古代エジプトの「失われた黄金都市」を発見、3400年前
「時間が止まったかのよう」「ポンペイのエジプト版」と、驚きの保存状態
3400年前のエジプトに、自らの名前と宗教、そして150年以上も続いた首都を捨てた異端の王がいた。現在のルクソールにあったテーベという首都を放棄して、アケトアテンという都市を新たに築き、そこで妻のネフェルティティとともにエジプトを統治したアクエンアテンだ。だが、彼の死後に若くしてエジプトの統治者となった息子のツタンカーメンは、父の遺産にことごとく背を向けた。
(参考記事:「エジプト初の革命家 アクエンアテン」)
しかし、アクエンアテンがなぜ、テーベを放棄したのかは大きな謎とされている。その答えの手がかりが、このたびテーベで新たに発見された古代の産業都市から得られるかもしれない。この都市は、アクエンアテンが父親のアメンホテプ3世から受け継いだものだ。4月9日の発表でルクソールの「失われた黄金都市」と呼ばれた今回の発見は、その地を後にした異端のファラオ(王)とともに、さまざまな興奮や憶測、そして論争を呼ぶことだろう。
この都市が最初に見つかったのは2020年9月のことだ。しかし、そのときは広大な遺跡のごく一部しか明らかになっていなかったため、それがエジプト学にとってどれほどの重要性を持つのかはわかっていなかった。ただし、保存状態の良さは研究者たちを驚かせた。
「驚異的な発見であることは間違いありません」と、エジプトにあるアメリカン大学カイロ校のエジプト学部門を主導する考古学者のサリマ・イクラム氏は言う。「まるで時間が止まったかのようです。まさにポンペイのエジプト版と言えるでしょう」
異端の王アクエンアテンとは
この遺跡は第18王朝のファラオであるアメンホテプ3世の時代のものだ。アメンホテプ3世は、紀元前1386〜1353年頃ごろにかけて並外れた富と権力をもってエジプトを統治した。晩年には、わずかな期間、息子のアクエンアテンとともに統治を行ったようだ。
アクエンアテンの治世は紀元前1353〜1336年頃だが、父の死の数年後には、前王が守ってきた伝統を破壊し始める。そして17年間の在位期間中にエジプトの文化を根底から覆し、太陽神アテンを除くすべての伝統的なエジプトの神々への信仰をやめた。自らの名前も、アメンホテプ4世から「アテンに仕える者」という意味のアクエンアテンに改名した。
ファラオの背教行為はそれにとどまらない。アクエンアテンは玉座をテーベから、アケトアテン(現在のアマルナ)というまったく新しく建設した都市に移した。また、形式的で画一的だったエジプト芸術を、生き生きとした精密なものに変えるという芸術革命を主導した。
しかし、アクエンアテンの死後、その痕跡のほとんどが消し去られることになった。息子の少年王ツタンカーメンの時代以降、アクエンアテンが作り上げた首都、芸術、宗教、そしてその名前すらも、歴史から意図的に抹消された。この異端の王がよみがえったのは、18世紀にアマルナが再発見されてからだ。それ以来、アマルナは数百年にわたって貴重な考古学的発見をもたらし続けている。
このアクエンアテンの変革はなぜ、どのように起きたのだろうか。また、偉大なアメンホテプ3世の時代の日常生活とはどんなものだったのだろうか。今回ルクソールで新たに発見された都市は、その謎の解明に光を与えてくれるかもしれない。
貴重な発掘品の数々
発掘現場の周辺には、新旧さまざまな考古学的発見をもたらした場所が点在する。北には紀元前14世紀のアメンホテプ3世の葬祭殿が、南にはそのほぼ200年後のラムセス3世の葬祭殿であるメディネト・ハブがある。そのため、その間には、紀元前1325年頃にツタンカーメンが死んだときに臣下たちが食料や品物を副葬品として捧げた場所があるかもしれないと期待されていた。
しかし、実際に見つかったのはまったく違うものだった。高さ最大3メートル弱のジグザグ状になった日干しレンガの壁、そしてたくさんのアメンホテプ3世時代の遺物だ。
とりわけ多く発見されたのが、日々の生活を支えた芸術品や工芸品などの日用品だった。労働者が住んでいたと思われる住居跡、パン工房や調理場、金属やガラスの製造に関連する品、行政施設と思われる建物、そして岩をくりぬいて作られた墓が並ぶ共同墓地まで見つかっている。
都市全体の規模はまだ明らかになっていないが、さまざまな品物に刻まれたヒエログリフのおかげで年代は特定されている。約10キロのゆでた肉が入った器には「37年」と刻まれていた。これはアメンホテプ3世とアクエンアテンの父子が共同統治をしていたと推測される時代を表している。スカラベ(甲虫をモチーフにした装飾品)やレンガ、容器などには、アメンホテプ3世の印章がついていた。
7世紀から砂に埋もれていた
エジプト芸術と考古学が専門の米ジョンズ・ホプキンズ大学教授ベッツィ・ブライアン氏によると、建物にはやがて異端の道を歩むことになる息子の名前も刻まれていた。氏は今回の発掘には関与していないが、現場を訪れていた日に、「アテンは真実の上に生きる」というヒエログリフが刻まれた小さな粘土の天井が見つかった。ブライアン氏は、「これはアクエンアテンを指すあだ名です」と話す。ただし、息子の名前に言及してはいるものの、今回見つかった都市は北にある父の宮殿群の一部だという。その宮殿群は「まばゆいアテン」という意味を持つネブマートルと呼ばれていた。
アクエンアテンが権力を得て改革を始めると、父の都市とそこにあるすべてを残して去っていった。
しかし、この古代の都市は、現代考古学にとっては宝の山だ。イクラム氏は、「非常に美しい場所です」と感嘆する。高い壁に囲まれた通りを歩いたときは、角の向こうから古代エジプト人が出てくるのではないかと思ったほどだ。「誇張ではなく、本当に衝撃的な体験でした」
この都市は、アケトアテンを捨ててメンフィスに新しい首都を築いたツタンカーメンの時代にも再度使われることになったようだ。また、ツタンカーメンの死後、その妻と結婚し王位を継いだアイにも引き継がれたようだ。この遺跡には4つの異なる住居層があり、紀元後3〜7世紀の東ローマ帝国支配下のコプト教時代まで使われていたことがわかっている。その後は、今回発見されるまで砂に埋もれていた。
それにしても、なぜアクエンアテンの短い治世の間に、この都市は放棄されたのだろうか。ブライアン氏はこう述べる。「この遺跡を通してその答えに近づけるかどうかはわかりません。得られるのは、アメンホテプ3世とアクエンアテンや彼らの家族に関する情報でしょう。発掘は始まったばかりですが、多くの手がかりが得られるはずです」
今回発見された都市によって、アクエンアテンの謎が解かれることはないかもしれない。それでも、この異端の王が残した足跡を鮮やかに浮かび上がらせることになるはずだ。