ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

弘法大師にゆかりの三か所と別に神社なども

2024-11-29 04:47:06 | 草花

弘法大師のように有名なお方になると、各地に似たような伝承がありますが、三河の我が町にもそれが残っています。

(少し長くなりますが・・・)伝承:

弘仁十三年(西暦822年)夏真盛りの日暮れ時、重原の里(刈谷市)を通りかかった一人の旅のお坊さんがありました。
お坊さんは、喉のかわきを覚えたので、ある一軒の農家に立ち寄り、水を所望されましたす。
その家の主人は、心よく承知して、冷たい水を恵んでくれましたが、水が差しだされるまでに随分時間がかかってしまいました。
不思議に思ったお坊さんが、そのわけをたずねます。
その答えは「この辺りは土地が高いところにあるもので、井戸が深くなり、水を汲むまでに難儀している。」とのことでした。

これを聞いたお坊さんは、その家が水に苦労しているようすを察して、つと立ち上がると家の前の窪地に、持っていた錫杖を立てました。

そして何やら唱えると、たちまちそこにこんこんと水がわき出てきたのです。この家の者たちの驚きようは大層なものでした。

喜びと感謝をお坊さんにお伝えすると、
「そなたの真心が、仏に通じたのでしょう。」
と言い、そこではじめて、お坊さんは、
「愚僧の名は、空海です。」と名乗りました。
このお坊さんこそ、時の名僧といわれた空海上人、後の弘法大師だったのです。

弘法大師は乞われてこの地にしばらく留まり、他にも二か所井戸を設けていきます。
これを弘法の三つ井戸と言います。(佐次兵衛井戸、乞井戸、慕井戸の三つ)


時が移り、各戸に井戸が整うようになると、弘法大師所縁の三つ井戸も荒れ果てしまい、
忘れられてしまいます。(・・・・・・が、今はそれが復元されています。)

当時は各井戸に弘法大師の像がありましたが、現在は重原の浄福寺山門前の三ツ井戸弘法堂にまつられています。

大師の三つ井戸の一つ佐次兵衛井戸 ↓

 

最終的に纏めて祀られているという浄福寺を訪ねました。

浄福寺山門脇に「三つ井戸弘法堂」 ↓

小さな窓から暗い中を覗き込みます。 ↓

弘法様がおわしまします。

 

浄福寺山門 ↓

立派な山門のある浄福寺 

 

脇から見る浄福寺本堂 ↓

 

境内の大イチョウ ↓

久しぶりに見た見事な黄葉でした。

 

門前にはこんな石柱あり ↓

「これより東 福島領」、そして「重原陣屋跡」とあります。

境内は江戸時代中期以降、福島藩の重原陣屋が置かれた場所に隣接していた為、二つの石碑はそのことを表しているのです。この間のことは長くはなりますが以下にネットからの情報を記します。

引用開始:

寛政の一揆によって刈谷藩は、幕府から村替えの処分を受け重原村、野田村、半城土村、高須村、小垣江村、犬ケ坪村等18か村を、奥州の福島領・幕領の一部と交換することになり、以来福島藩はこの地に陣屋(現在の重原市民館あたり)をおいて郡代により三河の飛地を治めました。浄福寺の前には「重原陣屋跡」の石碑が建てられています。
この碑とならんで「従是東福島領」(これより東、福島領)の碑が建てられています。「従是西福島領」は、知立市の上重原町公民館裏にあり、もとは東海道筋の福島領の東と西の端にありました。福島藩三河分領は、明治2年(1869)三河国に新たに150か村を与えられ、重原藩が誕生し、やはりここを陣屋として治めましたが、明治4年(1871)廃藩となりました。陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺の山門に、玄関は十応寺にそれぞれ移築されています。:   引用終了

 

 

別の場所で、田んぼの真ん中に祀られている弘法大師:

見返り弘法大師のお社 ↓

 

祠の中の弘法大師 :

今回は行きませんでしたが、この地の本家本元の弘法山遍照院(この地では単に(弘法様と呼ぶ))があります。

 

 

この記事の最後は人家のはずれに祀られていた弁財天 ↓

祠は大変小規模なもので、鳥居だけが目立つような感じでした。創建の由来も良く分かりません。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

”冬”が近づいている。 秋の名残を訪ねて

2024-11-28 09:18:11 | 草花

暦の上では22日から”小雪”で、とっくに”冬”に入っているのですが、雪どころかまだ霜も見ていません。

このところよく出かける付近の高楼ですが、遠くの山に雪の気配が見えないか、そんなことを「期待」

しながら通っています。

 

木曽御嶽 ↓

恐らくすでに雪は来ているのでしょうが、ここからははっきり確認できません。

 

加賀の白山方面 ↓

前山の背後にごく薄く山体が見えています。そしてそれは白く・・・雪を纏っているように見えます。

となると、これから寒さが本格化してきますね。

 

伊吹山 ↓

 

鈴鹿の鎌・御在所方面 ↓

 

14階から下りて、秋の名残を探します。

 

稲刈り後の田んぼ ↓

田んぼのグラデーション:奥の緑色は切り株から芽出ししたごく若い株の畝で、そのこちら側で浅い黄色は

それが育って再び実(しいなですが)をつけてきた株の並びです。凄い生命力ですね。

♪穫り入れが済んで青田の底ぢから♪  駄句を思い浮かべました。

 

 

八幡宮の社殿 ↓

社叢がこんもり茂っていて普段は近づけない角度なんですが、工事が入っていてめったに見られない建物が見えました。右側が本殿で、左側は拝殿になります。

 

ムラサキゴテン ↓

 

クコの実 ↓

 

キカラスウリの実 ↓

つるごと刈られて地べたに落ちていました。(皺だらけはそのためです。)

 

淡い黄葉 ↓

見た目には良い感じの色付きでしたが、撮り手の腕前により、こんな程度にしかなりません。

 

 

川沿いに銀の穂波 ↓

 

疾走する新幹線 ↓

スマートで力強い!

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

細くなっていく月 冬の星空 寒さに強い菊の花

2024-11-26 10:54:31 | 草花

暦の「小雪」に入り、公園などの木の葉は紅葉・黄葉を交えて、早いものでは落ち葉となって地面を飾っています。

ここのところ、度々団地に行って高楼に上り、遠くの山並みを眺めるのですが、まだ雪山の姿ははっきりと

確認出来てはいません。昔と違い空気が濁っていて、すっきりとした姿が見えないのが残念です。

毎晩夜空を眺めて、月を探していますが、今時分は月の出る時刻がどんどん遅くなり、本日(11/26)では午前1時過ぎと

なっていますので、もう起きてお付き合い出来ません。

そこで朝の入り残りの月に期待するわけですが、本日の場合は西より天気が崩れて来ていて、13時50分頃に沈む月を見つ

出すことは出来ないでしょう。 とりあえずこれまでの月のダイエット状況を記します。

20日月齢19.0 ↓

 

22日月齢20.5 ↓

 

24日月齢22.5(下弦の月) ↓

 

25日 月齢23.4 ↓

本日(26日)は曇り空で見えませんが、明日は一段と細くなっていることでしょうから、明るい昼間の光の中では

見つけることが難しくなっていることでしょうね。

これからはよほど早起きしないと月を見ることが出来ないかもしれません。

恐らく12月5日ごろの西空の月までお月見はお預けになりそうです。

 

オリオン座 ↓

これからはどんどん見やすい時間にシフトするようになってきます。

 

木星 ↓

拡大していったら衛星も見えていました。

 

すばる ↓

「昴(すばる)」と言えば昨年10月に亡くなった谷村新司さんを思い出します。

戒名は「天昴院音薫法楽日新居士」と、やはり「昴」の人でした。

 

この冬は未だ降りて来てはいませんが、霜が降りても咲き続ける庭の菊たち:

 

 

 

一年中花を見せてくれるカーネーション ↓

 

秋の閉鎖花センボンヤリ ↓

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近所の神社の新嘗祭

2024-11-25 16:19:18 | 草花

伊勢神宮で新嘗祭が行われるときには、皇族の一部の方も参加されるということはTVなどで知ったことでした。

先日天満神社に行って写真を撮っているときに、神社の氏子さんから、23日にこの神社でも新嘗祭が行われるということを聞きましたので、天神様の新嘗祭がどんなものなのか行ってみることにしました。

新嘗祭は午後二時から始まります。

 

 

本殿前 ↓

 

 

大御饌(おおみけ)が行く。 ↓

 

まずは天神様に挨拶 ↓

学問の神様(菅原道真)に相応しく筆の塚がありました。

 

本殿を目指す ↓

 

新嘗祭(本殿にて):

 

 

天神様は意外と美食家で、大食漢らしくて、次から次へと10種類ほどのお供物が恭しく、献上されて行きました。

そして、上げられたものが、同じように下げられて・・・大雑把に所要一時間ほど掛かっていました。

 

本堂の外では天神様におなじみの「牛」さんも控えています。 ↓

 

本堂での行事が終わると・・・↓

外に出て、今度は天照大神様に? お参りするのでしょうか?

 

小生はこれにて神社から退出しました。

 

昭和天皇の御製 ↓

天満神社の外垣に昭和天皇の御製がありました。

♪天地 (あめつち) の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を ♪ と読めます。

この御歌は昭和8年歌会始のものです。

その前年に五・一五事件がありましたので、そのことを踏まえるとこの歌の意味もより深いものとなりましょう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひょんなことから  徳川家康に所縁の場所へと・・・・・

2024-11-23 21:46:45 | 草花

自転車でお隣、安城市の南部にある徳川家康ゆかりのお寺を訪ねました。

その発端となったのはその2~3日前に昔からある田舎の道で下のような古い石の道標を見たからでした。 

古い石の道標 ↓

このことをいつもの大先輩に話すと、その道標には「右 のてら」と彫られていておそらく蓮如上人とゆかりの「本證寺」のある(安城市) 野寺町字野寺を指しているのだろう。ということになりました。

その「本證寺」こそはご当地徳川家康(公)の「三大危難」として名を知られる、三河一向一揆の本拠地でありました。

家康が22歳から41歳までの間に直面した生き死にの重大場面を「家康の三大危難」と言っていますが、それは「三河一向一揆」「三方ヶ原の戦い」「伊賀越え」の三件でありました。

(ところで一向一揆の「一向宗」とは、浄土真宗本願寺派のことで、信心が深く結束力も強固でありました。)

三河一向一揆は先般のNHK大河ドラマ「どうする家康」で相当こだわりを入れたところではなかったでしょうか。

家のすぐ近くに歴史で語られた三河一向一揆の本拠地を案内する石の道標があったことにより、これは放ってはおけなくなりました。

さっそく自転車で訪問することになりましたが、何しろ今から400年以上も前の、昔の道があるわけもなく、今の世で使われている道を自転車漕いで行ってきました。

名古屋鉄道西尾線の南桜井駅 ↓

これを目印にしてきました。目的地はもう近い。

 

バス停 ↓

バス停の名前はそのものズバリでした。

 

本證寺の山門 ↓

山門という言葉を使わずに「大門」と案内されていました。

 

門柱 ↓

お隣は石の産地岡崎市ですので、良い石柱が建っています。

 

本堂 ↓

この日は建物の内外をいろいろ手入れしていました。史跡ですので念が入っています。

 

祭壇 ↓

本堂の中に入らせていただきお参りします。「つくり」の一つ一つにうんちくがあるようですが省略。

 

御本尊 ↓

阿弥陀如来様の立像

 

本堂とお庫裏の連絡路 ↓

雨に濡れることなく長い道のりを行き来出来ます。

 

お庫裏 ↓

立派な建物ですね。この日はここでお茶会が催されていました。

 

鼓楼 ↓

遠くからも良く見えて、それはまるでお城の様な見え方でした。

 

鐘楼 ↓

これのつくりにも蘊蓄がありましたが、それも省略。

 

経蔵(きょうぞう) ↓

 

経蔵を持つ寺は少ないと聞きます。

 

裏門 ↓

この裏門も自讃していましたが、ナルホド確かに手間暇をかけて維持管理されています。

この脇に蓮池がありましたが、時季が違いますので、咲いたときに再訪したいものです。

このお寺は一向一揆の時の一揆勢の中心拠点であった当時は、(家康と戦った時には)城郭寺院として

外堀・内堀を巡らせていたのです。

 

とても見ごたえのあったお寺という印象を抱いて帰路につきます。

 

(途中で自転車がパンク・・・一時間ほど自転車を引いて行きます。)

 

夕焼け ↓ ↓

鈴鹿の山が今年一番と言えるほどきれいなシルエットを見せてくれます。

 

明日天気にな~れ。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする