ばらくてブログ――おうたのかいオブさんのおおばらブログ――

おうたのかい作曲・歌唱担当オブさんが、日々のあれこれをてきとうに綴る、まとまりもとりとめもないいかがわ日記

シロウト考え休むに似たり(7)自然エネルギーと原発ゼロを考えちゃったりする

2016-01-15 16:36:18 | Weblog
 東日本大震災と福島第一原発メルトダウン事故から、もう5年が経とうとしています。事故後しばらくは原発の持つ重大な危険性について世間で語られていましたし、大規模な集会も催されたりしていましたが、いつの間にやらそういう声は(実際は根強く継続しているにしても、メディアでは)小さくなり、その間に九州・川内原発が再稼働しちゃったり、愛媛や福井の原発も再稼働しそうな様子です。メディアやウェブでも、「自然エネルギーは不安定で、バックアップの火力発電所が欠かせないため省エネルギーや温暖化防止にはつながらない、原発再稼働こそエネルギーの安定供給につながる最良の方法だ」などという言説が力を増しているようです。政府のエネルギー政策も当然のごとく原発再稼働が前提になっています。福島原発事故などまるでなかったかのようですね。

工業技術は、たえず更新されていくもの

 社会を回していくエネルギーとしての電気の歴史は19世紀初頭から始まりました。日本初の火力発電所は1887(明治20年)、水力発電所は1892年(明治25年)ですから、日本でも約130年の歴史があります。原子力発電所も、1966年(昭和41年)に茨城県東海村に初めて作られてから今年でまる50年となります。発電自体は、けっこう古いというか、成熟した技術であるとも言えそうです。
 古い技術は、新しい技術に取って代わられる、というのが歴史の流れでもあります。私が愛好しているカメラ・写真などは典型的な例ですが、200年近く続いてきた「感光材」を使用するアナログ写真は、20世紀に隆盛を誇ったものの、21世紀に入ったところであっという間にデジタル写真に席巻されました。テレビ受像器も、ブラウン管から液晶画面のものに移り変わりました。自動車は、未だ内燃機関が主流ではあるものの、電気自動車や燃料電池車へと移行する動きも進んでいます。
 だったら、発電システムもそういう流れの中にあると考えるべきなのではないか、と私は思っています。

発電だけが、なぜか旧技術を墨守

 そもそも、ほかの工業技術はどんどん技術革新が進んでいるにもかかわらず、発電だけは旧来のシステムのまま(もちろんそれなりの改良は行われているにしても)というのは、何かおかしいのでは、と私でなくても思っている方々は多いと思います。太陽光発電や風力発電は、技術的にはかなり成熟した「使える」ものとなっており、ベース電源として十分使える、という趣旨のお話を、環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんの講演でお聞きしました。それに対して原発は、燃料のウラン採掘や建設・廃炉過程で多大なエネルギーを消費するうえ、アメリカのスリーマイル島、旧ソ連のチェルノブイリ、そして日本のフクシマのように、いったん事故を起こしたら、その地域は半永久的に汚染され、取り返しのつかないことになります。たとえ事故がなくても、放射性廃棄物の処理・廃棄、廃炉となった原発の決定的かつ安全な処分方法は未だにありません。しかし、原発を再稼働・維持すべきという方々は、とにかく自然エネルギーは使えない、という論に凝り固まっているように見えます。これは、発電以外の工業技術・科学技術ではありえない、驚くべき硬直性です。

電力会社には、自然エネルギー発電を推進する力があるはずだが

 これはもう完全なシロウト考えですが、太陽光や風力による発電が不安定で使えない、というなら、そこから生まれる電気を「ナマ」の電力として送電するのではなく、例えば、海水などから水素を生産するために使用し、その水素をベースエネルギーとしてあらためて使用する、という考え方だってあると思うのです。飯田さんがおっしゃっている「ヒートポンプ」なども使えます。そもそも、「技術立国」を標榜するわが日本の工業技術の水準は国際的にもトップクラスだそうです。それなら、電力会社が持っている技術力も相当高いことでしょう。その技術を、危険きわまりない原発の維持などに用いるよりも、安全で環境負荷も低く持続可能な自然エネルギーによる発電へ振り向けることは、当然可能なはずです。新たな技術を生み出し、社会に還元することは、技術者の本懐だと私は思います。電力会社がそれをあえて行わないのは、技術の問題とは全く別の理由があるからだ、と疑われても仕方がないのではないでしょうか。

「カネのためなら死んでもいい」人と心中するのはゴメンだ

 はっきり言えば、原発は、一部の権力者や経済人にとって多大な利益をもたらしてくれる、とても「おいしい」物件である、というのはもう常識です。ですが、「今の自分がよければ、未来なんかどうなってもいい→カネのためなら死んでもいい」と言わんばかりの原発推進者の言い分は、古来からの日本人の美徳からはかなり遠いところにあると言わざるを得ません。そういう人たちが「保守」を自称していることの不思議さも、同時に感じてしまう今日このごろです。