特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

小休止

2010-05-27 18:13:26 | Weblog
春と夏の境目にきて、現場作業でかく汗の量が増えてきた。
これから、作業服が塩をふく季節。
身体を甘やかさないことと身体を壊さないことに注意を要する季節だ。

身体を悪くしては、もともこもない。
かと言って、保身ばかりに傾倒していると仕事にならない。
その辺のバランスが難しい。

現場においては、昼食もとらすに作業を続けることは日常茶飯事。
昼食をとるタイミングが計りにくいうえに、休憩をとることが無駄な時間を浪費することのように思えて、どうしても作業を優先してしまうから。
“肉体は休みたがっても、精神が休みたがらない”といったところだ。

しかし、水分補給くらいはしないと、それこそ身体を壊す。
だから、小休止はとるようにしている。
夏期は水、冬期はお茶、夜は酒。だいたいこれを飲む。

大汗をかいたときなどはスポーツドリンクを飲むこともあるけど、基本的には水かお茶を好んで飲んでいる。
ジュース類を飲まない理由は、糖分と炭酸。
あの不自然な甘ったるさと、咽が痛くなるような炭酸が苦手なのである。
(チューハイやビールは全然平気なんだけど・・・)

そんな日常のせいか、私は、いつも疲れている・・・
この身体と頭には、常に重い疲労感を抱えている。
そして、この表情も、行動も、それを感じさせる。

普段、大したことをやっていないのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。
精神力がないせいか、身体(歳)のせいか・・・
“I am Hard worker”“俺は疲れている”と、自己暗示をかけてしまっているのだろうか。

気づいてみると、常に軽い睡魔に襲われている。
時間が空くと、ボーッとなる頭を抱えながら目をショボショボさせている。
不眠症のゆえと諦めてはいるけど、なかなかツライものがある。

私の場合、アルコール燃料に頼ることが多いけど、それにも限界はある。
効くのは当夜だけ。
翌朝には、重さを増した倦怠感が圧しかかってくる。

やはり、疲れをとるには、休息が一番。
人は、働くために生きているのではなく、生きるために働くのであるから。
だから、仕事ほどほどに、適度に休むことが大切だと思う。


好天に恵まれた先日、久しぶりに休みをとった。
“朝は思いっきり寝坊するぞ!”と意気込んで寝てはみたものの、不眠症と仕事病が災いして、いつもの時刻に覚醒。
朝っぱらから目が冴えまくり、ゆっくり寝坊どころではなかった。

それでも、せっかくの休日。
“たまにはゆっくり寝ていたい”という常日頃の願望を実現するべく、そのまま布団に居ることに。
睡魔と戦う平日の自分を思い浮かべながら、自分を無理矢理寝かしつけた。

気合を入れた甲斐あって?、間もなく再入眠。
そして、言葉では言い表せない至福感の中で、脳だけでなく身体まで溶けそうになるくらいまで昼寝。
お陰で、随分と頭と身体を休めることができた。


休日の過ごし方には、色々あると思うけど・・・
読書・・・本を読むことは苦手。好きじゃない。
映画鑑賞・・・観たい映画がはいわけではないが、映画館に行くのが面倒臭い。
買物・・・手の届く範囲で欲しいものはない。
音楽鑑賞・・・お気に入りの楽曲やアーティストはいない。
DVD鑑賞・・・レンタルショップの会員証を持っていない。つくる気もない。
TV・・・普段からあまり観ない。面白い番組がない。
スポーツ・・・余計に疲れるような気がする。
インターネット・・・退屈。興味なし。
散歩・・・どこを歩けというのか・・・
飲酒・・・さすがに、昼間から酒を飲むのは抵抗がある。
・・・結局、残るのは雑用と昼寝くらいなのである。


何もかも“なりゆき”に任せて、惰性で過ごしている毎日。
何もかも他人や境遇のせいにして、諦め気分で過ごしている毎日。
趣味らしい趣味を持たず、仕事にあけくれ、安酒と惰眠をむさぼる毎日。

変わり映えしない毎日に感謝したり、飽き飽きしたり・・・
喜びと疲労感を交錯させながら格闘している。
そんな日々に価値がないとは言わないけど、なかなか価値を見出しにくい現実もある。

私の時間は、燻ぶっている。
そして、私の時間は、その単調さに輝きを失っている。
それでも、私の時間は、刻一刻と過ぎている。

しかし、休みが少ないことは悪いことばかりではない。
その一日がとても貴重に、大事に思えるから。
単なる昼寝でも、とても大切に思えてくるから。


布団に横になっていると、私の頭には、あることが浮かんでくる・・・
最期のときを間近にした自分が、病院のベッドに横たわっている姿が浮かんでくるのだ。
そして、病室の天井をボンヤリと眺めながら、自分の頭には何が過ぎるかを想像するのである。

クタクタになるまで働いたこと、クタクタになるまで遊んだこと、
悲しみに泣いたこと、喜びに泣いたこと、
頭を抱えて悩んだこと、腹を抱えて笑ったこと、
人をキズつけたこと、人にキズつけられたこと、
人に腹を立てたこと、自分に腹を立てたこと、
人を好きになったこと、自分を嫌いになったこと、
美味い酒に酔ったこと、美味しいものに肥えたこと、
人の笑顔を羨ましく思ったこと、人の笑顔を嬉しく思ったこと、
些細なことに苛立ったこと、些細なことに喜んだこと、
聞くべきことを聞かなかったこと、目に見えるはずのないものが見えたこと、

祭のあとの余韻に似た感覚の中、それらの一つ一つを懐かしく想い出すだろう。
“アッという間だった・・・”と想うだろう。
そして、一人、温かい孤独の中で、それまでは決して浮かべることのできなかった清い笑顔を浮かべるのだろう。

ゆっくり寝ていたくても寝ていられない今だけど、いずれ、寝ていたくなくても寝ていなければならないときがくる。
その時まで、もうちょっと頑張って起きていようと思う。
最期の時、「よく生きた」と、嬉しく思えるように・・・



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ナマケモノ

2010-05-17 08:09:08 | Weblog
春真っ盛り。
天候不順だった4月が過ぎ、“遅い春”といったところか。
青い空と白い雲を従えて、太陽が温度を増している。

このゴールデンウィークも晴天に恵まれた。
私は、例によって無休だったけど、それももう慣れたもの。
反対車線に徐行する行楽渋滞を横目に、快適走行。
心地よい風を受けながら、レジャーを空想しながら各地の現場へと車を走らせた。

そんな春は、人々に優しい。
暑からず・寒からず、過ごしやすい時間を与えてくれる。
そしてまた、生気漲る自然が、気力をも与えてくれる。
そんな季節が一年を覆ってくれればどんなに楽だろう・・・
春夏秋冬の趣を喜びつつも、ついついそんな風に思ってしまう。

「私にとって、冬は精神的にキツイ季節である」
と、以前に何度か書いたことがある。
その傾向は、今年も変わっていない。
やはり、暗くて寒いと精神が病みやすい。
そういった意味では、だいぶ楽になっている今日この頃である。

しかし、こんな優しい季節にも“病”はある。
そう、“五月病”だ。
特に、新入生や新入社員に患う人が多いのだろうか。
蔓延するストレスに物事の意味や先の目標を奪われ、会社や学校に行くことに気も足も重くなる・・・
その、逃げだしたくなるような気持ち、よくわかる。

私の場合は、“万年五月病”。
朝、仕事に行くのがイヤじゃない日なんてほとんどない。
キツイ現場を予定しているときは、特にそう。
作業の何日も前から気が重くなり、ヒドイときは夢にまででてきて私の安眠を妨害する。
更に、神経質な性格が災いして、悪い空想ばかりが頭を過ぎる。

前回のブログでカッコつけたにも関わらず、実態はそう。
怠けようとする身体とそれを叱咤する理性が、毎朝のようにケンカをする。
ただ、理性が勝つから仕事に行くのではない。
また、自分の精神力がモノを言うから仕事に行くのではない。
うまく言えないけど、生きるためのやっとの気力が、私を動かしているように感じている。

この時もそう・・・
仕事の依頼を受けた私は、生活の糧となる仕事が与えられていることに感謝しつつも、その仕事をこなさなければならない重圧にのしかかられ・・・
不快な緊張感とプレッシャーに、気持ちを暗くしていた。


訪問した先は、閑静な住宅地に建つ一般的な一軒家。
依頼者は、その家に住む中年の女性。
現場は、二階の一室。
女性の息子が、自室として使っている部屋だった。

案内されて部屋に入ると、そこはゴミ部屋。
床は少しも見えておらず、6畳ほどのスペースはゴミが占有。
AV機器・PC・ギター・雑誌・CD・ゲーム・飲料容器etc・・・
置いてある家財とゴミは、部屋の主がまだ若いことを示唆。
私は、部屋の主と、親の迷惑を顧みることなかった若い頃の自分とを重ねて深い溜息をついた。

ゴミの中には、大量のペットボトルと缶が存在。
その中には、茶系の液体。
それが飲み物でないことは、一目瞭然。
過去の経験と目の前の光景を照らし合わせた私には、その正体がすぐに分かった。

女性の要望は、それら全部の片付け。
女性は、謎の液体が何であるか承知のうえで、ゴミの始末を私に依頼してきた。
それを聞いた私は、即答できず返事を保留。
そして、気を重くしながら、覚悟すべき作業を頭の中に組み立てた。
一考の結果、作業において、家中に悪臭が広がることと、床が汚れてしまうことが確実に。
私は、トラブルを未然に防ぐため、そのことを説明し、それを了承してもらうことを作業実施の条件とした。


ゴミを溜めた息子は、定職につかずアルバイトを転々。
警察の御厄介になるほどの遊びには手を出さないものの、消費者金融から金を借りては遊興三昧。
一度染み付いた怠け癖は、周囲が目くじらを立てても抜けることはなく・・・
両親がその尻を拭ったことは一度や二度ではなかった。

そんな息子に、両親は、“自活させれば変わるかも”と、外に賃貸アパートを用意。
過保護をあらためるべく、物理的にも心的にも一定の距離を置くことにした。
しかし、それは、更なる問題を招くことに・・・
息子は、親の目がなくなったことをいいことに、悪さをエスカレートさせた。
仕事に就かないのはもちろん、払うべきお金も払わず・・・
家賃や水道光熱費を滞納しただけにとどまらず、あろうことかそこをゴミ部屋にしてしまった。

そんなこんなで、両親はまたもや尻拭いをさせられるハメに。
結局、一人前の一人暮らしができない息子を、実家に戻すことに。
片や、息子の方は、反省の色を見せず。
ゴミを片付けない習慣をあらためるどころか、アパート時代の生活スタイルをそのまま継続。
両親の目をはばかることもなく、ゴミを放置する生活を始め・・・
そして、両親がそんな息子を持て余しているうちに、息子の部屋は、またもやトイレ兼ゴミ箱と化してしまったのであった。


そう・・・謎の液体は尿・・・しかも、充分に腐敗した・・・
トイレに立つのが面倒臭かったのか、息子は、ペットボトルや空缶に排泄。
そして、蓋ができるペットボトルはゴミの中に放り、蓋ができない缶はパズルのように積み上げ・・・
これを長期間に渡って繰り返し、とんでもない量を溜め込んだのだった。

特に私が泣かされたのは、積み(組み)上げられた缶。
なにせ、これには蓋がないものだから、横に傾けるわけにいかず・・・
しかし、絶妙のバランスで重なっているそれは、一本抜くと周囲の何本もが崩れ落ちるような有様で・・・
当然、ひっくり返った缶からは、腐敗尿が流れ出し・・・
どう収拾をつけていいのかわからないまま、私は、悲鳴に近い雄叫びを上げながら、身を挺するしかなかった。

結局・・・
それらを一本一本手に取り・・・
中身をバケツに移し換え・・・
そのクサイことといったら、ハンパではなく・・・
飛び散る腐敗尿の滴は、腕や身体を汚し・・・
タイミングが悪いと、顔にまで跳ね返ってきたりして・・・
そうしていっぱいにしたバケツをトイレへ運び・・・
便器の中に流す・・・
ひたすら、これの繰り返し・・・
それは、仕事の域を超えた試練、試練の域を越えた修行のような感覚を私にもたらすものだった。


元来の私は、ナマケモノ。
かなりの面倒臭がりで、残念ながら、そのレベルは病的なくらい。
楽することばかりを志向し、頭や身体を動かすことを億劫がる。
ギリギリまで追い詰められないと動かない。

特に、これから夏にかけては暑くなる一方で、現場作業に過酷さが増す。
皮膚が涙にも似た汗を滲ませ、筋肉という名の贅肉が悲鳴をあげる。
脳も身体も動きが鈍くなり、その隙を狙って、怠け心が夏の盛の雑草のように芽を出してくる。
そいつを摘み取るだけで、いっぱいいっぱいになったりする。

怠けて楽できると思うのは、その時だけの錯覚。必ず苦がついてくる。
怠けて得をするのは自分ではない。怠けて損をするのが自分。
そんな理屈は、多くの人が理解している。
だから、多くの人が、怠け心と対峙し戦っている。

一生懸命に生きることを怠けようとする自分。
楽して生きることばかりを望む自分。
そんな自分を卑下し、落ち込む自分。
全部、自分。
そいつとも対峙し戦わなければならない。

必死に生きるための気力は、失われっぱなし。
やっと得た気力も、アッという間に消えてなくなる。
それでもまた、気を育てる・・・それを繰り返す・・・
気を枯らさないように、気の根を腐らせないように・・・
希望と笑顔の陽を当て、汗と涙の雨を降らせ、訓戒と鍛錬の肥料をやり続ける・・・

それは、生きるためにしがみつく樹に、実を生らせる営み・・・
そして、実の味わいを深くする営み・・・
・・・私のようなナマケモノにとって、贅沢な生き方なのかもしれない。






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やる? やらされる? ~能動編~

2010-05-07 09:52:18 | Weblog
「死後一週間」
「もの凄い数のハエが湧いている!」
「とても中に入れない」

ある涼しい季節、若い女性の声で、そんな電話が入った。
私は、その口から発せられる一つ一つの言葉にもとづいて、頭の中で現場の状況を映像化。女性の説明を幾重にも重ねながら、その画を鮮明にしていった。

現場は、郊外に建つ高層の公営アパート。
その上階の一室だった。
現れたのは、20代に見える若い男女。
女性の方は幼児を抱いており、二人が夫婦であることは一目瞭然だった。

二人は、緊張の面持ち。
固い表情に笑みを割り込ませ、私に向かって深々と頭を下げてくれた。
一方の私は、頭の低さに恐縮。
二人よりも頭を低くすべく、子供の頃から硬いままの身体を強引に折り曲げた。

そんな挨拶を交わして後、本題へ。
二人と故人の関係、晩年の生活ぶり、経済的なことなど、男性は、抱える事情を話してくれた。
それを聞く私は、平然とした姿勢。
私の反応が、依頼者の感情を波立たせてしまうことがあるため、意図してその様な構えをみせた。

亡くなったのは、女性の父親。
特に疎遠だったわけではないのだが、その死に気づいたのは一週間後。
何日も電話にでないことを不審に思った女性が故人宅を訪問し、ベッドに横になったまま冷たくなった父親(故人)を発見したのだった。

晩年の故人は、体調を崩して無職。
借金こそないものの、収入らしい収入はなし。
わずかな蓄えを切り崩しながら、細々とした生活を送っていた。
若い二人も、自分達の生活を成り立たせるだけで精一杯。
幼い子を抱え、夫婦共働きもままならず。
父親の窮乏を知らないではなかったが、それを支援できるほどの余力はなかった。

「あまりお金をかけられないんで、自分達でできることはやるつもりなんです・・・」
二人は、原状回復にかかる費用のことを不安に思っている様子。
二人の口からは、故人の死を悼む心情よりも、金銭に関わる事情ばかりが出てきた。
ただ、私は、そんな二人のことを、“冷たい人間”だとは思わず。
無責任な人間は、そんな心配はしないわけで・・・私は、社会的責任をキチンと果たそうとする二人の誠実さに、好感さえ抱いた。

「でも、ハエがどうしても無理で・・・」
二人は、ゴキブリやハエなどの不衛生害虫が、極めて苦手とのこと。
気持ち悪さを通り越して、恐怖感すら抱くらしい。
そんな訳で、室内に入ることに強い抵抗感を覚えているようだった。

一通りの話が済むと、男性は、一本の鍵を差し出した。
そして、「一人で行ってきてもらうことはできますか?」と、申し訳なさそうに私に依頼。
難色を示す理由もなかった私は、「気にしないで下さい」と快く引き受けた。

大規模団地といえど、配置構造はいたってシンプル。
私は、他室の部屋番号を横目に歩き、故人の部屋に接近。
それから、玄関前に立ち止まり、クンクンと臭気観察。
外に異臭の漏洩がないことを確認し、念のため、インターフォンをPush。
中から応答がないことに違和感なく、鍵穴に鍵を挿し込んだ。

私は、小さく開けたドアの隙間に鼻を近づけて、軽く空気を吸った。
すると、私の鼻は、かすかな異臭を感知。
その濃度は、想像していたものに比べるとはるかに低いもので・・・
私は、緊張からきていた身体の硬直が解けるのを感じながら、専用マスクを首から外した。

当初、“土足で上がり込むことになるだろう”と思っていた私。
しかし、室内はきれいそのもの。
靴のまま入ることが躊躇われた私は、傍にあったスリッパを借りてそれに履き替えた。

狭い間取りの中、問題の部屋はすぐに見つかった。
そこは、大きなベッドが占有しており、そのベッドマットには人の死を訴える薄い汚れが付着していた。
しかし、それは、依頼者の不安を無にするくらいのライト級。
私は、気が緩み過ぎないよう気をつけながら、他に汚染がないか周囲を観察した。

すると・・・
腹が減って力が出ないのだろう、窓際に佇むハエが数匹・・・
餓死して床に転がる死骸が十数匹・・・
これから羽化するであろうサナギが、ベッドサイドに十数個・・・
ウジの姿は確認できず・・・
こんな具合に、私の天敵であるハエ達は、いつになく地味な展開をみせていた。

数分のうちに現地調査を終えた私は、一階のエントランスにUターン。
そして、エントランスでの立ち話はやたらと声が通るので、二人を屋外に連れ出した。
それから、部屋の異臭や汚染は極めて軽いものであることを説明し、その片付けは素人にもできるレベルにあることを伝えた。
同時に、本件を原因とする内装改修工事は不要であることを説明し、民間不動産に比べて、公営アパートの原状回復費用は格段に安く済むことを伝えた。

私の話を聞いた二人は、不安一色だった顔に、安堵の色が浮かべた。
そして、自分達で片付けるためのアドバイスを求めてきた。
しかし、やはり、問題はハエ。
その始末については、二人の間でなかなか結論が出ず、片付けの算段はそこで止まってしまった。

困惑する二人・・・
無邪気に笑う子供・・・
そんな若い家族の奮闘と前途を想うと、特掃魂に火がつかないわけはなく・・・
“ハエの始末くらいなら、無償でやってあげてもいいかな”という気持ちが、私の中に芽生えてきた。

「事のついでですから、虫の掃除だけしていきましょうか?お金はいりませんので・・・」
「え!?いいんですか!?」
「はい」
「しかし、無料でやっていただくのは・・・」
「ついでですから、大丈夫ですよ」
「すいません・・・助かります・・・」
私の申し出に、二人は平身低頭。恐縮しきり。
一方の私は、“ドンマイ”気分。
“たまにはカッコつけさせてもらおうかな”と、無償の作業を請け負ったのであった。


能動的に“やる”のと、受動的に“やらされる”のとでは、苦痛の度合いがまったく違う。
何事も、“やらされる”ってツラい。
外からのプレッシャーを、中からのパワーが受けきれず、ストレスがかかるためだ。

どうせやらなきゃいけないことなら、能動的にやった方がいい。
それは、私が、率先してキツい仕事に出向く動機の一つでもある。
率先していけば、やらされることからくるストレスを回避できるから。
ストレスを抱えて損をするのは自分だから。

前にも書いたけど、私は、この仕事・・・とりわけ特掃業務は、やらされてできるものではないと思っている。
もちろん、「実作業が不可能」と言っている訳ではない。
必要な道具を使い、必要なだけ身体を動かせば、一通りの作業はできる。
しかし、それでは、自分の心が喜ぶ仕事は完成しない・・・生活の糧は稼げても、人生の糧は収穫できないと考えている。

生きることも同様。
同じ人生であっても、能動的に生きるのか、受動的に生きるのか・・・
積極的に生き、楽観的に生き、希望を持って生きるのか、それとも、消極的に生き、悲観的に生き、失望して生きるのか・・・
・・・それによって得られる爽快感が違うと思う。

積極的に生きるとは、日々(生き方)の選択において、自分の気持ちが熱くなること(方)を選ぶこと。
楽観的に生きるとは、日々(生き方)の選択において、自分の気持ちが明るくなること(方)を選ぶこと。
希望を持って生きるとは、日々(生き方)の選択において、自分の気持ちが晴れること(方)を選ぶこと。

それは、自分にとって愉快な道ではないかもしれない。楽な道でもないかもしれない。
苦しみを重くし、痛みを強め、悩みを深める道かもしれない。
しかし、それが、能動的に生きようとする自分の良心が選択した道なら、きっと、そこから人生は開けてくる・・・そう思う

仕事でも勉強でも、次の一歩を、ちょっとだけ能動的に踏み出してみるといい。
その“ちょっとしたこと”が、人生において“たいしたこと”になってくるから。

そして始まる、今日一日。
今日も一日、がんばろ。ね。








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