十一月朔になります。仙果先生、地震後初めて上野を訪れています。「いづこもいづこも石垣くゑ壊れたるぞ多き」と云う有様です。知り合いだったのでしょうか一人の僧を尋ねます。その僧は、地震の時に余所にいて幸に命にも別条がなかったのだそうです。地震後すぐに自分の坊に帰ってみると、地火炉と云いますから囲炉裏でしょうが、そこに懸けておいた鉄瓶がひっくり返り、おかげで火は消えていたのですが、そこら中が灰神楽といった状態で、本箱等すべて倒れ、「あしふみ入べうも覚えず」で、もし、あの時、ここにいたならば、到底無事ではおられなかっただろうと思うと、
「世はすてながらも猶命はをしきものになんとやうものがたり、さすがにあわれなり」
と書いています。
世捨人同然の身にあってもやはり自分の命は大事なのでしょうかと云う言葉を聞きながら、人は生きることにそんない執着心があるのだろうか、それが人間の本性だろうかと、しみじみとした思いがふっかったのでしょうか「あわれなり」と、書いております。嗚呼、本当にという深い思いがしたのだろうと思われます。同情するだとか、かわいそうに思うだとか云うものではなくて、しみじみとそんな感じが突然に心の底から浮かび上がっ想いではないでしょうか。
「人間て、だれでも、所詮こんなものではないでしょうか」という思いだと思われます。
さらに、仙果先生、地震当初から感心事であった「よしはら」についても書いておりますので、そのくだりを
「かくて根岸へゆかんとて谷中門を出る。このあたりよしはら京町のくつわども立退たる家おほし。すでに店はりたるもありとぞいふ。なまめくものほのめくも、地震の事おもへばふさわしからぬこことぞする。」
ほとんどの遊女屋は立退きしているのですが、中には、すでに、はやくも店を開いているのもある。もう開いているのかと、何となくうれしいようなわくわくする気にもなるのだが、此の大地震の事を思うと、何だか少々早すぎるようであり、どっちかと、云うと感心したことではないのではないかと、書いています。
「世はすてながらも猶命はをしきものになんとやうものがたり、さすがにあわれなり」
と書いています。
世捨人同然の身にあってもやはり自分の命は大事なのでしょうかと云う言葉を聞きながら、人は生きることにそんない執着心があるのだろうか、それが人間の本性だろうかと、しみじみとした思いがふっかったのでしょうか「あわれなり」と、書いております。嗚呼、本当にという深い思いがしたのだろうと思われます。同情するだとか、かわいそうに思うだとか云うものではなくて、しみじみとそんな感じが突然に心の底から浮かび上がっ想いではないでしょうか。
「人間て、だれでも、所詮こんなものではないでしょうか」という思いだと思われます。
さらに、仙果先生、地震当初から感心事であった「よしはら」についても書いておりますので、そのくだりを
「かくて根岸へゆかんとて谷中門を出る。このあたりよしはら京町のくつわども立退たる家おほし。すでに店はりたるもありとぞいふ。なまめくものほのめくも、地震の事おもへばふさわしからぬこことぞする。」
ほとんどの遊女屋は立退きしているのですが、中には、すでに、はやくも店を開いているのもある。もう開いているのかと、何となくうれしいようなわくわくする気にもなるのだが、此の大地震の事を思うと、何だか少々早すぎるようであり、どっちかと、云うと感心したことではないのではないかと、書いています。