弘法大師のように有名なお方になると、各地に似たような伝承がありますが、三河の我が町にもそれが残っています。
(少し長くなりますが・・・)伝承:
弘仁十三年(西暦822年)夏真盛りの日暮れ時、重原の里(刈谷市)を通りかかった一人の旅のお坊さんがありました。
お坊さんは、喉のかわきを覚えたので、ある一軒の農家に立ち寄り、水を所望されましたす。
その家の主人は、心よく承知して、冷たい水を恵んでくれましたが、水が差しだされるまでに随分時間がかかってしまいました。
不思議に思ったお坊さんが、そのわけをたずねます。
その答えは「この辺りは土地が高いところにあるもので、井戸が深くなり、水を汲むまでに難儀している。」とのことでした。
これを聞いたお坊さんは、その家が水に苦労しているようすを察して、つと立ち上がると家の前の窪地に、持っていた錫杖を立てました。
そして何やら唱えると、たちまちそこにこんこんと水がわき出てきたのです。この家の者たちの驚きようは大層なものでした。
喜びと感謝をお坊さんにお伝えすると、
「そなたの真心が、仏に通じたのでしょう。」
と言い、そこではじめて、お坊さんは、
「愚僧の名は、空海です。」と名乗りました。
このお坊さんこそ、時の名僧といわれた空海上人、後の弘法大師だったのです。
弘法大師は乞われてこの地にしばらく留まり、他にも二か所井戸を設けていきます。
これを弘法の三つ井戸と言います。(佐次兵衛井戸、乞井戸、慕井戸の三つ)
時が移り、各戸に井戸が整うようになると、弘法大師所縁の三つ井戸も荒れ果てしまい、
忘れられてしまいます。(・・・・・・が、今はそれが復元されています。)
当時は各井戸に弘法大師の像がありましたが、現在は重原の浄福寺山門前の三ツ井戸弘法堂にまつられています。
大師の三つ井戸の一つ佐次兵衛井戸 ↓
最終的に纏めて祀られているという浄福寺を訪ねました。
浄福寺山門脇に「三つ井戸弘法堂」 ↓
小さな窓から暗い中を覗き込みます。 ↓
弘法様がおわしまします。
浄福寺山門 ↓
立派な山門のある浄福寺
脇から見る浄福寺本堂 ↓
境内の大イチョウ ↓
久しぶりに見た見事な黄葉でした。
門前にはこんな石柱あり ↓
「これより東 福島領」、そして「重原陣屋跡」とあります。
境内は江戸時代中期以降、福島藩の重原陣屋が置かれた場所に隣接していた為、二つの石碑はそのことを表しているのです。この間のことは長くはなりますが以下にネットからの情報を記します。
引用開始:
寛政の一揆によって刈谷藩は、幕府から村替えの処分を受け重原村、野田村、半城土村、高須村、小垣江村、犬ケ坪村等18か村を、奥州の福島領・幕領の一部と交換することになり、以来福島藩はこの地に陣屋(現在の重原市民館あたり)をおいて郡代により三河の飛地を治めました。浄福寺の前には「重原陣屋跡」の石碑が建てられています。
この碑とならんで「従是東福島領」(これより東、福島領)の碑が建てられています。「従是西福島領」は、知立市の上重原町公民館裏にあり、もとは東海道筋の福島領の東と西の端にありました。福島藩三河分領は、明治2年(1869)三河国に新たに150か村を与えられ、重原藩が誕生し、やはりここを陣屋として治めましたが、明治4年(1871)廃藩となりました。陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺の山門に、玄関は十応寺にそれぞれ移築されています。: 引用終了
別の場所で、田んぼの真ん中に祀られている弘法大師:
見返り弘法大師のお社 ↓
祠の中の弘法大師 :
今回は行きませんでしたが、この地の本家本元の弘法山遍照院(この地では単に(弘法様と呼ぶ))があります。
この記事の最後は人家のはずれに祀られていた弁財天 ↓
祠は大変小規模なもので、鳥居だけが目立つような感じでした。創建の由来も良く分かりません。