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『灰とダイヤモンド』 旅の友・シネマ編 (25) 

2018-10-20 21:17:25 | 旅の友・シネマ編



『灰とダイヤモンド』 Popiot I Diament (波)
1958年制作、1959年公開 配給:NCC モノクロ
監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ、イェジー・アンジェイエフスキー
撮影 イェジー・ウォイチック
音楽 フィリップ・ノワック
原作 イェジー・アンジェイエフスキー
主演 マチェック … ズビグニェフ・チブルフスキー
    クリスティーナ … エヴァ・クジイジェフスカ
    アンジェイ … アダム・パウリコフスキー
    フランク・ドレヴノフスキ … ボグミール・コビェラ
    シチューカ … ヴァーツラフ・ザストルジンスキー

1945年5月8日、ドイツ軍が降伏しポーランドの解放が目前となった。ただ、国内ではソ連と組んだ労働者党の共産党一派と
イギリスに亡命政権を置いた自由主義のロンドン派の組織が対立していた。ロンドン派にとってはソ連軍による祖国解放は
最大の失望となるためロンドン派の一部はテロ分子となって労働者党に抵抗した。アンジェイと若いマチェックはロンドン派の
組織員で、ソ連に亡命していた新政府の要人となるシュチューカの暗殺を狙っていた。しかし、標的を間違えて別の人間を
殺してしまう。暗殺に失敗したマチェックはホテルに一室をとりシュチューカ暗殺の機を待つ。そこでマチェックはホテルの給仕
クリスティーナと出会い、二人は互いに好意を持ち外に出かける。突然降り出した雨で二人は廃墟となった協会に雨宿りする。
そこの石碑にノルヴィッドの詩、「燃え尽きた灰の底に燦然たるダイヤモンド…」が刻まれていた。やがてマチェックは任務を
果たすために彼女と別れ、再度シュチューカの命を狙う。ドイツ軍降伏の祝賀会の花火が打ち上げられる中でマチェックは
遂にシュチューカを射殺した。翌朝、マチェクは荷物をまとめてクリスティーナに別れを告げ宴会の続くホテルを後にした。
しかし、保安隊の衛兵に追われて銃弾を受け、町はずれのゴミ捨て場でゴミにまみれて息を引き取る。



イエジー・カワレロヴィッチと共にポーランド映画のカードル派指導者であるアンジェイ・ワイダを代表する傑作で、彼の『世代』、
『地下水道』とともに「抵抗三部作」と呼ばれている作品です。
原作の小説では暗殺されるシュチューカが主人公として綴られていますが、ワイダは原作者の手を借りてこれを大きくアレンジ、
テロ分子のマチェックを主人公として祖国のかかえる悲劇と暗部を告発しています。
主義主張のために人を殺す事をやめようと思いながらも、時流に逆らうことが出来ず、自由を求めて抵抗した人々、命がけで
戦いながらその果てに疎外されてしまった人々への深い追悼が込められています。
作品の意図は自由への戦いであり、それに比して個人の無力さと人間のもろさを描くことによってポーランドの悲しい実体を
世界に発信しました。ワイダは後日「この作品は生き残ったものが死者に対して送るレクイエムである。」と語っています。



ワイダはこの作品で、若きテロリストの短い生涯を正統派のリアリズムと瑞々しいモノクロ画面で人間の「個」を主体として
各所に個性的な演出で描きました。
雨宿りの教会での逆さになったキリスト像、暗殺と同時に夜空に炸裂する解放祝賀の花火、など要所を強い画調で描き、
ラストではゴミ捨て場で無残に倒れるシーンは絶望的な孤独感を強調、いずれも型に嵌った見事な構図で苦悩する陰りの
深いポーランド像を綴りあげています。



この映画が制作された時代背景としては、ポーランドは終戦から後はソ連・スターリン体制下にあり、言論の自由はおろか、
出版物や映像表現に厳しい検閲が行われていました。1953年スターリン死後にはその検閲が少し緩んだようにも思えますが、
依然として自由への規制が多い東側陣営下であったことは否めません。
自由社会の人々の感覚からすればこの作品が共産党体制に対する抵抗であるのは一目瞭然なのですが、ポーランド政府の
見解は抵抗分子がゴミの中で息死ぬという物語で反政府運動の無意味さを象徴していると捉えており、真意とは逆に共産党
から絶賛されて許可が下りたといわれています。
どこか、ナチ占領下で撮られたマルセル・カルネ監督の反ナチカモフラージュ作品『悪魔が夜来る』が思い起こされます。
この作品は、当時の社会的背景を理解してご覧いただくとその意義がさらにお分かりいただけるのではないかと思う次第です。



参考までに、このタイトルの『灰とダイヤモンド』について
映画ではマチェクとクリスチーナが雨宿りの教会の墓碑名に刻まれていた弔詩で、この詩はチプリアン・カミユ・ノルヴィッドの
『舞台裏にて』の中の一篇で
  松明のごとく、汝の身より火花の飛び散るとき
  汝知らずや、わが身を焦がしつつ自由の身となれるを
  持てるものは失われるべきさだめにあるを
  残るはただ灰と、嵐のごとく深遠に落ちゆく混迷のみなるを
  永遠の勝利の暁に、灰の底深く
  燦然たるダイヤモンドの残らんことを
と綴られています。