暖かな春は短かった。
5月も下旬になり、季節は一気に夏めいてきた。
作業服が塩をふく恐怖の季節は否応なく近づいている。
長い人で九連休だった、今年のゴールデンウィーク。
そうでない人でも三連休+四連休か。
多くの休暇をつかって、多くの人が笑顔の思い出をつくったことだろう。
生きるために働くわけで、働くために生きるわけじゃない・・・私も珍しく二連休をとった。
週休二日制が世の中に定着して久しいが、私が連休をとるのは極めて稀。
たったの二連休でも貴重に感じられ、随分と楽しい時を過ごすことができた。
しかし、その後に問題あり。
元来、働くことが嫌いな私。
休み明けの朝、もの凄い疲労感と虚無感に襲われて辛い思いをした。
幸か不幸か、休み慣れしてないせいで、こんなかたちでツケが回ってくる。
たった二日の休暇でこのザマだから、9連休なんかしたら病気になって寝込んでしまうかもしれない。
一体、何のための休暇なんだか・・・ホント、悲しい性(サガ)を背負っている。
しかし、少なからずの人が似たような苦しみを味わったのではないだろうか。
「五月病」なんて言葉があるのもそれが故。
この時期は、季節の変わり目でもあり、心身ともに不具合を起こしやすいのだろう。
幸い、私は、五月病には縁がない。
3月~4月に新年度らしい節目もないし、GWらしい休暇もないから。
あとは、“万年五月病患者”だからかも。
例年苦しんでいる冬欝も、今季は極めて軽かった。
昨年秋頃から覚悟は決めていたのだが、いい意味で拍子抜けしたような次第。
お陰で?酒の量も食欲も減らず、精神が健康な分、肉体が不健康になっているように思える。
嫌でも好きでも、大人は働くこと、子供は勉学に励むこと、これが責務。
サボったツケ・楽したツケは自分に回ってくる。
ジタバタしないで、外の温度にあわせて内の温度を上げていくしかない。
懸案の“携帯電話買い替え問題”。
迷った挙句、結局、スマホを購入。
冷静に考えてみたら、見栄っ張りの私が従来型を買うわけもなかった。
ちなみに、従来型は「フィーチャーフォン」というらしい。
ケータイショップの店員がそう教えてくれた。
お別れするときになってやっとその名を知るなんて、まったく“おバカ”である。
慣れないせいで、今はまだ使い勝手が悪い。
しかし、字を読むことが大嫌いな私は、取扱説明書は開きもせず。
使っていくうちに慣れていくつもりでいる。
今までのものに比べると、操作手順がかなり増えた。
電話をかけるだけ、メールを開くだけなのに、何度も画面を操作する必要がある。
それに増してタッチする部分を間違えたりするものだから手間がかかって仕方がない。
手の指と精神の神経は決して太くないつもり。
なのに、タッチしたつもりの部分じゃないところが反応することが多い。
これはかなりイラつく!
おまけに、両手が拘束される。
今までは、本体を開くとき以外、ほとんど片手で済んだのにスマホの場合そうはいかない。
片手だと、画面を開くことさえできない。
更には、手袋を着けている手(指)にはディスプレイが反応しない。
私の場合、現場においてラテックスグローブ(薄手のゴム手袋のようなもの)を着けていることが多いわけで、しかも、これは複数回使用できる想定ではない。
電話やメールがくる度にいちいちはずすわけにもいかず、結果、急いでいる場合は、無様にも肘でタッチしているような始末である。
また、携帯電話のくせに携帯しにくい。
従来型にくらべてサイズが大きく、ズボンのポケットに入れておきづらい。
しかも、どうしても過保護にしてしまい、ちょっとした重荷になっている。
落下など、外部からの衝撃にはあまり強くないらしい。
片面全面がディスプレイになっているせいだろう。
ポケットに入れるのが習慣なら、保護カバーを着けることを勧められた。
ちなみに、防水性能はかなり高いみたい。
店員いわく、「お風呂に落としたくらいでは平気です」とのこと。
対して、「汚腐呂でも平気なのかなぁ・・・」なんて“おバカ”ことを考えた私だった。
電話とメールだけしか使わないなら、なにもスマホにする必要はない。
スマホの真髄は、インターネット関連の機能のはず。
だから、インターネットを活用しなければスマホを買った意味がなくなる。
もともと、インターネットに対するニーズが低い私。
しかし、せっかく手に入れたスマホ。
とりあえず、ネットを開いてみることにした。
とは言っても、見たいサイトを思いつかない。
とりあえず、道路情報、天気予報、時事ニュースなどを開いてみた。
そこでは機械の機能や性能の高さは味わえたのだが、サイトの中味はどれも面白くはなかった。
そこで、思いついたのが「特殊清掃 戦う男たち」。
自分のブログがどんな感じで映し出されるのか見てみることに。
早速、私はキーワードを打ち込んで検索をかけた。
目当てのサイトはすぐにでてきた。
そりゃそうだ、ブログタイトルをそのまま打ち込んだのだから。
それから、画面をルーレットのようにテキトーに転がして、ある年・ある日の記事を不作為に取り出してみた。
過去にあげた自分のブログを読むなんてことは滅多にない私。
もともと字を読むのが嫌いなうえに、自分が書いたものを読んでも仕方がないから。
“書き捨て”を常としているブログである。
ほとんど読み返すことがないうえ、500編近くたまった記事の一つ一つを頭の鈍い私が憶えているわけはない。
それでも、読んでみると甦ってくるものが多々あった。
そして、まるで他人が書いたものを読んでいるかのような不思議な感覚と新鮮さを覚えた。
このブログをはじめたのは6年前・・・ちょうど5月。
すでに年齢は若くなかったけど、それでも、今と比べれば若かった。
たった数年間のことなのに、当時の筆圧を思い出すと懐かしい。
時の経過によって心身や志向が変化するのは不自然なことではない。
とはいえ、以前に比べて今の自分は、重く、活きが悪く、低いところに偏り、浅いところに落ち着いているような気がする。
これを「進化」といえばいいのか、それとも「退化」というべきか、判断が難しい。
何はともあれ、過去の自分に感化されたのは事実。
自己満足、自己陶酔、自己憐憫、自己矛盾etc、それらを整理できないまま自分のブログに感情を動かされてしまった。
過去の自分を反面教師にするのではなく教師にするなんて、ホント“おバカ”である。
私は、人からバカにされることを嫌い、人にバカにみられることを怖れる。
だから、見栄をはり、虚勢をはり、面子をはる。
そんなこと気にしないでいられたら楽なのに。
私は、ある意味で幸せな人間だが、ある意味で不幸な人間。
必要な知恵がなく不必要な欲があり、必要な志向がなく不必要な思考があるから。
身体は確実に歳をとっているのに、中身は成長していないから。
多くの場合、大人は子供に比べて賢く、そして力がある。
しかし、多くの意味で、子供は大人に比べて幸せである。
社会に対する剣や鎧を持たない分、軽く生きることができるから。
自分が賢くみられようがバカにみられようが、周囲に大差はない。
悪くあってはならないが、愚かであってはならないが、そうでなければ、そんなこと気にするだけ不幸。
私は、自分の浅慮をよく嘆くけど、ホントに嘆くべきは余計な見栄や体裁を捨てられないことだと思う。
頭は単細胞のくせに思考は単純にいかない私。
理屈をこねくり回してシカメッ面をする私より、素直に泣き笑う子供の方がよっぽど人生を楽しんでいるのではないだろうか・・・
生き方を簡単にすること、単純に生きること、それが今の私に必要なこと、今の私が求めていることかもしれない。
「幸せとは?」
「ひょっとしたら、そんなこと考えないで生きることかも・・・」
先のGW、子供のような笑顔を浮かべる大人達をみて、そんな風に思ったバカになれないバカ(私)である。
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5月も下旬になり、季節は一気に夏めいてきた。
作業服が塩をふく恐怖の季節は否応なく近づいている。
長い人で九連休だった、今年のゴールデンウィーク。
そうでない人でも三連休+四連休か。
多くの休暇をつかって、多くの人が笑顔の思い出をつくったことだろう。
生きるために働くわけで、働くために生きるわけじゃない・・・私も珍しく二連休をとった。
週休二日制が世の中に定着して久しいが、私が連休をとるのは極めて稀。
たったの二連休でも貴重に感じられ、随分と楽しい時を過ごすことができた。
しかし、その後に問題あり。
元来、働くことが嫌いな私。
休み明けの朝、もの凄い疲労感と虚無感に襲われて辛い思いをした。
幸か不幸か、休み慣れしてないせいで、こんなかたちでツケが回ってくる。
たった二日の休暇でこのザマだから、9連休なんかしたら病気になって寝込んでしまうかもしれない。
一体、何のための休暇なんだか・・・ホント、悲しい性(サガ)を背負っている。
しかし、少なからずの人が似たような苦しみを味わったのではないだろうか。
「五月病」なんて言葉があるのもそれが故。
この時期は、季節の変わり目でもあり、心身ともに不具合を起こしやすいのだろう。
幸い、私は、五月病には縁がない。
3月~4月に新年度らしい節目もないし、GWらしい休暇もないから。
あとは、“万年五月病患者”だからかも。
例年苦しんでいる冬欝も、今季は極めて軽かった。
昨年秋頃から覚悟は決めていたのだが、いい意味で拍子抜けしたような次第。
お陰で?酒の量も食欲も減らず、精神が健康な分、肉体が不健康になっているように思える。
嫌でも好きでも、大人は働くこと、子供は勉学に励むこと、これが責務。
サボったツケ・楽したツケは自分に回ってくる。
ジタバタしないで、外の温度にあわせて内の温度を上げていくしかない。
懸案の“携帯電話買い替え問題”。
迷った挙句、結局、スマホを購入。
冷静に考えてみたら、見栄っ張りの私が従来型を買うわけもなかった。
ちなみに、従来型は「フィーチャーフォン」というらしい。
ケータイショップの店員がそう教えてくれた。
お別れするときになってやっとその名を知るなんて、まったく“おバカ”である。
慣れないせいで、今はまだ使い勝手が悪い。
しかし、字を読むことが大嫌いな私は、取扱説明書は開きもせず。
使っていくうちに慣れていくつもりでいる。
今までのものに比べると、操作手順がかなり増えた。
電話をかけるだけ、メールを開くだけなのに、何度も画面を操作する必要がある。
それに増してタッチする部分を間違えたりするものだから手間がかかって仕方がない。
手の指と精神の神経は決して太くないつもり。
なのに、タッチしたつもりの部分じゃないところが反応することが多い。
これはかなりイラつく!
おまけに、両手が拘束される。
今までは、本体を開くとき以外、ほとんど片手で済んだのにスマホの場合そうはいかない。
片手だと、画面を開くことさえできない。
更には、手袋を着けている手(指)にはディスプレイが反応しない。
私の場合、現場においてラテックスグローブ(薄手のゴム手袋のようなもの)を着けていることが多いわけで、しかも、これは複数回使用できる想定ではない。
電話やメールがくる度にいちいちはずすわけにもいかず、結果、急いでいる場合は、無様にも肘でタッチしているような始末である。
また、携帯電話のくせに携帯しにくい。
従来型にくらべてサイズが大きく、ズボンのポケットに入れておきづらい。
しかも、どうしても過保護にしてしまい、ちょっとした重荷になっている。
落下など、外部からの衝撃にはあまり強くないらしい。
片面全面がディスプレイになっているせいだろう。
ポケットに入れるのが習慣なら、保護カバーを着けることを勧められた。
ちなみに、防水性能はかなり高いみたい。
店員いわく、「お風呂に落としたくらいでは平気です」とのこと。
対して、「汚腐呂でも平気なのかなぁ・・・」なんて“おバカ”ことを考えた私だった。
電話とメールだけしか使わないなら、なにもスマホにする必要はない。
スマホの真髄は、インターネット関連の機能のはず。
だから、インターネットを活用しなければスマホを買った意味がなくなる。
もともと、インターネットに対するニーズが低い私。
しかし、せっかく手に入れたスマホ。
とりあえず、ネットを開いてみることにした。
とは言っても、見たいサイトを思いつかない。
とりあえず、道路情報、天気予報、時事ニュースなどを開いてみた。
そこでは機械の機能や性能の高さは味わえたのだが、サイトの中味はどれも面白くはなかった。
そこで、思いついたのが「特殊清掃 戦う男たち」。
自分のブログがどんな感じで映し出されるのか見てみることに。
早速、私はキーワードを打ち込んで検索をかけた。
目当てのサイトはすぐにでてきた。
そりゃそうだ、ブログタイトルをそのまま打ち込んだのだから。
それから、画面をルーレットのようにテキトーに転がして、ある年・ある日の記事を不作為に取り出してみた。
過去にあげた自分のブログを読むなんてことは滅多にない私。
もともと字を読むのが嫌いなうえに、自分が書いたものを読んでも仕方がないから。
“書き捨て”を常としているブログである。
ほとんど読み返すことがないうえ、500編近くたまった記事の一つ一つを頭の鈍い私が憶えているわけはない。
それでも、読んでみると甦ってくるものが多々あった。
そして、まるで他人が書いたものを読んでいるかのような不思議な感覚と新鮮さを覚えた。
このブログをはじめたのは6年前・・・ちょうど5月。
すでに年齢は若くなかったけど、それでも、今と比べれば若かった。
たった数年間のことなのに、当時の筆圧を思い出すと懐かしい。
時の経過によって心身や志向が変化するのは不自然なことではない。
とはいえ、以前に比べて今の自分は、重く、活きが悪く、低いところに偏り、浅いところに落ち着いているような気がする。
これを「進化」といえばいいのか、それとも「退化」というべきか、判断が難しい。
何はともあれ、過去の自分に感化されたのは事実。
自己満足、自己陶酔、自己憐憫、自己矛盾etc、それらを整理できないまま自分のブログに感情を動かされてしまった。
過去の自分を反面教師にするのではなく教師にするなんて、ホント“おバカ”である。
私は、人からバカにされることを嫌い、人にバカにみられることを怖れる。
だから、見栄をはり、虚勢をはり、面子をはる。
そんなこと気にしないでいられたら楽なのに。
私は、ある意味で幸せな人間だが、ある意味で不幸な人間。
必要な知恵がなく不必要な欲があり、必要な志向がなく不必要な思考があるから。
身体は確実に歳をとっているのに、中身は成長していないから。
多くの場合、大人は子供に比べて賢く、そして力がある。
しかし、多くの意味で、子供は大人に比べて幸せである。
社会に対する剣や鎧を持たない分、軽く生きることができるから。
自分が賢くみられようがバカにみられようが、周囲に大差はない。
悪くあってはならないが、愚かであってはならないが、そうでなければ、そんなこと気にするだけ不幸。
私は、自分の浅慮をよく嘆くけど、ホントに嘆くべきは余計な見栄や体裁を捨てられないことだと思う。
頭は単細胞のくせに思考は単純にいかない私。
理屈をこねくり回してシカメッ面をする私より、素直に泣き笑う子供の方がよっぽど人生を楽しんでいるのではないだろうか・・・
生き方を簡単にすること、単純に生きること、それが今の私に必要なこと、今の私が求めていることかもしれない。
「幸せとは?」
「ひょっとしたら、そんなこと考えないで生きることかも・・・」
先のGW、子供のような笑顔を浮かべる大人達をみて、そんな風に思ったバカになれないバカ(私)である。
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