港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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シネマ・ポップス…ときどきイラスト

『7月22日』

2019-07-21 21:03:27 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆テレンス・スタンプ Terence Stamp (1938.7.22~ )



舞台から映画に移り性格俳優として息の長い活動を続けているイギリスの俳優です。
曳き船の船長の息子としてロンドン貧民街に生まれ、セント・マーチンス美術学校に学びデザイナーとして広告業界に入り
ましたが、友人の勧めで演劇界に転じてウエバー・ダグラス演劇学校で演劇の基礎を学びました。幸運なことに在学中に
ピーター・ユスティノフ監督の目にとまって映画『奴隷戦艦』の準主役で映画デビューを果たしました。
以来、性格俳優として『可愛い妖精』『コレクター』などで悪役や異常者などを演じ、1960年代後期にはイタリア映画など
に主演し、今日でも現役俳優として活躍を続けています。

【主要出演作品】
1961年『奴隷戦艦』Billy Budd
1961年『可愛い妖精』Term of Trial

1965年『コレクター』The Collector

1966年『唇からナイフ』Modesty Blaise

1967年『遙か群衆を離れて』Far from the Madding Crowd

1968年『血と怒りの河』Blue
1967年『世にも怪奇な物語』Histoires Extraordinaires
1968年『テオレマ 』Teorema

『7月21日』その1

2019-07-20 20:46:18 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ジャック・フェデー Jacques Feyder (1885.7.21~1948.5.24)



1930年代のフランス映画黄金期においてトーキーによる映画芸術を確立させた映画監督です。
ベルギーのイクセルブに生まれました。曽祖父は将軍、祖父は演劇評論家、父はベルギー芸術家クラブの会長という名門の
環境で育ちましたが、20歳の時、士官学校を受験して失敗して演劇で身を建てるために1910年にパリに出ました。
ミシェル座やポルト・サン・マルタン座などで舞台経験を積み、1913年頃からゴーモン社の短編映画にも出演するように
なりました。1916年には短編映画 "Monsieur Pinson policier" を初監督し、1921年に幻想的雰囲気の『女郎蜘蛛』を監督、
これによって一流監督として注目され国際的にも認められるようになりました。
次いで、『クラクンビーユ』ではパリ下町のリアルな描写の中に幻想シーンを取り入れ、『雪崩』ではアルプスの寒村の中に
少年心理を叙情的に描き、『テレーズ・ラカン』では不貞妻テレーズの心理の深層を鋭く追及、フランスにおけるサイレント
芸術の礎を築く一翼となり、その名声はさらに高くなっていきました。
これに目を付けたMGMが1929年に妻のフランソワーズ・ロゼーとともにアメリカに招待して5年契約を結びました。そこで
グレタ・ガルボ主演など三本を監督したものの作品は鳴かず飛ばずで、実質的には5年間の「飼い殺し」状態となりました。
1933年に約5年ぶり帰国し、同郷の脚本家のシャルル・スパークと再会して新作の構想を練りに練り、同年に初トーキー作品の
『外人部隊』で再デビューを果たしました。この作品はトーキー初期のスタンバーグ監督の『モロッコ』を意識した作品と
思われますが、文芸的ロマンチシズムと鋭角的なリアリズムで人生の現実を描き上げ、トーキー初期のフランス芸術映画の
指針となる記念すべき一編となりました。
翌1934年には澱んだ敗残の人生縮図ともいえる『ミモザ館』を発表、養子を溺愛する下宿の女将の愛が無意識のうちに一人の
男性への愛に移りゆく心理を描き、部屋中に紙幣が舞い散るラストシーンで強烈な印象を与えました。
1935年にはフランドル地方のボウムに進駐してきたスペイン軍を市長夫人以下女性たちだけで歓待して通過させるまでを
象徴的かつ風刺的に描いた『女だけの都』を監督、フラマン派絵画そのままの構図に形象しフランドル様式の映像を再建、
人間の厳粛な洞察と清澄なイメージを自然主義的に仕上げました。
フェデーは、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネ、ジャン・ルノワールと共に、フランス映画
黄金時代の五大巨匠と言われていますが、『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』の三部作によりフランスのトーキー芸術
が完成されたといっても過言ではありません。
1937年にはイギリスで『鎧なき騎士』、ドイツで『旅する人々』など各地を転々とし数本の作品を残し、戦後にフランスに
戻って1947年に『宝石館』を監修しただけで、カムバックすることなく至醇のリアリストとしての人生を閉じてしまいました。

【主要監督作品】
1921年『女郎蜘蛛』L'atlantide

1922年『クラクンビーユ』Craninquebille
1923年『雪崩』Visages d'enfants

1924年『面影』L'images das bildnis
1926年『カルメン』Carmen
1928年『テレーズ・ラカン』Thérèse Raquin

1930年『印度の寵児』Son of India
1930年『アンナ・クリスティ』Anna Christie
1933年『外人部隊』Le grand jeu

1934年『ミモザ館』Pension Mimosas

1935年『女だけの都』La Kermesse héroïque

1937年『鎧なき騎士』Knight without Armour

1937年『旅する人々』Les gens du voyage

1947年『宝石館』Macadam back Streets of Paris (監修)


☆カレル・ライス Karel Reisz (1926.7.21~2002.11.25)



「怒れる若者たち」文学に誘発されてフリーシネマ運動の旗頭となったイギリスの映画監督、製作者です。
当時のチェコスロバキアのオストラヴァ(現在のチェコ)で生まれました。1938年にナチス・ドイツの占領を逃れてイギリスへ
へ渡り、ケンブリッジ大学で自然科学を専攻しました。第二次大戦後はイギリスの映画誌「サイト・アンド・サウンド」の
メンバーとなって映画評論家となり、1947年にはリンゼイ・アンダーソンらと共に映画雑誌『シークエンス』を立ち上げ、
そこでトニー・リチャードソンと知り合いました。
1950年代半ばに入ってイギリスで古い英国社会に対する反抗する怒れる若者たちをテーマにした文学がブームとなり、停滞
したイギリス社会に対する怒りを込めた青年群がこの鬱積を打ち破ろうとする運動が起こりました。これにカレル・ライスも
トニー・リチャードソン、ジャック・クレイトン、リンゼイ・アンダーソンなどと共にフリーシネマ運動を扇動し、1955年に
トニー・リチャードソンと共同で短編作品『ママは許さない』を監督、イギリス・フリーシネマ運動の旗頭となりました。
1960年にアラン・シリトー原作の『土曜の夜と日曜の朝』で長編映画を初監督、ドキュメンタリー映画の手法を用いながら
閉ざされた暗い青春の日々の実体を描き上げ、古い英国社会に対して怒りを込めたアウトサイダーの青年の苛立ちすなわち
「怒れる若者たち」の典型的な作品として高く評価されました。
その後もリンゼイ・アンダーソン監督の『孤独の報酬』の制作に携わるなどの裏方を支えましたが、監督作品の数は極めて
少ないながらも映画界に鋭い爪痕を残した映画作家の一人でした。
1968年には『裸足のイサドラ』を監督し、舞踏家イサドラ・ダンカンの奔放な愛の生活を描きましたが、フリーシネマ当時の
強烈な社会に対する反抗は見る影もなく薄れてしまいました。

【主要監督作品】
1955年『ママは許さない』 Momma Don't Allow

1960年『土曜の夜と日曜の朝』 Saturday Night and Sunday Morning

1966年『モーガン』 Morgan: A Suitable Case for Treatment
1968年『裸足のイサドラ』 Isadora



『7月21日』その2

2019-07-20 20:29:08 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ノーマン・ジェイスン Norman Jewison (1926.7.21~ 



TV出身で『夜の大捜査線』におけるしっかりした気概を持つ演出で注目されたアメリカの映画監督です。
イギリス移民の家系にカナダのトロントで生まれました。苦学してトロント大学を卒業してイギリスに渡り、ロンドンで
俳優をしながらBBC.TVで脚本を書くなどをしていましたが、カナダでもTV放送が始まり再びカナダに戻りました。
やがてアメリカのCBSを経て1962年にハリウッドのユニヴァーサル社に招かれ、当時の流行であったロマンチック・コメディ
路線の『40ポンドのトラブル』で映画監督デビューし、ドリス・デイ主演映画も興行的にヒットしたことで監督としての地位を
確かなものにしました。
1967年には『夜の大捜査線』で人種差別を辛辣に批判、翌年の『華麗なる賭け』でも間接的に大企業を批判するなど骨のある
ところを見せてくれました。

【主要監督作品】
1962年『40ポンドのトラブル』  40 Pounds of Trouble
1963年『スリルのすべて』 The Thrill of It All
1964年『花は贈らないで!』 Send Me No Flowers
1965年『シンシナティ・キッド』 The Cincinnati Kid

1966年『アメリカ上陸作戦』 The Russians Are Coming
1967年『夜の大捜査線』 In the Heat of the Night

1968年『華麗なる賭け』 The Thomas Crown Affair 

1971年『屋根の上のバイオリン弾き』 Fiddler on the Roof 


☆ヘレン・メリル Helen Merrill (1930.7.21~ )



「ニューヨークのため息」と称されたハスキーな歌声のアメリカの女性ジャズ・シンガーです。
クロアチア移民の娘としてニューヨーク市に生まれました。1946年からレジー・チャイルズ・オーケストラの歌手として
活動をはじめて、1954年に初のアルバム『ヘレン・メリル・ウィズ・クリフォード・ブラウン』を録音、その中の一曲で
クインシー・ジョーンズが編曲したリヴァイヴァル曲の『帰ってくれたら嬉しいわ』が大ヒットしました。
1950年代末にはニニ・ロッソと共演するなどヨーロッパでの活動が増し、その後1960年には初来日して日本公演を行ない、
1966年UPI通信社のアジア総局長ドナルド・J・ブライドン氏と結婚して1972年まで日本に滞在していました。
親日家としても知られ日本での人気の高い女性ジャズ歌手の一人です。

↓はヘレン・メリルの『帰ってくれたら嬉しいわ』 【YOUTUBEより】


↓はヘレン・メリルの『朝日のようにさわやかに』 【YOUTUBEより】


↓はヘレン・メリルの『サマー・タイム』 【YOUTUBEより】



☆藤澤嵐子 Ranko Fujisawa (1925.7.21~2013.8.22)



日本においてアルゼンチン・タンゴの普及に貢献したタンゴ歌手です。
東京に生まれ、1943年に上野音楽学校(現東京芸術大学)の声楽科に入学しましたが、父親が務めていた満州に渡りました。
敗戦後の1947年に東京に引き揚げダンスホールなどで唄っていたところ1950年にNHKラジオに出演し翌年には後の夫となる
早川真平のオルケスタ・ティピカ・東京に参加してタンゴを唄い始めレコード・テビューを果たしました。
1953年には早川真平らと共にアルゼンチン研修に出かけ、フアン・ペロン大統領の御前でアニバル・トロイロのバンドネオン、
ロベルト・グレラのギター演奏で『スール』『ジーラ・ジーラ』を唄って大反響を起こし、一夜にしてブエノスアイレスの
人気者になりました。その後も計五回アルゼンチンを訪れ、アルゼンチンでも "Ranko Fujisawa" の名前を知らないものは
ないほどの押しも押されもしないタンゴ歌手になりました。
1950年代半ばに日本でもタンゴ・ブームが起こり、日本のタンゴの女王として精力的にコンサートを続けてタンゴ・ファンの
拡大のために貢献したことには最大のリスペクトを払わなければなりません。
1991年には現役を完全引退して東京を去り、新潟県に移り住んでいたとのことです。

【主要歌唱曲】
『スール』Sur 【YOUTUBEより】

『ジーラ・ジーラ』Yira…Yira 視聴
『カミニート』Caminito 視聴
『ママ恋人が欲しいの』Mama Yo Quiero Un Novio 【YOUTUBEより】

『アディオス・コラソン』Adiós Corazón 視聴
『ノスタルヒアス』Nostalgias 視聴
『さらば草原よ』Adiós Pampa Mía 視聴
『君なくて』Que Falta Que Me Haces 【YOUTUBEより】

(藤澤嵐子さんはこのカテゴリーに登場する唯一の日本人です)

『7月20日』

2019-07-19 20:54:52 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ナタリー・ウッド Natalie Wood (1938.7.20~1981.11.29)



愛らしい子役から『ウエストサイド物語』などでトップ・スターとなったハリウッド女優です。
カリフォルニア州サンフランシスコでロシアから移民してきた両親の間に三人姉妹の次女として生まれました。生後まもなく
サンタ・ローザに移り、4歳の頃この町に映画 "Happy Land" のロケに訪れたアーヴィング・ピシェル監督に見初められて
わざわざ彼女のためにワン・シーンを撮影したのが映画入りの契機となりました。1946年にピシェル監督の正式な招きで
ユニヴァーサル社と契約を交わし、映画『離愁』の孤児の役で本格デビューを飾り、翌年の『三十四丁目の奇蹟』でさらに
愛らしさを発揮して一躍子役スターとなりました。その間に数本の映画に出演しながらスタジオ内ハイスクールを卒業し、
1955年にジェームズ・ディーンと共演した『理由なき反抗』で子役から娘役へと転換し『草原の輝き』『ウエストサイド物語』
によってトップ・スターの座を手に入れました。
しかし、その後はB級娯楽作品、1970年代はTVドラマが主体となって女優活動が低迷していましたが、まだこれからひと花
咲かそうとした1981年に、映画『ブレインストーム』の撮影に入った最中、入り江で水死しているのが発見されました。
事故死または他殺という意見もあり、真相はいまだに謎とされたままです。

【主要出演作品】
1946年『離愁』Tomorrow Is Forever

1947年『三十四丁目の奇蹟』Miracle on 34th Street

1949年『日曜は鶏料理』Chicken Every Sunday
1955年『理由なき反抗』Rebel Without a Cause

1956年『捜索者』The Searchers

1960年『札束とお嬢さん』Cash McCall

1960年『夜が泣いている』All the Fine Young Cannibals
1961年『草原の輝き』Splendor in the Grass

1961年『ウエストサイド物語』West Side Story

1962年『ジプシー』Gypsy
1963年『マンハッタン物語』Love with the Proper Stranger

1964年『求婚専科』Sex and the Single Girl

1965年『グレートレース』The Great Race

1965年『サンセット物語』Inside Daisy Clover
1966年『雨のニューオリンズ 』This Property Is Condemned

1966年『美人泥棒』Penelope

『7月19日』

2019-07-18 19:40:45 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ヴィッキー・カー Vikki Carr (1941.7.19~ )



スペイン語が達者なアメリカ人としてラテン・ミュージックで成功したポップ・シンガーです。
メキシコとの国境沿いの町で英語とスペイン語が公用語となっているテキサス州 エルパソで生まれたメキシコ系の
アメリカ人です。
1958年にローズミード・ハイスクールを卒業し1962年にリバティ・レコードと契約を結びました。最初のシングル
" He's a Rebel " がオーストラリアでヒット(5位)しましたがアメリカではチャート圏外だったようです。
その後低迷が続きましたが、1967年に『この恋に生きて』が全米3位の世界的なヒットとなり、1967年から1971年に
かけて7曲が全米チャートに記録されています。
その後は1990年代にかけてラテン音楽に専念し、女性ラテン・ポップシンガーとして成功を収めていました。

【主要歌唱曲】
1965年『シェルブールの雨傘』 I Will Wait For You 視聴
1966年『この胸のときめきを』You Don't Have To Say You Love Me 視聴
1967年『この恋に生きて』It Must Be Him 全米3位 視聴
1972年『アドロ』Adoro【YOUTUBEより】



【ご命日】

★ジェームズ・ガーナー James Garner (1928.4.07~2014.7.19)



どんな役でもこなせて映画はもとよりTVでも活躍したハリウッド俳優。
主な出演督作品として『札束とお嬢さん』『噂の二人』『大脱走』『グラン・プリ』などがある。


★セシル・オーブリー Cécile Aubry (1928.8.03~2010.7.19)



『情婦マノン』でファム・ファタール(男たちを破滅させる女)を演じて名を残したフランスの女優。
主な出演作品として『黒ばら』『情婦マノン』『青ひげ』などがある。