一月三十一日(水) 曇り
今日でKビルと『さようなら』だ。
N子とも『さようなら』だ。
お隣の自治会長さんにも別れの挨拶となった。
設計事務所とも喫茶店のママともオーナーさんともひとまずの『お別れ』だ。
今年になって今日の日が来るのを楽しみにしていた反面、寂しさが募(つの)ってくる。本当に
『嫁に出す』というのはこういう、これ以上の心境なのだろう。
私には娘が二人いる。
その時きっと泣かずにはいられまい―――と思える。
Kビルとは『さようなら』でなく、《また来るよ》の軽いオワカレでOKだ。
協力業者とはまた次の現場で、
「あれーっ!?、所長!!また今度も・・・」
という顔が出て来るだろう。
N子、彼女はこれで退職する。
私が連れて行ける現場ならば、事務補助員として私も置いておきたいが、私の現場がどこに
決まるかによって、事務補助員を変更の場合もある。
私も次が市内の現場とは限らない。
そうなるとN子の通勤範囲の中で、他の現場所長の所へ勤めてもらう事になる。
だから、
「ここは楽しい職場(現場)だったので、この思い出を持って辞めたい……」
と年末頃から時々、話に出ていたものだった。
そんな時にN子の自宅のすぐ近くで、事務員兼務のトレース女性募集の話が来たのだった。
「私の所より給与もいいみたいだし、現場が終われば次の現場のアテも無い(自宅待機)の
場合もあるし、自宅から会社がすぐ近くというのもいいじゃない、N子なら出来るから
やってごらんよ」
と後から『背中を押した形』の助言をした。
これで一歩前に踏み出せなかったN子もその気になって、それ以来私も図面トレースを少しで
も練習出来る様な仕事をさせていった。
製図道具の使い方、図面の便利な書き方、テクニックを短期間で『伝授』したつもりだけれど、
これからは頑張って欲しいものだ。
Kビルの私のいた部屋にあるもので、最後までポツンと残ったのは電話だけになった。
椅子も机もなく、床カーペットの陽当たりのいい所でN子と二人座って話になった。
「とうとう終わったなあ、全てが終わったね」
「本当ね、嘘みたい・・・」
「この部屋に長く居たから、仮設事務所の騒ぎとか、シート看板とかは、遠い昔の事みたいだね、
覚えている?」
「看板作らされている時、成功しなかったら何と言って……」
と思っていたそうだ―――が、結構楽しそうに作っていた様な気がしてたけれど……ネ。
この三階へ引っ越して来てからは、N子もホーキを持って全館掃除に行ったものだったネ。
その度に(三度に一度かな)バイト料代わりに昼食をしゃぶしゃぶのKとか中華レストランCへ
スタミナ回復に出かけたものだったね。(高いバイト料だったぜ全く)
それから左官工のOさんから、
「所長、仲のいい若い―――キレイな奥さんですね?」
と言われたのは傑作だったね。
俺も「N子、N子」と人の奥さんの名前を呼び捨てにしていた分、罪はあっただろうけれど、
仲のいいのは本当だったね。
N子の誕生日に花束プレゼントして、パパが焼きモチをやいた話、これも傑作だった。
「蟹を食べに行こう、あの蟹屋さんウチが作ったんだよ」と言ったら、
「あの、動く蟹さんも……?」
と言ったのも、何となく面白語録だった。
看板好きな私(会社)でも動くカニは作らない。
ホテルでの社内のクリスマスパーティはN子と子供まで連れ出して(時効だよ)好きなだけ食って
家族ゲームで遊んで、今年も内緒で招待してやっからな、子供をね。
「色々楽しかったなあ・・・Hな話とか馬鹿な事も沢山教えたしねえ」
「楽しかった想い出がいっぱいです―――所長」
と何だかセンチメンタルな気分になりそうだ。
ここで肩でも抱けば絵になるのだろうけれど、
「さあて、コーヒー飲みに行こうか、ここにはもう何もないから………」
立ち上がりながら、
「所長、次はどこですか?」
「まだ何も聞いてないよ、ホラあの電話が今度鳴ったら『支店へ来い、次は○○だよ』と言う
電話だろうよ、多分・・・」
だから電話線を差し込みのジャックから外しておいた。
今、N子と最後になって、ゆったり当時を語っている時に電話は邪魔だった。
喫茶店でN子とさようならして、Kビルでは遂に一人になってしまった。
電話の線を繋いで、見つめていた。
もうすぐかかって来るであろうけれど・・・。
十分後、リーン、リーン、リーン、リーン。
寂しい音色だ―――取らなかった・・・。
リーン、リーン、リーン、リーン・・・。
(kビル・ドラマ 完結)
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―――飛び立って行った若者たちの
最後の言葉に秘めたものとして―――――
T.S君
「考え込む前に電話します。今回で自信がつきました。次を見てて下さい」
M.H君
「現場が替わっても会いに行きます。楽しく仕事を覚えられました」
H.G君
「次の現場にも引っ張って行って下さい、今回の教訓の成果をみせますから」
そして
T.F君 (Kビル)
「とにかく最後迄やり通す事ができました、次は自信を持って挑戦します」
私から―――
皆んなっ元気でやれよ!
夢に自信を重ねて―――さあ
「君たちの時代」が
今からスタートだ!!
(終り)