…………………………魚 釣 (2)…………
話を戻して、
魚屋で売られている魚も、人間に食べられるために海で泳いでいたのかも
知れない。
だが、私が釣った魚や釣り上げたが捨てた魚は、・・・
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だが、私が釣った魚や釣り上げたが捨てた魚はまだまだ生きる事が出来たハズ
である。
私の生きるが為の手段として釣り上げたのなら、魚の持つ運命だったのだろう
と思う事も出来るが、私の趣味で釣られた魚には運命ではなくて
「事故」なのだろとも思う。
それは私の現場で、仮囲いの中で毎日働いている人が、天からの一本の糸で
釣られたのと同じ「事故」として怪我をし、あるいは命を落とす事と同じ事
ではないのか……と。
運命を握っている者、司(つかさど)る者がいるならば否、いるハズだ……と。
ならば、魚の運命を握っていたのは私であり、人間界の運命は天である。
魚の命を奪った私に対して、天は私をどう裁くのか…と。
天によって子供が世に生まれる前に二度も召され、母をも召されそうになり、
万一、現場の職人さんを事故に遇わせでもすれば、私が償えるものは何一つ
持っていないのだ…と。
そう考えている内に母の願いを聞けない間は、子供は授からないだろう…と
思えた。
魚釣りは仕事の付き合い上、すぐに止める訳には行かなかった。
船釣りの場合には糸は垂らしていても、餌に引っ掛かって来ても
知らない振りだ。
ハナから引き上げるつもりは無くて、船畳の上で酔っ払っては寝ていて、
釣りをしている仲間からは嘲(あざ)けられても、魚を釣り上げる事は
しなくなった。
「調子悪いね、所長!またエサ、食われてるよ」
(食い逃げ魚さん、よかったね)
つぶやきながら、エサを取られるようにくっ付けて、食い逃げ魚に
協力していた。
「釣竿一本で一国を釣った《太公望》を見習えってもんだ。
魚の一匹二匹で騒ぐな!」
魚釣りの話になるとよく《太公望》の名前が出て来ますが、老人で白い髭を
はやした釣の名人のように思っている人が意外と多いものである。
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念の為、《太公望》さんは、魚釣りの名人ではなくて、斉の国を
起した人である。
紀元前11世紀、商王の暴政に対してたった一人で商王朝を倒しに
起ちあがり、倒したとも言える天からの化身のような人物である。
三年間、釣竿を使わずに糸を垂らして、鉤針(かぎばり)は真っ直ぐで、
川に沈めず、魚が飛び上がるのを待っていたから一匹もつれず、
周の国王がその話を聞いて飛びついた・・・のである。
周の国と召の国を釣ったのごとく中国大陸を操ったのは、中国を統一した
秦の始皇帝より九百年も前の話であり、魚釣りの話は伝説かもしれないが、
中国の歴史は面白いものだ。
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不調続きを見かねて魚釣りに誘われるのもだんだんと疎遠になっていった。
魚釣りをしなくなったからではないが、現場での《運》が強くなって来た事は、
思い上がりと雖(いえど)も自分でも気がつき、驚いている。
全責任を負うべき所長として現場を10年以上も経験したが、
労災事故報告書の紙切れ1枚たりとも書かずに、現場勤めが終わった。
事故寸前・危機一髪の状態も経験しなかったのは、偶然にしては
不思議である。
また、どうしても雨が降ったら困る日に、用件が終わるまで
雨が待っていてくれたような日もあり、天運に抱かれ始めている
と感謝した事も数回あった。
仮囲いの中で所長として現場を見渡す変わりに、雲に乗った仙人の気分で
見れば、危険という餌を付けて釣り糸を垂らしさえすれば、誰かが食いつくのは簡単に想像出来る。
だから、釣り糸を垂らさないように安全監理をすればよいのであって、
ならば、釣り糸さえ持たねばよいとの気分になり、魚釣りの道具も
いつしか処分してしまった。
人に「魚釣りを止めろ」とは一切言っていませんし、思ってもいません。
大勢の職人さんを集めて仕事をさせる中で、トップに起つ人の徳が薄い
よりも、篤い方が良いのに決まっているのだから、徳が増やせないならば
減さない努力は出来る筈だ。
私はただ、魚釣りに対して母の言葉から《天命》を考えただけである。
魚釣りと現場の因縁は一切関係ありませんし、あくまで私の偏見ですから、
魚釣りの好きな人がこの稿を読まれた時は、サラッと読み捨てて
くださるようお願いします。
現場での火災事故原因を撤去するため、二十年来の喫煙を私が勝手に
やめたように、この魚釣りも勝手にやめた個人の『つぶやき』としての
話である。
次は現場一斉清掃の話をしよう。