「宗教は、貧しい者が金持ちを殺害する事を思い留まらせる」。こちらもフランスの革命家のナポレオン・ボナパルト将軍の名言だ。キリスト教の教えに対する皮肉だろうか?と思うのも、キリスト教は早い話が「贅沢は敵だ!」なのだ。Wikipediaにも、こう書かれてある。「キリスト教はギリシャ・ローマの哲学やユダヤ教から、その考え方を吸収、採用していった。初期のキリスト教はヘブライ語聖書で見られる倫理的なテーマの多くを採用したように見える。しかし、イエスと使徒たちの新約聖書に見られる教えは、恵まれない者の欲求に対して、富と経済的利益の追求への懸念という批判的側面を追加している。イエスは貧者であり、彼を模倣し全てを捨て去ること、そして富と貧困が自身を変える障害となる考え方を示した」と。宗教は人類最大の思想文化だと、小生は思うが、何かを信じると、それが心の支えになるように、元来は無形なものである。なので権力にも無縁な筈だ。だからこそ教祖を神格化するのは、それに反し、権力を持たせてしまう。(本人にその気がなくともだ。忖度は何処にも存在するのだ。)そこに奇跡なんてものもあるのだが、これとて気の持ちようで、結局は「積み重ねた事の結果が現れただけだ」と思う。例えば探していた物が見つかるも注意力の問題で、それを忘れていなければ見つけられるだろう。日本には「八百万の神」なんて思想があるが、そうして物事を大切に扱うのは良い事だと思う。「粗末にするとバチが当たる」てな考えだ。尊重と神格化を十把一絡げにしてはいけない。なので元来、宗教上の「平均平等の原則」を権力者が唱える程、滑稽なものはない。儒教丸出しの韓国のキリスト教である「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」には、そんな矛盾点がある。創価学会の権力構造は、まるで北朝鮮である。
話の枕から重くなったので、趣味の話でもするが、修理を諦めていた1972年製造のTEAC「A-450」なるカセットデッキは、結局、プロの手に委ねる事にした。やはりその方が確実だからだ。こちらは当時、同社では高級機だった。その高性能振りには、現在でも通用し、現役として使っていた時は、カセットテープの魅力を堪能したが、経年劣化の為に部品取り用として、本体から基板等を外し、御蔵入りをしていた。それは処分が勿体なかったからだが、たまたま登録をしていた音響関連のblogの管理者が、自身の動画サイトでのネタで「修理をしたい」との依頼があったのが縁で、協力をしようと思った。それで現状を報告しながらの打ち合わせの後は修理なのだが、先客が居り、作業は春先になりそうだ。先方も「たっぷりと時間があるので」と仰せなので、しっかりと物事を進めるのが一番だ。来年は、父の納骨やらと色々あるので、また変化がある年になる事だろう。
統一教会問題が創価学会に飛び火…新宗教団体の見解は?
幸福の科学は「金集め」と一刀両断、救済新法は唯一反対
https://news.yahoo.co.jp/articles/fd10203ad5858e5d36559fe449b18ba636d3c4df