あけましておめでとうございます。今年も、「ばらくてブログ」をよろしくお願いいたします。なるべく週1回程度のペースで更新していきたいと思っております。
安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/
何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で。そうだ、難民しよう。
これは、ある漫画家さんが昨年9月、フェイスブックにイラストとともにアップした文章です。この方は、いわゆる「ネット右翼」と言われる方々から絶大な人気のある漫画家さんだそうで、先日ジュンク堂新潟店に行ったところ、地下1階の「社会新刊」コーナーで、この方がFBでアップした難民少女のイラストが表紙の本が平積みになっていました(当方、漫画ファンにもかかわらず、この方は不覚にも存じ上げませんでした)。
まあ、このコメントは、そうした「ネット右翼」の方々がおっしゃる典型的なコメントの一つなわけですが、ここには、「知らない」物事に対して私たちがどのように考えるのか、ということを考えさせてくれるヒントがあるような気がします。
会ったことのある・つきあいのある人への悪口は言いづらい
私たちは誰でも、つきあいがある、あるいは直接会って話したことがある人のことを話題に出すときは、褒め言葉にしろ悪口にしろ、その人に関しての具体的な言動等の事実に即して話します。したがって、その話は一定程度の「事実」による裏づけがあることになります(ためにする悪口のときは、あえてあることないこと吹きまくる、という場合もあるでしょうが、それはまた別の問題)。
それに対して、自分が直接会ったことが全くない人のことを話題にするときはどうでしょう。その場合、私などは、「知らない人についていいかげんなことを言っちゃったら、後で事実誤認を厳しく指摘されて批判されちゃうかもしれないから、あんまり無責任なことは言わないようにしよう」と思います(長年の学習というかいろんな反省の成果ですとも)。
ただ、現在社会問題になっているような事案については、たとえ直接かかわりあいがなくても、話題にしなければならないときもあります。そういうとき私は、なけなしの想像力を駆使して、なるべく当該事案の当事者の立場や状況を考えながら話さなければならない、と思います(これも学習の成果)。
劇作家の鴻上尚史さんは著書の中で「中国や韓国・北朝鮮、在日韓国・朝鮮人を悪くいう人びとは、そういう人とかかわったことがない人だ。会って話して、友だちになれば、そういうことは言わなくなるはずだ」という趣旨のことを述べていました。なるほどな、と思います。多少なりとも面識のあり、一定程度の人間関係ができている人を、一方的に勝手な決めつけで攻撃する、というのはなかなかできることではありませんから。
「知らないこと」を語るとき、そこには語り手の人間性が表れるのでは
だから、この漫画家さんがこのようなコメントを公にする、というのはなかなかビックリしました。
何しろ、日本にはそういった「難民」はほとんど受け入れていないので、私たちの身近に「難民」の方々はほとんどいらっしゃいません。だから、おそらく、この漫画家さんも、「難民」の方々とはお会いになったことがないままこのコメントを書いていると思われます。
「知らない人・こと」について、「知らないまま」に語るとき、何しろ「知らない」わけですから、その話は、それを語る人の持っている情報のみがベースになります。したがって、そこには、その人の「人間性」や「知性」・「思想」といったものがもろに表れることがあるのではないか、と私は思うのです。
つまり、この漫画家さんの言葉は、そのままこの漫画家さんの人生観や人間性を示している、といってもよいのではないか、と思います。自分自身がそういうふうに思っているのでなければ、こういう「安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で」という「うまい」言い回しはなかなか出てこないでしょう。
この漫画家さんはおそらく、難民の人びとは、本当に冒頭に掲げた文章のようなことを思っている、と考えているのでしょう。しかし、それは、難民の人びとがそう考えている、ということではなく、この漫画家さん自身の内面そのものが表れている、と言うべきなのではないでしょうか。
「知らないこと」を語るのはやめたほうがよいが
「知らない」ことを語るのは、本当に難しい、できればやめたほうがよい、と私はしみじみ思います。ともすると自分でも、本当は何もわかっちゃいないことについて、もっともらしい話をしちゃっている場合がよくあるような気もします(冷汗)。だからこそ、「知らない」ことについては正直に「知らない」と言うべきですし、それでもそのことについて語らなければならない場合は、前述したとおり、「なけなしの想像力を駆使して、なるべく当該事案の当事者の立場や状況を考えながら話さなければならない」と思います。そのうえで、きちんと「知る」努力を怠ってはいけない、と改めて思うのです。
好きで「難民」になる人っているのか?
ちなみに、「難民」については、私も報道以外の情報がないので、よくわからない、というのが正直なところです。だから、私自身の「思い」から類推するしかないのですが、自分の生まれ育った土地、そこで得た言葉や文化、そこで培った人間関係を捨てて異国に出て行く人びとは、それはとてもつらかろう、と思います。だって、私自身、そんなことになるのはとてもイヤですから。そういう人々に対して、ただ単に「今より楽な暮らしがしたい・他人の金で遊んで暮らしたい」から難民になっている、と指弾するのはどうなのかな、と個人的には思います。
ついでなのですが、「安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で」ということばを、この漫画家さんは、「難民の人々はこう思っているに違いない。そして、その思いはまことにろくでもないことである」という確信を持って書いているのでしょうが、何度読んでも、どこが問題なのかよくわかりません。正直、私だってこのように思いますよ。誰だってそうではないですか? 最後の「他人の金で」というところがちょっとアレかもしれませんが、実際自分のお金がないのだったら仕方ないですよね。このように思うことが悪いというのなら、私たちみんな同罪だと思うのですが、いかがでしょう。
というわけで、このことばを読み、私もいろいろなことを考えることができました。そして、私自身の浅はかさや軽率さなどを再確認させていただきました。そういう意味で、この漫画家さんには感謝したいと思います。いやマジで。
安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/
何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で。そうだ、難民しよう。
これは、ある漫画家さんが昨年9月、フェイスブックにイラストとともにアップした文章です。この方は、いわゆる「ネット右翼」と言われる方々から絶大な人気のある漫画家さんだそうで、先日ジュンク堂新潟店に行ったところ、地下1階の「社会新刊」コーナーで、この方がFBでアップした難民少女のイラストが表紙の本が平積みになっていました(当方、漫画ファンにもかかわらず、この方は不覚にも存じ上げませんでした)。
まあ、このコメントは、そうした「ネット右翼」の方々がおっしゃる典型的なコメントの一つなわけですが、ここには、「知らない」物事に対して私たちがどのように考えるのか、ということを考えさせてくれるヒントがあるような気がします。
会ったことのある・つきあいのある人への悪口は言いづらい
私たちは誰でも、つきあいがある、あるいは直接会って話したことがある人のことを話題に出すときは、褒め言葉にしろ悪口にしろ、その人に関しての具体的な言動等の事実に即して話します。したがって、その話は一定程度の「事実」による裏づけがあることになります(ためにする悪口のときは、あえてあることないこと吹きまくる、という場合もあるでしょうが、それはまた別の問題)。
それに対して、自分が直接会ったことが全くない人のことを話題にするときはどうでしょう。その場合、私などは、「知らない人についていいかげんなことを言っちゃったら、後で事実誤認を厳しく指摘されて批判されちゃうかもしれないから、あんまり無責任なことは言わないようにしよう」と思います(長年の学習というかいろんな反省の成果ですとも)。
ただ、現在社会問題になっているような事案については、たとえ直接かかわりあいがなくても、話題にしなければならないときもあります。そういうとき私は、なけなしの想像力を駆使して、なるべく当該事案の当事者の立場や状況を考えながら話さなければならない、と思います(これも学習の成果)。
劇作家の鴻上尚史さんは著書の中で「中国や韓国・北朝鮮、在日韓国・朝鮮人を悪くいう人びとは、そういう人とかかわったことがない人だ。会って話して、友だちになれば、そういうことは言わなくなるはずだ」という趣旨のことを述べていました。なるほどな、と思います。多少なりとも面識のあり、一定程度の人間関係ができている人を、一方的に勝手な決めつけで攻撃する、というのはなかなかできることではありませんから。
「知らないこと」を語るとき、そこには語り手の人間性が表れるのでは
だから、この漫画家さんがこのようなコメントを公にする、というのはなかなかビックリしました。
何しろ、日本にはそういった「難民」はほとんど受け入れていないので、私たちの身近に「難民」の方々はほとんどいらっしゃいません。だから、おそらく、この漫画家さんも、「難民」の方々とはお会いになったことがないままこのコメントを書いていると思われます。
「知らない人・こと」について、「知らないまま」に語るとき、何しろ「知らない」わけですから、その話は、それを語る人の持っている情報のみがベースになります。したがって、そこには、その人の「人間性」や「知性」・「思想」といったものがもろに表れることがあるのではないか、と私は思うのです。
つまり、この漫画家さんの言葉は、そのままこの漫画家さんの人生観や人間性を示している、といってもよいのではないか、と思います。自分自身がそういうふうに思っているのでなければ、こういう「安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で」という「うまい」言い回しはなかなか出てこないでしょう。
この漫画家さんはおそらく、難民の人びとは、本当に冒頭に掲げた文章のようなことを思っている、と考えているのでしょう。しかし、それは、難民の人びとがそう考えている、ということではなく、この漫画家さん自身の内面そのものが表れている、と言うべきなのではないでしょうか。
「知らないこと」を語るのはやめたほうがよいが
「知らない」ことを語るのは、本当に難しい、できればやめたほうがよい、と私はしみじみ思います。ともすると自分でも、本当は何もわかっちゃいないことについて、もっともらしい話をしちゃっている場合がよくあるような気もします(冷汗)。だからこそ、「知らない」ことについては正直に「知らない」と言うべきですし、それでもそのことについて語らなければならない場合は、前述したとおり、「なけなしの想像力を駆使して、なるべく当該事案の当事者の立場や状況を考えながら話さなければならない」と思います。そのうえで、きちんと「知る」努力を怠ってはいけない、と改めて思うのです。
好きで「難民」になる人っているのか?
ちなみに、「難民」については、私も報道以外の情報がないので、よくわからない、というのが正直なところです。だから、私自身の「思い」から類推するしかないのですが、自分の生まれ育った土地、そこで得た言葉や文化、そこで培った人間関係を捨てて異国に出て行く人びとは、それはとてもつらかろう、と思います。だって、私自身、そんなことになるのはとてもイヤですから。そういう人々に対して、ただ単に「今より楽な暮らしがしたい・他人の金で遊んで暮らしたい」から難民になっている、と指弾するのはどうなのかな、と個人的には思います。
ついでなのですが、「安全に暮らしたい/清潔な暮らしを送りたい/美味しいものが食べたい/自由に遊びに行きたい/おしゃれがしたい/贅沢がしたい/何の苦労もなく生きたいように生きていきたい/他人の金で」ということばを、この漫画家さんは、「難民の人々はこう思っているに違いない。そして、その思いはまことにろくでもないことである」という確信を持って書いているのでしょうが、何度読んでも、どこが問題なのかよくわかりません。正直、私だってこのように思いますよ。誰だってそうではないですか? 最後の「他人の金で」というところがちょっとアレかもしれませんが、実際自分のお金がないのだったら仕方ないですよね。このように思うことが悪いというのなら、私たちみんな同罪だと思うのですが、いかがでしょう。
というわけで、このことばを読み、私もいろいろなことを考えることができました。そして、私自身の浅はかさや軽率さなどを再確認させていただきました。そういう意味で、この漫画家さんには感謝したいと思います。いやマジで。