…………………………(八月六日には)…………
熱中症に注意しながらの暑い8月は、常識外の狂った行動に陥り易いのかも知れない。
8月の記憶を辿ってみても、楽しい思い出が浮かんで来ない。
私が広島人である以上、8月と言えば8月6日の『原爆の日』を忘れる事は出来ないし、
戦争と平和・原爆投下の事実について語る日でもある。
そう思う様になったのは転勤により故郷の広島から離れた時に、日本で原爆が忘れ去
られるような時代になっていている事に気付き……ここで《戦争・平和・原爆》を少し
語ってみよう。
名古屋に来て30年このかた、朝礼の挨拶で、
「今日は何の日ですか?」
と問いかけて、
「今日は《原爆記念日》と来る途中ラジオで言ってました……」
は予測していた答えなのだが、殆んどの人は、
「そういえば広島が6日で長崎はいつでしたっけ?」
平和であることが当然の如くであり、遠い所で戦争をしているのは外国の話であり、
まして
《原爆が何を意味しているのか》
なんて思いもしない世代になっているのが心苦しいものである。
ラジオ体操を終えたら、全員その場に座ってもらう事にしている。
「ちょうど今頃8時15分、広島上空で原爆が落とされピカッと閃光している時間です。
ちょっと黙祷に付き合ってください…」
「・・・・・」
黙祷終了して、
「一発の原子爆弾の大きさはどの位だと思いますか?」
「・・・・・・・」
アメリカは6㎏の原子爆弾を砂漠で実験した時―――
深さ2m直径350mのクレーターを残し、800m離れている高さ18mの鉄塔を倒し、
9㎞離れた人をなぎ倒し、60㎞離れた処でも爆発音が聞こえ、300㎞離れた場所
でも閃光が見えた―――
等の実験結果報告がある。
実験をしてその破壊力を知った上で、更に大きい爆弾を作って日本に落としたのだ。
日本は戦闘能力が殆んど残っていない時期であり、一方、アメリカ政府は原子爆弾の
開発に何億ドルも研究費をかけて極秘で造っていたモノだから、戦争が終わるまでに、
振り上げたこぶしの落とし処を急いでいたのも事実である。
落とすのにはそれなりの口実が必用であり《戦争終結》させる為との大義名分もあるが、
その時はもう日本国は『ポツダム宣言』を受け入れて無条件降伏をする事にしていたのだ。
トルーマン大統領が最終決断したと言う原爆投下の是非がその当時にも論ぜられて
いるが、原爆投下後、戦争勝利国の言い分を覆すほどの意見は、敗戦国から出しようがな
くて、
「やむを得なかった」
を認めさせられているけれども、もう国際ルールで世界に通用する判断を委ねる時期で
あろう。
(昭和50年10月31日 昭和天皇のお言葉)
「この、原子爆弾が、投下されたことに対しては、遺憾には思ってますが、
こういう、戦争中であることですから、広島市民に対しては、気の毒で
あるが、やむを得ないことと、わたくしは思ってます。」
には、戦争の無念さ・平和を望むお気持ちを、精一杯述べられたものと思われます。
原爆は「落とした」のか「落とされた」のか、「落ちた」のか―――
広島に投下された爆弾とは、
『ウラニウムを50㎏未満の搭載爆弾で、1㎏のウランが核反応した爆弾』
たった1㎏の核分裂でどの位の破壊力があったのかと言う話をするのは、
原爆で亡くなられた人と被爆体験者さんに対して真実を語れる内容に
ほど遠いので、ここでは話を素通りさせます。
広島では原爆の事を『ピカドン』と言います。
ピカッと光った瞬間、閃光で目の前が真っ暗になって、ドーンの大音響とともに家は
吹き飛ばされ押しつぶされて、6千度の放射線熱で家屋は発火し、放射能と被爆火傷
を浴びて・・・
私が小学生の頃銭湯に行けば、ほとんどの大人の人の背と言わず肩や脚にまで、隠し
きれないケロイドがあり、眼をそむける事も出来ず、原爆の恐怖を無言で教えられた
ものだった。
当時35万人の市民のうち9万人が即死、年末時には死者16万人以上に達して(平成
21年には26万3千人を超えて)今でも原爆症(放射能後遺症)で入院されていて
不自由な生活をされている方もおられるのです。
『広島原爆慰霊碑』の石碑には
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」
と刻まれて、静かに世界に平和を発信し、死没者名簿が納棺されています。
この《過ちは繰返しませぬ》という過ちとは、何を訴えているのでしょうか―――
「戦争慰霊碑」とは呼ばれていません、『原爆慰霊碑』として鎮座されています。
もちろん、日本人が日本人に謝っている事でも有りますが、過ちだと心に残している
以上、これから先、どう償えば犠牲者の御霊を安らぐ事が出来るのか・・・
原爆を落した責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》と宣言出来た
としても、原爆犠牲者の胸にはどのような言葉を並べても慰めが届く事もあるまい・・・
平和式典で原爆犠牲者の霊前に於いて、広島市長を始め来賓の方々が平和宣言をされて
いらっしゃいますが、小学生の《子供代表・平和の誓い》には毎年、心を打たれる話で
ある。
広島平和式典 子供代表「平和への誓い」(平成25年8月6日)には―――
「今でも、逃げていくときに見た光景をはっきり覚えている」
当時3歳だった祖母の言葉に驚き、恐くなりました。
「行ってきます」と出かけた家族、
「ただいま」と当たり前に帰ってくることを信じていた。
でも帰ってこなかった。
それを聞いたとき、涙が出て、震えが止まりませんでした。
68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって
破壊されました。
体に傷を負うだけでなく、心までも深く傷つけ、消えることなく、
多くの人々を苦しめています。
今、わたしたちはその広島に生きています。原爆を生きぬき、
命のバトンをつないで。命とともに、つなぎたいものがあります。
だから、あの日から目をそむけません。
もっと、知りたいのです。被爆の事実を、被爆者の思いを。
もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に。
平和とは、安心して生活できること。
平和とは、一人一人が輝いていること。
平和とは、みんなが幸せを感じること。
平和は、わたしたちの自らがつくりだすものです。そのために、
友達や家族など、身近にいる人に感謝の気持ちを伝えます。
多くの人と話し合う中で、いろいろな考えがあることを学びます。
スポーツや音楽など、自分の得意なことを通して
世界の人々と交流します。
方法は違っていてもいいのです。
大切なのは、わたしたち一人一人の行動なのです。
さあ、一緒に平和をつくりましょう。
大切なバトンをつなぐために。
《子供代表 小学校6年 竹内駿治・中森柚子》―――
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祖母から原爆の話を聞いて、平和に感謝する心が育って行く。
この子供達の世代に平和に感謝できる心を引き継ぎ、守って頂ける様にせねばならない。
八月という暑い季節を迎えると、どうしても平和の有難さに感謝する機会だと私は思っ
ている。
核がありメルトダウンした《福島第一の原発》で、核の恐ろしさが伝わっているが、
放射能を制御出来ない限り《核を『平和利用』している》とは広島人には到底認められ
ない話である。
原発は核の平和利用だからと国は言うが、広島の地に原発建設の話さえ無かったのは
広島人が
『核』そのものを《全世界が持たない願い》として、
犠牲者から今も学んでいるからだろう。
原発稼働によるプルトニウムの発生…5㎏もあれば広島の原爆の数倍の爆弾が簡単に
作れ……汚染燃料処理の未開発…テロが日本で発生しない……
これでも『平和利用』だろうか―――
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そして2021年夏の話―――
この平和という奥深い言葉を今までのオリンピック開催に便乗して、バッハ氏を
『ノーベル平和賞』にと推薦している団体があるというニュースが飛び込んで来た。
開催のプレゼンにおいても『福島原発事故復旧』の名目上でも、福島視察がIOCバッハ
会長の開催地視察行動の第一歩のところを、広島原爆ドームを訪問という裏工作を国も
日本オリンピック協会も拒絶しなかった。(バッハ氏の言いなりに屈した
「広島から呼ばれている」
と協会の橋本会長が理由を説明しているが、日本はコロナ緊急事態宣言下で不要不急の
外出が自粛されているのに、オリンピック関係者を引き連れて開催の一週間前に特例
行動が許され広島を訪問した。
原爆ドーム・平和公園周辺には市民は近寄れない規制を敷いた中で、平和が語れるのか
とTVニュースを見ていたが、バッハ氏を歓迎する姿はヤラセ(事前取り決め)であり
広島の地・原爆ドーム・原爆資料館を視察されても核についてどころか、核廃絶につい
ては一切しゃべらず被爆者との会話もされず、平和の言葉は写し出されませんでした。
これでもオリンピックが《平和の祭典》とか言う様では、原爆で亡くなられた方々に
広島人は平和について顔向けできず、失望より『怒り』しか沸かなかったと………
積年の『ヒロシマからの平和』を踏みにじり、原爆の投下時刻に重なる大会に黙祷すら
拒否表明して、ノーベル平和賞をバッハ氏が首に掛ける姿を世界はどのように受け止め
るのだろうか………
今回は建設現場の話から脱線しましたが、八月六日は冥福を祈り静かに過ごしたい
ものです。