私は、これまで、大病を患ったことがない。
平凡的な体調不良にみまわれるたり、入院の危機に晒されたりしたことはあったけど。
また、大ケガを負ったこともない。
骨折したことは三度あるけど、手術したり入院したりするほどのことではなかった。
金で治療は買えるけど、健康までは買えない。
身体の健康が守られていることは、本当に幸いなこと。
大切にしたいものである。
ストレス、運動不足、偏食、睡眠不足・・・健康を害する要因は色々ある。
私も、多くの不健康要因を抱えている。
その代表格は、ストレス。
そして、酒。
大晦日に深酒して以降、毎晩の飲酒量が減らなくて困っている。
飲酒の条件をつくって禁酒や減酒を試みるのだが、夜になるとどうしても飲みたくなって負けてしまう。
そして、一定の量でやめられず、次の一杯に手をだしてしまう。
“身体に悪い”とわかっていてもやめられない・・・
禁断症状がでるほどではないけど、これも一種のアル中なのだろうか。
しかし、酒は、身体に悪くても精神にはよかったりするもの。
私の飲み方も、長くそんな風だった。
ただ、今回の酒はちょっと違ってきている。
沈んだ気持ちが浮揚するような、暗い気持ちにボンヤリとした明りが灯されるような・・・鬱々とした気分が、何の根拠もなく紛れて楽になるのだ。
もちろん、これは悪いことではない。
たまになら、これはこれでいいのかもしれない。
ただ、日常的な依存癖にしてしまうのはどんなものか・・・
酒が一種の精神安定剤のような存在になりつつあるのではないかと、危機感を感じ始めている。
精神の安楽を酔魔に求めるクセがついたら、現実を生きていくことがますます辛くなっていくに決まっているから。
今のうちに、なんとかせねば・・・
自分の心が暗くなっているせいか、世間も暗く見えてしまう。
実際、世の中を流れるニュースも、暗いものが多い。
混乱する政治、停滞しっぱなしの経済、人の悪性が表れる事件、凄惨な事故・・・
どこを見ても、明るいネタは少ない。
メディアを通してみる政治家は、“覚悟のなさ”と“頼りなさ”を露呈。
支配階級の事情は被支配階級に属する私が知る由もないことだけど、「国のために命をかけて仕事をしている」といった気概は伝わってこない。
命がけの生活を強いられている人々がいる中で・・・
経済も相変わらず暗い。
長引く不況ももはや特別なことではなく当り前の景観として定着しつつあり、中小企業ばかりでなく大手企業も倒産の憂き目に遭っている。
巷には、就職できない学生と失業者があふれ、「一億総中流」は過去の夢幻と化し・・・
一部の勝ち組と富裕層をよそに貧困層は拡大の一途をたどり、生活苦にあえぐ人々が生きることに耐えられず、命を手放している。
これも、負け組の宿命か。人生に対する自己責任か。
人生に命をかける生き方はいいにしても、生活に命をかけなければならない生き方には、辛いものがある。
生き地獄をも感じさせるこの難局は、いつまで続くのか・・・
どう乗り越えればいいのか・・・
「憂いても何かが好転するわけではない」とわかっていても、悲観思考が染み付いている私の心は明るくなっていかない。
そんな世の中にあっても、明るいニュースがでてきた。
児童施設にランドセルを贈る等の、例の事象だ。
これが一時的な流行であったとしても、ホッとさせられるものがある。
贈る人、贈られる人、それぞれに想いと事情があるのだろうから、私のような者がコメントするのは軽率でしかないのだが、単純に、心が温められる。
そして、「俺にもできることがあるかも・・・」と考えるきっかけを与えてくれている。
「自分を犠牲にしてまでのことはできないけど、自分でも何かできることはないだろうか・・・」と。
これは、“善意の押し売り”“ただの自己満足”かもしれない。
“一時的な自己陶酔”“一過性の偽善意”であるかもしれない。
しかし、私のように、余計なことを考えてばかりで何も行動しないのが最もダメなパターン。
理屈ばかりこねていても、誰も幸せになれない。
理屈が100点でも、行動がなければ0点と同じことだ。
常日頃の私は、能書きは一人前のくせに、行動は半人前。
観客席で野次をとばすばかりの人間。
そんな人間が行動を起こすことを考えているわけだから、進歩といえば進歩。
ただ、寂しいことに、私は、自分の善行を周囲に知ってもらえないと気が済まないタイプ。
私は、“善い人だと思ってもらいたい”“人によく思われたい”という気持ちが強い人間なのである。
このブログもそう。
初期の頃は、そんな下心も少なく、バカバカしい記事を挙げていたのに、いつの間にか名誉欲や自己顕示欲が色濃く滲むようになっている。
こんな小さな世界で、私は、有名人を気取り、ヒーローを気取っている。
「思慮深いでしょ?」「頑張ってるでしょ?」「わりと善い人でしょ?」と言いたいのがアリアリと見て取れると思う。
(ま、これを打ち明けることによって、その色は濃くなるだけなんだけど・・・)
ま、今更そんなこと説明する必要ないか・・・
そんなの承知の上で、読んでもらってるんだろうから・・・
私のような人間は、自分に対して自己顕示できないから、人に対して自己顕示したがるのだろう。
私の貧欲は、自己顕示欲だけではない。
時々書いていることだけど、金銭欲もまた人一倍強い。
若い頃に比べると弱くなってきたけど、情欲もある。
また、弱虫と泣虫にも寄生されている。
弱虫は子供のときから掬っているけど、最近は、それに加えて泣虫まで涌いてきた。
害虫駆除には慣れているはずが、この駆除にはかなり手を焼いている。
泣虫の駆除に泣いているような始末で・・・(この滑稽さに笑えれば、泣虫は駆除できるかもね。)
私は、これらのものを、今の体調不良の原因の一つであると認識している。
更に、この他にも、“知恵のなさ”“勇気のなさ”“忍耐力のなさ”“猜疑心の強さ”etc・・・挙げていけばキリがないくらいのものがある。
前向きになれない自分、上向いていかない気分・・・結局のところ、その病原は、自分の不完全さと悪性なのである。
だから、一生治らない可能性も充分にある・・・いや、完治する可能性はないはず。
それでも、それがわかっていても、生きているかぎり“治療”することをやめてはならない。
痛い手術を施され、苦い薬を飲まされ、辛いリハビリを強いられながらも、私は、“治療”するために生きていかなければならない。
それが、私のとるべき生き方なのである。
先日、とある御宅に特殊清掃に出向いた。
私の担当現場ではなかったが、志願して行った。
楽な作業ではなかった。
作業服は汚れ、身体中が臭くなった。
でも、一生懸命やった。必死にやった。
余計なことは考えず、汚腐呂をお風呂に戻すことだけに集中した。
作業中、私から余計な思い煩いは消えていた。
このふやけた身体と精神に、鬱々と失せていた力が漲っていた。
そして、その内には、「それでいいんだ」と私の肩をたたく特掃隊長がいた。
公開コメント版はこちら
平凡的な体調不良にみまわれるたり、入院の危機に晒されたりしたことはあったけど。
また、大ケガを負ったこともない。
骨折したことは三度あるけど、手術したり入院したりするほどのことではなかった。
金で治療は買えるけど、健康までは買えない。
身体の健康が守られていることは、本当に幸いなこと。
大切にしたいものである。
ストレス、運動不足、偏食、睡眠不足・・・健康を害する要因は色々ある。
私も、多くの不健康要因を抱えている。
その代表格は、ストレス。
そして、酒。
大晦日に深酒して以降、毎晩の飲酒量が減らなくて困っている。
飲酒の条件をつくって禁酒や減酒を試みるのだが、夜になるとどうしても飲みたくなって負けてしまう。
そして、一定の量でやめられず、次の一杯に手をだしてしまう。
“身体に悪い”とわかっていてもやめられない・・・
禁断症状がでるほどではないけど、これも一種のアル中なのだろうか。
しかし、酒は、身体に悪くても精神にはよかったりするもの。
私の飲み方も、長くそんな風だった。
ただ、今回の酒はちょっと違ってきている。
沈んだ気持ちが浮揚するような、暗い気持ちにボンヤリとした明りが灯されるような・・・鬱々とした気分が、何の根拠もなく紛れて楽になるのだ。
もちろん、これは悪いことではない。
たまになら、これはこれでいいのかもしれない。
ただ、日常的な依存癖にしてしまうのはどんなものか・・・
酒が一種の精神安定剤のような存在になりつつあるのではないかと、危機感を感じ始めている。
精神の安楽を酔魔に求めるクセがついたら、現実を生きていくことがますます辛くなっていくに決まっているから。
今のうちに、なんとかせねば・・・
自分の心が暗くなっているせいか、世間も暗く見えてしまう。
実際、世の中を流れるニュースも、暗いものが多い。
混乱する政治、停滞しっぱなしの経済、人の悪性が表れる事件、凄惨な事故・・・
どこを見ても、明るいネタは少ない。
メディアを通してみる政治家は、“覚悟のなさ”と“頼りなさ”を露呈。
支配階級の事情は被支配階級に属する私が知る由もないことだけど、「国のために命をかけて仕事をしている」といった気概は伝わってこない。
命がけの生活を強いられている人々がいる中で・・・
経済も相変わらず暗い。
長引く不況ももはや特別なことではなく当り前の景観として定着しつつあり、中小企業ばかりでなく大手企業も倒産の憂き目に遭っている。
巷には、就職できない学生と失業者があふれ、「一億総中流」は過去の夢幻と化し・・・
一部の勝ち組と富裕層をよそに貧困層は拡大の一途をたどり、生活苦にあえぐ人々が生きることに耐えられず、命を手放している。
これも、負け組の宿命か。人生に対する自己責任か。
人生に命をかける生き方はいいにしても、生活に命をかけなければならない生き方には、辛いものがある。
生き地獄をも感じさせるこの難局は、いつまで続くのか・・・
どう乗り越えればいいのか・・・
「憂いても何かが好転するわけではない」とわかっていても、悲観思考が染み付いている私の心は明るくなっていかない。
そんな世の中にあっても、明るいニュースがでてきた。
児童施設にランドセルを贈る等の、例の事象だ。
これが一時的な流行であったとしても、ホッとさせられるものがある。
贈る人、贈られる人、それぞれに想いと事情があるのだろうから、私のような者がコメントするのは軽率でしかないのだが、単純に、心が温められる。
そして、「俺にもできることがあるかも・・・」と考えるきっかけを与えてくれている。
「自分を犠牲にしてまでのことはできないけど、自分でも何かできることはないだろうか・・・」と。
これは、“善意の押し売り”“ただの自己満足”かもしれない。
“一時的な自己陶酔”“一過性の偽善意”であるかもしれない。
しかし、私のように、余計なことを考えてばかりで何も行動しないのが最もダメなパターン。
理屈ばかりこねていても、誰も幸せになれない。
理屈が100点でも、行動がなければ0点と同じことだ。
常日頃の私は、能書きは一人前のくせに、行動は半人前。
観客席で野次をとばすばかりの人間。
そんな人間が行動を起こすことを考えているわけだから、進歩といえば進歩。
ただ、寂しいことに、私は、自分の善行を周囲に知ってもらえないと気が済まないタイプ。
私は、“善い人だと思ってもらいたい”“人によく思われたい”という気持ちが強い人間なのである。
このブログもそう。
初期の頃は、そんな下心も少なく、バカバカしい記事を挙げていたのに、いつの間にか名誉欲や自己顕示欲が色濃く滲むようになっている。
こんな小さな世界で、私は、有名人を気取り、ヒーローを気取っている。
「思慮深いでしょ?」「頑張ってるでしょ?」「わりと善い人でしょ?」と言いたいのがアリアリと見て取れると思う。
(ま、これを打ち明けることによって、その色は濃くなるだけなんだけど・・・)
ま、今更そんなこと説明する必要ないか・・・
そんなの承知の上で、読んでもらってるんだろうから・・・
私のような人間は、自分に対して自己顕示できないから、人に対して自己顕示したがるのだろう。
私の貧欲は、自己顕示欲だけではない。
時々書いていることだけど、金銭欲もまた人一倍強い。
若い頃に比べると弱くなってきたけど、情欲もある。
また、弱虫と泣虫にも寄生されている。
弱虫は子供のときから掬っているけど、最近は、それに加えて泣虫まで涌いてきた。
害虫駆除には慣れているはずが、この駆除にはかなり手を焼いている。
泣虫の駆除に泣いているような始末で・・・(この滑稽さに笑えれば、泣虫は駆除できるかもね。)
私は、これらのものを、今の体調不良の原因の一つであると認識している。
更に、この他にも、“知恵のなさ”“勇気のなさ”“忍耐力のなさ”“猜疑心の強さ”etc・・・挙げていけばキリがないくらいのものがある。
前向きになれない自分、上向いていかない気分・・・結局のところ、その病原は、自分の不完全さと悪性なのである。
だから、一生治らない可能性も充分にある・・・いや、完治する可能性はないはず。
それでも、それがわかっていても、生きているかぎり“治療”することをやめてはならない。
痛い手術を施され、苦い薬を飲まされ、辛いリハビリを強いられながらも、私は、“治療”するために生きていかなければならない。
それが、私のとるべき生き方なのである。
先日、とある御宅に特殊清掃に出向いた。
私の担当現場ではなかったが、志願して行った。
楽な作業ではなかった。
作業服は汚れ、身体中が臭くなった。
でも、一生懸命やった。必死にやった。
余計なことは考えず、汚腐呂をお風呂に戻すことだけに集中した。
作業中、私から余計な思い煩いは消えていた。
このふやけた身体と精神に、鬱々と失せていた力が漲っていた。
そして、その内には、「それでいいんだ」と私の肩をたたく特掃隊長がいた。
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