今日の108円

1日1冊108円・・・・・・最近そうでもない。

逆転の発想 社会・企業・商品はどう変わる? 糸川英夫 1982年5月30日 角川書店

2015-04-26 10:20:35 | 仕事
 これからの日本はどうなるか。企業はどうしたらいいのか。また個人として、どう生きていけばいいのか。
 混沌とした現代に満ちているこの‶危機感"は、どこから生じているのか。
 本書は、その根源をさぐり、これからの時代に対していく処方を具体的に解説していく。
 情報の収集・選択の仕方、ベスト商品へのアプローチ、エネルギーへの考察、そして将来への展望と、従来の発想法を大転換して、これからの時代に対処する方法と手段を示唆する、万人必読の書。
前袖より。
この本は82年だけど、この本の前に『五冊刊行されて、「発想ブーム」の元祖になったように言われて』いたらしい。
あとがき

 第一冊目の『逆転の発想』が出版されたのは、第一次オイルショックのまさに始まったときであった。
・・・70年代前半。10年経っての6冊目か。

反企業時代の経営戦略

反企業運動のパターン

 しかし、ここで終わるわけではない。第3図を見ていただくとわかるように、フェーズⅠ(第1段階)では、ロジックとロジックのやり取りである。その次のフェーズⅡになると、ロジカルで科学的な判断ではなくなり、好き嫌い、情緒的な判断に移るのである。この場合、新聞の書き方が一方的なのだなどとよくいわれるが、そうでもない。新聞は数で勝負しなければならないので、マーケットの潜在的欲求にのらないと売上げが伸びない。だから、どちらが一般大衆の潜在的ムードに合うかをいちおう判断したうえで記事にしているわけである。むずかしいところである。
企業と批判者の対立の流れ。
「一方的な報道によって一般大衆が誘導される」のではなく、「一般大衆の感情に合わせた報道をしないと売れない」。うーん。

人間性とは何か

自然破壊は人類の専売特許か

 ここから先はどういうことが起きるかというと、沢山の親が出した排泄物が問題になってくる。親が出す毒素で次の赤ん坊の育ちが悪くなる。そして自然に数が制限されて、一定のところできまって頭打ちになってしまう。だから、私は地球を一つの容器として考えた場合、親が沢山の毒素を出して次の赤ん坊の健康を害することで、人類もやはり一定の人口にとどまるのではないかと思う。
本物のねずみのねずみ算の話から。
このあと西丸震哉氏(著者の知人)による「日本の人口は1980年代に1億を割り、90年代には7700万まで減る」という悲観的な試算も出てくるけど、残念ながらそうはならなかった。
 だが、ここで人間がほかの生物と違うところは科学という武器を持っている点だ。科学の力で、こうした危機をなんとか打開できないものだろうか。
打開できてるのかねぇ?延命治療の分野は、正直余計なことを・・・感がする。

涙は人間だけのものか

 ところが、涙を出すのは人間の特技かというと犬や猫や猿でも、親と引き裂かれればワアワアと泣き叫ぶ。子犬を親犬から離すと、一日中、泣き続けるし、にわとりでも声を大にして泣いている。つまり、泣くという行為は多くの生物に共通なもので、人間だけに特有のものではない。にもかかわらず、それは人間的だといわれ、人間独自の行動は機械みたいだといって軽視される。
 するといったい、現在の状況の中で"人間性とは何か"とか"人間性の回復"とか"人間的でありたい"ということは、どんなことを望んでいるのだろうか。
暗算が得意な人間を機械的と評し、感極まっての涙を人間的と評することついて。
『人間性』とか『人間的』ってのは、「人間らしく」じゃなくて「生物らしく」を求めているのかもしれない。とすると、人間にしかできないことを推し進めることは「生物離れ」と同義ということになる・・・?
「おれは生物をやめるぞ地球ーッ!」
「おれは生物を超越するッ!」
「地球、お前の血でだァーッ!!」
問題は盾になってくれる人がいないことかナ。

情緒過剰時代の生きがい

原点否定の都市生活
 結局、私はだれかの役に立てないかということが、人類の原点であり、これがなくなったら、人類は全くバラバラになってしまう。
 ところが、都市というところは、だれかの役に立とうとするチャンスをことごとく奪ってしまう。山深い農村で、たとえば小野田さんみたいな生活をしたとしよう。わずから食物であっても、だれかに分け与えたとしたら、その相手はどんなに喜ぶだろうか。
 しかし、都会の真ん中では、だれかにお腹がすいているでしょうと言ったところで、ラーメンもあればカレーライスもある。ありとあらゆるレストランが沢山ある町の中では、なにか食物をあげようと言っても、それほど感謝されるはずがない。感謝されるチャンスを都市生活が奪ってしまっている点に、都市の最大の問題があると思う。
だれかの役に立とうとした人々が、いつでも誰でもラーメンとかカレーライスを食える都市を開発したのに。至れり尽くせりも過ぎたるは・・・ということなのか。

ポストエコノミー社会の経済学

第二のパージの必要性
 第8番目は、戦後のパージにより経済エリートが一新された。すなわち老人層が全部パージされ、若手経済エリートが登場したということである。しかし、戦後約三〇年余りということになると、こうしたリーダーの老化現象も濃厚になってきている。だから、再度のパージが必要なのだが、当分期待できそうもない。新しい難問として考慮すべき点である。
高度経済成長の要因その8。
新しい時代を創るのは老人ではない!・・・のになぁ。

今日は選挙がある。俺は「ネット投票ができるようになれば若者の投票率が上がる」なんてのはウソだと思ってる。
「投票所に行く時間がメンドクセェ」から「サイトに接続して本人確認をする時間がメンドクセェ」になるんじゃねーの。要は投票なんかのために自分の時間を使いたくないってことなんだから。
「期日前投票まで含めて投票に行く時間がどうしても無くて悔しい」なんて人が「投票行かずにネット投票実現を要求してるだけの人々」の中に居るかね?そして居るとしても、そういう人のためにネット投票が最善と言えるのか?
「ネット投票があれば~」なんてごねてるのは選挙に対する責任逃れにしか見えない。それを見透かされてるから、政治の側も早急な対応をしないんだろう。政治家のことを「口先だけのゴミども」と非難してるだけの連中は、その政治家から「口先だけのゴミども」と舐められていると知るべき。

うだうだ言う間に投票いこうず。俺の判断基準は年齢。60超えたら「お前ら下がれー!」。「イっちゃえよ!」でも可。穏やかな老後を満喫していただくためにも丁重にお引き取り願うのです・・・「出てこなければ、やられなかったのに!」。

入社式はいつまで続く

 つまり、入社式とは終生この会社に操を捧げて忠誠を誓うということにほかならない。新入社員も心の中ではバカげたことだと思いながらも、第一日目だから仕方なしに出席しようという者がほとんどのようだ。しかし、これからは、病気とか、事故があったとか、法事だとか適当な理由書が会社に届けられて、本人が欠席する率が増えていくのではないか。つまり、日本の労働力が良質かどうかは入社式の出席率でおおよその判断がつくということになる。
今のトレンドは「親同伴」らしいから、むしろ出席率は上がってるかもしれない。
高学歴化と組織づくり
 もう一つ、労働力で重大な問題は三〇項目の中でも説明したが、高学歴化という点にある。第8図を見ると、昭和四〇-五五年に中学卒が激減する半面、高卒、大卒が急増している。
 これはどういうことを意味するかというと、私どもの行った二つのアンケートからも明らかになる。すなわち、①地球の環境は悪くなると思うか、②文明の進歩は人々を幸福にすると思うか、という二つの質問なのだが――①については、中、高、大卒の順にそう思うと答えた者が多くなっている。②については逆に、同じ順でそう思うと答えた者が少なくなっている。だから、この回答の背景にある問題というのは、高学歴になるほど、地球を汚すような企業は無くなってしまった方がいいという考え方である。
「革命はいつもインテリが始める」ってのはこういうことかぁー・・・とすると、学生運動に手を焼いた反省から「学生が制度に対して攻撃を実行しようと思わないように育ててきた」のが現代の教育で、その結果として「現行制度に不満があっても攻撃的手段は取りたくない(取れない)人々」が高学歴ニートになるのか?

エネルギー・一九八五年

冷えた社会
 エネルギー問題のしめくくりとして、一九八五年のエネルギー事情を中心とした私なりの未来予測を述べておこう。
wktk!
 戦後ッ子は、物資の豊富な時代に生まれ、過保護のもとに育てられた。このような甘えの構造の下で育った世代は気力も体力も独創力もなく、人間的資質からいっても画期的な技術を期待しえない。いまの高校生は、無気力、無感動、無責任、無目的という四無主義のとりこになっているが、一九八五年ころにはこの四無主義が社会の大半に広がっていると思う。
 アメリカも同じような傾向に一九六〇年代になったが、それでもアメリカにはワスプ精神が残っていて、つねに冒険を行なおうというホットな雰囲気がある。しかし、日本ではたまたま冒険心に富んだ人が出ても、そういう人は海外に出てしまう。
「団塊世代の少し後」かな?しらけ世代(Wikipedia)のことを指してるっぽい。
 冷たい社会は二〇〇〇年まで――。
 この年、一九四五年生まれは五五歳で定年。一九五〇年生まれの人は五〇歳だが、この無気力組は五〇歳前後で次の世代にその座を譲り、早々に隠退してしまう。次の世代――それは一九七五年生れの人々だ。エネルギー不足、紙不足といったように、生れついたときから"不足社会"に育った人たちは強い。デニス・ゲイバーも言っているように、逆境の中でこそ気力・創造力に富んだ人間が育つのである。彼らは個性豊かである。彼らのエネルギーは再び大きな技術革命を起こし、経済は大きな上昇期に入る。一九七五年までの上昇が洋風化というインパクトに支えられたのに対して、二〇〇〇年以後の上昇は"個性化"がインパクトである。
うーん。2000年頃景気はよかったんかなぁ?「不況」もしくは「少しはマシになった」程度の話しか聞いた覚えが無い。
ここで『無気力組』とされる連中、2015年になっても隠退してないしなぁ・・・。
これほどの文章が書ける人でも、未来予測は難しい・・・いわんや凡人をや、か。



『あとがき』まで含めて224ページだけど、これまた「厚い」本だった。連続で当たりを引くのもこれはこれできつい。まだ理解力が追いつかない。明日は軽く読めそうなのを用意しよう。