるのです。チェーンソー利用時の事故は相当数起こっています。それは環境条件の変化や厳しい条件による影響もあるでしょうが、基本的には伐採等に関する安全衛生規則を習熟している人が少ない、あるいはこれを軽視する作業現場の状況も影響すると思うのですが、やはり基本的な技術が継承されていないことではないかと思うのです。

 

時折話題にでますが、昔は木守というのか、杣人のような専門技術者が必ず森林にいてその生態系をも含め熟知、当然使う道具や木々の種類・性質を理解しつつ、林業を行い、森林を守ってきたそういう伝統が、その担い手を失い、優れた導き手が森の中にいないことが問題ではないかと思うのです。

 

緑の雇用制度でいろんな職業を経た人、あるいは若い世代が林業に入ってきています。多くは短期間の林業訓練で現場に出て継続的な研修で基本的技術を学ぶ制度設計になっているようですが、これでは新たな林業づくりの担い手に育つことは容易でないでしょう。

 

この点は、欧州並みに、林業大学校がようやく少しずつ各地で生まれ、真の林業技術専門家が育ってきているようですが、期間も短いですし、その資格自体がまだ林業界で評価される状況にはないように思われますし、その能力を十分発揮できる現場が少ないように思われます。今後に期待したいところです。

 

山本氏は、高性能林業機械の導入に一つの光明を見ているようです。たしかに私も従来の建設機械をベースにアタッチメントだけを林業用機械にするような、「 」付き高性能というのはどうかと思っていましたが、最近はコマツでしょうかヨーロッパ仕様のようなベースも含め林業用に一体化した、そしてネット通信やAIなどを導入した、ネット時代に即応するような機械の導入もわが国で始まったようですので、それは期待したいと思われます。

 

それにしてもこのような最新鋭の機械はもちろん、従前型のハーベスターやプロセッサでさえ、わが国の森林所有構造・小規模林家の集まりでは、なかなか大規模・継続事業が行える状況になく、宝の持ち腐れというか、コストパフォーマンスがかえって悪いことになりかねませんね。

 

しかも注意しないといけないのは、農地の錯圃と同じように、森林も散在しているのが実情です。小規模の上、あちこちにさらに小規模面積に別れているのですから、零細農家の所有面積1~5haというのも、作業できる面積は筆ごとになり、別れているため、いわば「林家」に分類されない面積しか所有していないのと実質的には変わらない面があります。

 

そしてよりやっかいなのが、境界が不明、所有者不明という、増田元総務大臣が主導している問題がここでも大きな壁になります。それは以前は木守(各地でいろいろ呼称が違うようです)といった専門技術者が、そういった小規模林地所有者のために、集積して管理していたのですが、外材輸入や非木材利用が進み、コスト倒れになると言うことで、所有者が管理から離れていき、そういった専門家も山にいなくなったことが問題ではないかと思うのです。

 

この解決を60年経過しても遅々として進まない地積測量を待っていては、一向に光明が見えてこないように思うのです。GPSGISなどの技術をより森林にあうような境界確定の仕組みを使うことも必要かもしれません。さらにいえば、思い切って一定の範囲について、境界は概要だけで、全体として管理して、収支をその中で調整するような抜本的な仕組みをも検討して良いのではないかと思うのです。

 

山本氏は、より詳細なデータや事例を紹介していますが、またこのシリーズの中で取り上げればと思います。

 

山のきもちとは何か、にちっとも近づいていないように思う向きもあるかもしれません。いつかそれに近づきたいと思っています。

 

ちょうど一時間くらいとなりましたので、中途半端になっていますが、この辺でこのテーマは今日はおしまい。


小学生の体育は <組み体操事故 東京・世田谷区が賠償金 生徒側と和解>などを読みながら

2017-12-11 | スポーツ

171211 小学生の体育は <組み体操事故東京・世田谷区が賠償金 生徒側と和解>などを読みながら

 

午前中は調停事件で家裁に出かけて2時間過ごしました。午後は交通事故や労働事件、成年後見の件などで、打合せなどしていると、いつの間にか5時近くになっています。今日は連載?ものは休止して、本日の話題だけにしようかと思います。

 

さて今日の毎日ウェブ情報では上記のニュースが出ていました。最近よく話題になる組み体操事故ですが、和解解決の中で改善策が盛り込まれている点、その被害が脳脊髄液減少症であることから、少し注目しています。

 

上記記事によると、<小学6年の時に組み体操の練習で転倒して脳脊髄(せきずい)液減少症となり、後遺症が残ったとして、東京都世田谷区の中学3年の男子生徒(15)と両親が、区に損害賠償を求めた訴訟は11日、東京地裁(鈴木正弘裁判長)で和解が成立した。>とのこと。

 

和解の骨子は<区が事故後の対応の不十分さを認めた上で「遺憾と謝罪の意」を示し、賠償金として1000万円を支払う内容。再発防止策として、区内の学校で組み体操を行う場合に指導者が事前に実技研修を受けることなども盛り込まれた。>

 

この内容だけでは、脳脊髄液減少症(現在の厚労省見解・ガイドラインでは脳脊髄液漏出症とされていますが、裁判所の認定に従ったと思われる記事の表現を維持します)の程度や訴えた損害額がわかりませんので、どの程度の後遺症との心証を裁判所が抱いていたかは推測するしかありませんが、和解金が1000万円ですので、後遺症と認定されたことは確かだと思われます。しかも後遺障害等級12級よりも重い、下位の等級の心証であったのではないかと推測します。

 

訴状での請求内容が明らかではないですが、相当重い内容で、請求額も等級5級とか7級程度を基礎にして損害算定していたのではないかと思われます。

 

父親の会見では<「賠償金だけの判決より、再発防止につなげるため、和解を選んだ。今後、区が本当に行動できるか見続けていきたい」と話した。>ということですから、判決で請求額に近い損害金を求めるより、再発防止策という一般予防に力点を置いた解決策で、譲歩したのではと思われるのです。

 

たしかに脳脊髄液漏出症との診断に争いがなければ、通常、後遺障害等級も相当重くなり得ますし、労働能力喪失率もその分高くなり、逸失利益額が大きな金額となり得ます。和解金1000万円ということから、相当譲歩した金額としても結構な額ですので、やはり残念ながら重い症状ではないかと心配します。

 

それではどのようにして起こったのかですが、記事では<生徒は2014年4月、体育館で倒立を練習した際、補助者の同級生が受け止められず転倒。後遺症が残ったとして今年2月に区と担当教諭を提訴していた。>というのですから、少し驚きです。

 

組み体操としてのピラミッドやタワーでは危険性がかなり認識されてきていますが、単に倒立の練習で倒れただけで、重傷の後遺症が残ったわけですから、これは関係者の多く想定していないのが普通ではないでしょうか。

 

具体的な倒立の練習の仕方や、受け止めにあたった生徒と倒れた生徒の身長・体重・運動能力などよくわかりませんが、それでも状況によっては起こりうると思われます。また、脳脊髄液漏出症自体、どの程度の外傷、外圧により生じるかは、解明されていないように思います。

 

しかし、漏出症との画像診断がされるような症状は大変重く、ブラッドパッチ(自家血硬膜外注入)などにより一定の改善効果が認められるものの、一生苦しむ可能性がありえるでしょう。

 

その意味では、小学生や子どもの体育のあり方、体操だけでなくバスケや柔道など、従来の指導方法について、こういった事故をよく検証して、あらゆる体育の練習で起こりうる事故を回避するよう、指導体制を見直す必要を感じています。

 

それにはこの事故などは、関係者の匿名性を確保しつつ、できるだけ詳細に公表して、どのような練習方法の中で起こったかを、刑事事件でいえば時系列を秒単位で、関係者の四肢の動きをしっかり再現して、そのときの指導者の言動も含めることが大事だと思います。労災事故の事例報告では、大ざっぱな事故報告がおざなり的になされることが少なくありません。それではなんのための報告か疑問さえ浮かびます。再発防止をしっかり注意喚起する意味は具体性が必要です。

 

その点、この件は訴訟で相当詳細な事実関係が示されていると思われます。むろん判決が出ていないので、双方の対立する事実関係となりますが、それを考慮しつつも、学校側の安全配慮義務を認めた形の和解が成立しているのですから、それにそった事実関係の整理を心がければできうることだと思います。

 

ところで、倒立といった案外、危険性を感じない体操でも危険がはらんでいることは以前からある程度は知られていることです。

 

たとえばこの<組み体操低い技も骨折注意…ピラミッド、タワーより多発>という記事は、その一例でしょう。

 

<2016年度に小中学校の運動会などで行った組み体操中の事故で、九州・沖縄・山口9県で少なくとも39人の児童生徒が骨折していたことが分かった。その6割にあたる23人は、高さがあって危険とされる技の「ピラミッド」や「タワー」ではなく、低い位置で2人1組で行う「補助倒立」などの技で骨折していた。スポーツ庁はピラミッドなどへの注意を呼びかけているが、専門家は「簡単とされる技も油断はできない」と警鐘を鳴らす。【杉山雄飛】>

 

ここでは骨折ということが取り上げられています。その程度の事故は容易に想定できるはずです。それが今回のような脳脊髄液漏出症といった重大な後遺症となると、話は違います。

 

この記事では<スポーツ庁は16年3月、都道府県教委などへの通知で「タワーやピラミッドは段数が低くても事故が発生している。安全が確認できない場合は実施しない」と注意を呼び掛けたが、サボテンや補助倒立などに言及していない。>とスポーツ庁の取り組みを紹介しつつ、その対象が限られている点を指摘しています。それはその通りですが、骨折の場合は、それも大変な事故ですが、まだ容易に回復します。今回のような事例は想定外でしょう。そこに着目する必要を感じます。

 

また、<漫画で解説組み体操は危険!?の巻>は、体操の危険性・問題点をうまく解説しつつ、それ以外のバスケや跳び箱競技の方が負傷事例が多いという統計数字の取り上げも重要でしょう。

 

子ども、小学生の身体は(心も)最近とみに弱くなっているようにも思えます。骨折しやすいのではと思ったりします。私が子どもの頃は外で遊んでばかりいました。相撲、跳び箱、鉄棒、水泳などなど、それでも骨折をしたことがありませんでした。階段の少しでも上から飛び降りるという競争?もやっていましたが(これは先生が許さない危険な遊びですね?)、おそらくこういう競争は得意でしたが、事故もなく過ごしました。

 

それはなぜか、わかりませんが、食べ物や環境も影響するのでしょうか。そういう子どもの全体像や環境をよくわかった上で、指導者は体育を指導する必要があると思うのです。それにはきちんと指導体制をつくり、指導カリキュラムを受けた教員なり指導者のみが指導できるシステムを確立する必要を感じます。

 

スポーツ庁、すでにいろいろ取り組んでいると思いますが、教育分野を文科省にのみ委ねず、また、オリンピック・パラリンピックなどに出場するようなトップクラスのアスリートを中心にするのではなく、子どもたち全般に対してこれから長い人生を健康に生きることのできることを安全な方法で提供できるような取り組みをやって欲しいと思うのです。

 

そろそろ一時間となりました。今日はこの辺でおしまい。また明日


車、選ぶのは何? <トヨタ プリウス20年、岐路 エコカー先駆けのHV・・>を読んで

2017-12-10 | 事故と安全対策 車・交通計画

171210 車、選ぶのは何? <トヨタ プリウス20年、岐路 エコカー先駆けのHV・・>を読んで

 

都会暮らしをしている頃は、車を持つ気持ちになりませんでした。以前は大気汚染の元凶の一つ、とりわけ首都圏ではディぜール車両が黒煙を吐き出し、大気汚染被害者も多く、訴訟も長く続いていました。

 

その後車を持つようになってからも、平日は電車で通うことが普通でしたので、月に何回か乗る程度で、家族旅行に便利という程度でしたか。それが当地に移ってくると一変しました。電車はたしかに走っていますが、和歌山市内まで行くには、乗り換えはいいとしても、一時間に一本程度で、場合によっては1.5時間間隔に加えて、各駅停車しかないため、のんびり旅行気分を味わえますが、単線ゆえにとても時間がかかり、残念ながら、首都圏で人工工学に配慮した最近の椅子になれた身には、腰痛持ちのこともあり、田舎の電車は耐えがたいものでした。その上、駅からバスだとまた時間がかかり不規則ですね。結局は、車で往復することになりました。それだけでなく、日常的に車を毎日乗るようになりました。

 

体調不調もあり、交通事故の不安もあったので、乗りたいと思うことはほとんどありませんで、やむなく乗っていました。運転が下手なこともあり、自宅のあちこちで擦ることは慣れっこになりました。

 

いろいろ書きましたが、燃費を気にするほど、長く乗ってこなかったこともあり、価格の安いもので十分ということもあり、プリウスは燃費のすばらしさ、静穏さ(依頼者などになんどか乗せてもらいすごいなと思ったのです)など、本気で車を選ぶときは選択肢の一つとして有力かなと思っていました。燃費がリッター40kmを超えたのはもうずいぶん前ですが、驚異的ですね。

 

他方で、電気自動車や水素自動車など次世代型の自動車は一向に実用化の目処がたたないと長く思っていました。ところが、いつの間にかEV車が出現し、それも海外では相当飛躍的に発売量が伸びているようですね。実際のEV車のよさがわかるわけではありませんが、これは車の生産システム、産業構造、メーカーを頂点とする部品などを受け持つ膨大な中小の製造業のピラミッド体制が大きく変わるかもしれませんね。

 

トヨタは、その仕組みが完成度の高い形で、全世界・日本各地にそれらを散在させ、部品を統合して組み立てるシステムを作り上げてきたのではないかと思います。それがかえって、EVという、まったく異なる生産システムを内容とする場合、対応できないおそれがあるのではと、この分野まったく知りませんが、思ってしまいます。

 

今朝の毎日は<トヨタプリウス20年、岐路 エコカー先駆けのHV 技術活用しEV挽回へ>との記事で、プリウスの性能のよさ、世界市場を切り開いた凄さを示しつつも、EVの登場にトヨタがどう対応するかを取材しています。

 

<初代プリウスの開発責任者を務めた内山田竹志・現会長は「環境性能で車を選ぶという、新しい価値観を作ることができた」と胸を張る。>という具合に、プリウスへの自身は揺るぎないのかもしれません。

 

ただ、気になるのは、プリウスの最近の外観は、当初のしなやかさというか、静かさにあったおとなしい雰囲気からがらっと変わって、SFにでも登場するような未来型の奇抜なデザインになりましたね。スピード、走行距離、どれをとっても通常の車に負けない、強力さを売りにしているのでしょうか。燃費性能だけでないよ、環境に優しいだけでないよと言っているようにも見えます。

 

しかし、すでに諸外国はEVへの道筋を鮮明にしているようにも見えます。<欧米や中国、インドなどでは、環境規制でEVを優遇し、HVを優遇対象から外すなどの動きが出ている>

 

これに対し、トヨタは<「HV20年の取り組みで、モーターなどの小型化、高性能化を達成した。電動車の生産技術でも優位性がある」と強調。>し、<マツダ、デンソーとEVの基幹技術を開発する新会社を設立するなど、既にEVへの対応を強化している。>というのですが、トヨタ自体ではもう間に合わない状況を裏付けているようにも思えます。

 

しかも、<社内では「HVより価格や航続距離で劣るEVが本当に普及するのか」(幹部)などの疑念がある。>と本気度が怪しいですね。

 

ところで、違和感を感じるのがこの「航続距離」です。本来、<船舶や航空機が、搭載した1回の燃料によって航行を続けることのできる距離。>を言うわけですが、なぜか最近は自動車についても同様に言われますね。それはHVEVというエンジン性能から問題になってきたのでしょうね。

 

しかし、環境性能をうたうことがこれからの自動車の大きな切り札ではないかと思うのです。そのとき航続距離の議論を強調するのはある程度は仕方ないとしても、さほど得点を得られないように思うのです。いくら燃費が良くても、どこまでも乗り続けることが望ましいことなのかと言うことです。燃費がいいから、なんでも車で出かける、それが望ましいかです。航続距離が短くても、それにあった運転をすればいいのであって、排出ガスを少ないとは言え出すことがいいことか、長時間乗れば、同じ事になりかねませんね。

 

トヨタの発想は、たしかに車の好きなドライバーの意見を反映しているかもしれません。車の価値・機能も、ドライブすることだけを中心に考えられる時代は転換期なるように思うのです。自動運転が将来の一つの姿です。ハンドルを握らなくて良いことに価値を見いだすわけですね。車を利用することにより違った機能・価値を享受することに興味を持つ人が増えるように思うのです。その基本的要素は、環境にいかに優しいかでしょう。トータルライフサイクルにおいて。

 

今日はもう一つの話題に少し時間がかかりました。この件は30分程度で終わらせて、今日はおしまいとします。また明日。