子供の頃は「何曜日の何時からは何チャンネルのアレ」って決めて見てたくらい
テレビが好きだった。
歌番組はカセットデッキとともに待ち構え、ピンクレディが歌い出すと
RECボタンを押し、ビールでいい気持ちになった父が喋り出すと姉妹で
「しーー!」とか怒ったりして(ケーブル繋ぐとかって技はない。)
今はそれほど夢中になって見てる番組はなくなったが
映ってるとつい見てしまうものはいくつかある。
「和風総本家」もそのひとつで、海外でも認められている日本の職人の技なんていうのが
大好きだったりする。
こないだはイタリアの革職人が惚れ込んでいる道具、刻印の話。
革に模様を刻む小さな金具なんだけど、4センチ四方くらいの木版にパターンを起こし
それを手作業で金属に1/4スケールで刻んだのち
焼き固めて強度を増し、切り出して棒の先に接着して作る。
この、刻む人と焼くひとと接着する人は別々で
それぞれがもはや数少ないその道の精鋭だ。
イタリアの革職人と日本の職人たちとはお互いの仕事ぶりをビデオで観たり
エール交換したりしていて、歴50年という職人が訥々と喜びを語るのを見て感動した。
古来から脈々と続くものというのに憧れがあるのは、普段の自分からは遠いことだからだろう。
そんな私の職場に1年前やってきた営業さんがここ数日バタバタしてるのは
3歳になる息子さんの幼稚園入園のため。
おとといは「明日の朝は願書を取ってきてから出社します」と言ってたので
まわりの先輩幼稚園ママらが「じゃあパパは徹夜だね」「朝何時から配布?」「先着何人?」
などと質問を浴びせたら、素でポカンとしていた。
「調べてないの!?やばいじゃん!」と言いつつ、さくさくネット検索始める先輩は
ちょっと普段仕事振り過ぎて可哀想だったのかもという後悔もあったりする。
ただ、それとは別に本人があんまり幼稚園に入れることに乗り気じゃないことも起因してるようで
「私は今のまま保育園でも全然構わないんですけれど」と言う。
じゃあなぜ?と聞いたらものすごい低い小さい声になって「あちらのお母様が。」
「あちらのお母様」は関西の格式あるお寺さんを守る人で、一族のなかでは「女帝」で通っている。
同僚さんの旦那様は次男だが、お盆、正月、女帝の誕生会などには家族総出で奉公に向かう。
長男は結婚しており息子さんも一人いるので、順当に行けばその子が後継者になるのだが
不謹慎な話、万が一の事があれば同僚さんの息子さんがその大役を担わなければならない。
それだから女帝は遠慮なく同僚さんの子育てにも口を出す。
「何かの時に、『だから保育園育ちは』と言われることを避けたい」というのが女帝のお考えで
それについてはずっと保育園にお世話になった私としては反論したいこともたくさんあるけど
世の中に(特に上流階級に)女帝と同じように考えるひとがいることも知っている。
「次男とはいえ寺になんか嫁いくもんじゃないですね」と同僚さんは笑う。
そもそも次男とつきあったのち別れたところを、女帝がどうしてもあなたがいいと強引に結婚させたそうで
今の時代にそんな話が実在するのも驚いてしまうけれど、
そんなことを成し遂げるくらい重大な責任を負って強く生きている女帝というひとを尊敬する気持ちもある。
怖い女になるしかなかったんだろう。もしかしたら同僚さんもそうなる日が来るかもしれない。
でもそんなことは寺にお参りにくる人たちには一切見えない。来年も再来年も10年後も、寺はそこにあって当たり前なのだから。
ふと私も、その人たちの一部なんだと気づく。当たり前だと思って享受しているものは、本当は知らない誰かの努力のおかげで存在しているものなんだ。
有り難い、と言葉の意味そのままにそう思えた。
私にせいぜいできるのは、遅刻してくる同僚さんに代わって、めんどくさい先生からのくどくどした電話を受けることくらいなんだけどね。
テレビが好きだった。
歌番組はカセットデッキとともに待ち構え、ピンクレディが歌い出すと
RECボタンを押し、ビールでいい気持ちになった父が喋り出すと姉妹で
「しーー!」とか怒ったりして(ケーブル繋ぐとかって技はない。)
今はそれほど夢中になって見てる番組はなくなったが
映ってるとつい見てしまうものはいくつかある。
「和風総本家」もそのひとつで、海外でも認められている日本の職人の技なんていうのが
大好きだったりする。
こないだはイタリアの革職人が惚れ込んでいる道具、刻印の話。
革に模様を刻む小さな金具なんだけど、4センチ四方くらいの木版にパターンを起こし
それを手作業で金属に1/4スケールで刻んだのち
焼き固めて強度を増し、切り出して棒の先に接着して作る。
この、刻む人と焼くひとと接着する人は別々で
それぞれがもはや数少ないその道の精鋭だ。
イタリアの革職人と日本の職人たちとはお互いの仕事ぶりをビデオで観たり
エール交換したりしていて、歴50年という職人が訥々と喜びを語るのを見て感動した。
古来から脈々と続くものというのに憧れがあるのは、普段の自分からは遠いことだからだろう。
そんな私の職場に1年前やってきた営業さんがここ数日バタバタしてるのは
3歳になる息子さんの幼稚園入園のため。
おとといは「明日の朝は願書を取ってきてから出社します」と言ってたので
まわりの先輩幼稚園ママらが「じゃあパパは徹夜だね」「朝何時から配布?」「先着何人?」
などと質問を浴びせたら、素でポカンとしていた。
「調べてないの!?やばいじゃん!」と言いつつ、さくさくネット検索始める先輩は
ちょっと普段仕事振り過ぎて可哀想だったのかもという後悔もあったりする。
ただ、それとは別に本人があんまり幼稚園に入れることに乗り気じゃないことも起因してるようで
「私は今のまま保育園でも全然構わないんですけれど」と言う。
じゃあなぜ?と聞いたらものすごい低い小さい声になって「あちらのお母様が。」
「あちらのお母様」は関西の格式あるお寺さんを守る人で、一族のなかでは「女帝」で通っている。
同僚さんの旦那様は次男だが、お盆、正月、女帝の誕生会などには家族総出で奉公に向かう。
長男は結婚しており息子さんも一人いるので、順当に行けばその子が後継者になるのだが
不謹慎な話、万が一の事があれば同僚さんの息子さんがその大役を担わなければならない。
それだから女帝は遠慮なく同僚さんの子育てにも口を出す。
「何かの時に、『だから保育園育ちは』と言われることを避けたい」というのが女帝のお考えで
それについてはずっと保育園にお世話になった私としては反論したいこともたくさんあるけど
世の中に(特に上流階級に)女帝と同じように考えるひとがいることも知っている。
「次男とはいえ寺になんか嫁いくもんじゃないですね」と同僚さんは笑う。
そもそも次男とつきあったのち別れたところを、女帝がどうしてもあなたがいいと強引に結婚させたそうで
今の時代にそんな話が実在するのも驚いてしまうけれど、
そんなことを成し遂げるくらい重大な責任を負って強く生きている女帝というひとを尊敬する気持ちもある。
怖い女になるしかなかったんだろう。もしかしたら同僚さんもそうなる日が来るかもしれない。
でもそんなことは寺にお参りにくる人たちには一切見えない。来年も再来年も10年後も、寺はそこにあって当たり前なのだから。
ふと私も、その人たちの一部なんだと気づく。当たり前だと思って享受しているものは、本当は知らない誰かの努力のおかげで存在しているものなんだ。
有り難い、と言葉の意味そのままにそう思えた。
私にせいぜいできるのは、遅刻してくる同僚さんに代わって、めんどくさい先生からのくどくどした電話を受けることくらいなんだけどね。