「こんな話をしたら、笑われるかもしれませんけど・・・」
ある日の夕方、中年男性の声で電話が入った。
一風変わった前置きに、野次馬(私)は耳を欹てた。
話の中身は、勤務する会社でトラブルが頻発して困っているというもの。
当社は、特殊清掃や遺体処置だけではなく、他にも色んなサービスを提供しているが、その中に企業のコンサルティング業務は入っていない。
“電話するところを間違ってないか?”と思わなくもなかったが、心に放牧している野次馬が話の続きを聞きたがったので、とりあえず最後まで聞いてみることにした。
男性は、準大手企業の部門責任者。
管理職として働いていた。
そんな社員の尽力もあってか、会社の業績は上向きに。
ともなって、使っていたオフィスは手狭に。
結果、更なる飛躍を目指して、一等地に建つ広いオフィスに移転した。
しかし、期待に反し、新しいオフィスではトラブルが続発。
病気で休職する者がでたり、後ろ足で砂をかけて退職する者がでたり、また、それまでにはなかったような顧客クレームも発生した。
結果、好調だった業績は下向きに。
ほんの一年足らずの間に、事業は、拡大どころか縮小が視野に入ってくるまでに一変した。
中間管理職の宿命か・・・そんな中で、男性は、上からも下からもプレッシャーをかけられ、ノイローゼ気味に。
それでも、苦境を打開すべく、問題の原因に心当たりがないか暗中模索。
そうして考えているうち、頭の中に一つの事が浮上してきた。
それは、入居時、このオフィスに掲げてあった神棚。
業績不振によってこのオフィスを出て行った前の会社が、そっくりそのまま残置していったもの。
男性は、それを“縁起が悪い!”として嫌悪。
迷うことなく、部下を使ってゴミ同然に処分したのだった。
それまでは気にも留めていなかった神棚なのに、一度気になりだすと収まりがつかず、そのうちそれが憂鬱の種になり始めた。
しかも、取り外し処分の実作業をした二人の部下は、一人は病気休養、もう一人は仕事のミスに端を発した冷たい人間関係に耐えられず退職。
そんな事象も手伝って、神棚を災難の原因とする気持ちが強固なものになっていった。
そんな中で、男性は“自分では手に負えない”と判断し、当方に相談の電話をかけてきたのであった。
目に見えるモノに手をつけることによって、目に見えないモノが動くことはよくある。
“遺品を整理することによって、遺族の気持ちも整理される”
“遺体をきれいに処置することによって、遺族の悲哀が癒される”
“部屋を特掃することによって、遺族が落ち着きを取り戻す”
等といったことは、その典型例。
しかし、最初から目に見えないモノを動かす目的をもった仕事は、私が責任を負えるものではない。
「申し訳ありませんが、お役に立てることはないと思いますよ・・・」
「捨てた神棚に原因があるとは思えませんし・・・」
「仮に、私どもが手を施したとしても、それでトラブルが止まる保証もありませんから・・・」
一通りの話を聞いた私は、“これは、請け負える仕事ではない”と判断。
申し訳ない気持ちをもちながらも、男性の依頼を断った。
「やっぱり、ダメですかぁ・・・」
「そりゃ、そうですよねぇ・・・」
「変なこと相談して、申し訳ありませんでした」
男性は“ダメもと”で電話をしてきたのだろう、私の返答をすんなり受諾。
未練はありそうだったけど、それ以上は粘ってこなかった。
私は、本件の原因が神棚にあるとは思っていない。
またそれに限らず、どこの仏壇にも、位牌にも、遺骨にも、御守にも、神社仏閣にも、墓にも、その類のあらゆるものにも、そんなパワーがあるとは思っていない。
また、多くの人が拝んだり、強く念じることによってパワーが宿るようなものでもないとも思っている。
今の私は、そんなこと信じてはいない。
だから、無意識にやっているかもしれないことを除いては、縁起をかつぐことはない。
仕事上の作業として求められるとき以外、仏壇や神棚や墓を拝んだりすることもなければ、
神社仏閣に詣でることもしない。
六曜や占いの類、風水も信じない(金の力と女性の涙は、簡単に信じちゃうんだけどね・・・)。
また、仕事に取り組むにあたっても、数珠・清塩・御守などといった物を必要としない。
・・・いつも“丸腰”なのである。
しかし、昔は違った。
御守・運勢・占い・風水・神社仏閣etc・・・、自分を守ってくれそうなもの、自分を良い方向に導いてくれそうな雰囲気を醸しているものには、積極的に飛びついた。
“そんなモノに力はない”と、薄々気づいていながら・・・
そう言えば、20代半ばの頃には、腕に数珠ブレスレットをつけていたこともあった。
今にして思うと、その動機は極めて不純。
“故人(供養)のため”とは表向きで、実際は“祟られない(保身の)ため”。
もしくは、遺族や関係者に対して自分を善人っぽく・プロっぽくみせるためのアクセサリー。
突き詰めて考えてみると、ただの薄っぺらい自己満足でしかなかったように思う。
遺族や遺体発生現場の関係者から「供養(除霊)した方がいいですかね?」なんて質問を受けることは珍しくない。
しかし、私は、「責任がとれないので・・・」と明言を避けている。
そして、「自分が持つ死生観や宗教観に従えばいいのでは?」とアドバイスする。
しかし、実際、特別な死生観・宗教観を持っている人は少ない。
だから、無責任でも薄識でも私の返答を欲しがる。
そんな人には、個人的な考えであることを念押ししたうえで、「(供養・除霊の類は)やる必要ないのでは?」と言っている。
私は、地上(人力)の範疇にない霊とか魂とかを、地上(人力)で始末しようとすることは“無意味”というか“ナンセンス”というか、不躾なことのように思えて仕方がないから。
もちろん、それによって残された誰かが癒されたり、それが誰かの人生をプラスに転じさせるきっかけになるのなら話は変わってくると思うけど、しかし結局、それは故人のためではなく自分のためということになるのである。
霊を始末しようと考えるのは、恐怖感や嫌悪感の現れ。
仏教的な言い方になるけど、成仏や冥福を願うことは一次的なもの。
やはり、その根底に、恐怖感や嫌悪感があることは否めない。
恐れ嫌っているのは故人ではなくその“死”なのだろうけど、自分の死と故人の死を勝手に関連づけて、知らず知らずのうちに故人に無礼を働いていないだろうか。
私は、そんな感情を抱くことを否定しているのではない。
死に関連する事態や事象を忌み嫌うのは人の本性であり、極めて自然なことだから。
ただ、思う。
「意識の中にある利他は、無意識の中にある利己がそう装って(偽って)いるだけのものではないか?」
「意識の中にある慈愛は、無意識の中にある自愛がそう装って(偽って)いるだけのものではないか?」
と。
もちろん、今、明確にその答が出せているわけではない。
ただ、そんな想いを集約させていくと、“丸腰”になるしかなくなったのである。
それでも何ら問題ない。
何かに祟られるとか、何かに呪われるとか、妙な現象に遭遇するなんてことはないし(ただ、自覚できていないだけかもしれないけど・・・)。
また、アノ世に連れて行かれてもいない(“今のところ”だけど・・・)。
私にとって、故人の霊(※有無の議論はさて置き)は、恐るべき敵ではない。
この表現は誤解を招きやすいが、あえて言うなら“お客”。
お客というのは、ある意味で怖い存在ではあるけど、だからといって無礼を働く対象にはなり得ない。
これは、この業種に限ったことではないはず。
結果、丸腰は、私の流儀でありながら、故人に対する礼儀のつもりでもあるのである。
遺産相続・責任分担・相互利害etc・・・遺族vs遺族、遺族vs第三者、第三者vs第三者etc・・・
人間関係に人の死が絡むと、対立構造が起こりやすくなる。
そして、対立する人間関係では、誰かへの礼儀が誰かへの無礼になることがある。
そんな渦中で仕事をしなければならない私は、“誰(何)を優先して礼儀を守るか”“誰に対しての礼儀を優先すべきか”、難しい選択を迫られることもしばしば。
だから、自分では、礼儀正しく仕事に取り組んでいるつもりでいても、知らず知らずのうちに“礼儀知らず”になっていることがあるかもしれない。
その様に、現実社会においては、時々の事情によって礼儀を守る対象を臨機応変に変えざるを得ない場合が多々ある。
ただ、どんな局面にあっても大切にしたいのは、自分に対する礼儀。
自分の良心に対して礼儀を守ること・・・心に宿る良心を裏切らないことが、すべての礼儀に通じる基なのではないかと思っている。
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ある日の夕方、中年男性の声で電話が入った。
一風変わった前置きに、野次馬(私)は耳を欹てた。
話の中身は、勤務する会社でトラブルが頻発して困っているというもの。
当社は、特殊清掃や遺体処置だけではなく、他にも色んなサービスを提供しているが、その中に企業のコンサルティング業務は入っていない。
“電話するところを間違ってないか?”と思わなくもなかったが、心に放牧している野次馬が話の続きを聞きたがったので、とりあえず最後まで聞いてみることにした。
男性は、準大手企業の部門責任者。
管理職として働いていた。
そんな社員の尽力もあってか、会社の業績は上向きに。
ともなって、使っていたオフィスは手狭に。
結果、更なる飛躍を目指して、一等地に建つ広いオフィスに移転した。
しかし、期待に反し、新しいオフィスではトラブルが続発。
病気で休職する者がでたり、後ろ足で砂をかけて退職する者がでたり、また、それまでにはなかったような顧客クレームも発生した。
結果、好調だった業績は下向きに。
ほんの一年足らずの間に、事業は、拡大どころか縮小が視野に入ってくるまでに一変した。
中間管理職の宿命か・・・そんな中で、男性は、上からも下からもプレッシャーをかけられ、ノイローゼ気味に。
それでも、苦境を打開すべく、問題の原因に心当たりがないか暗中模索。
そうして考えているうち、頭の中に一つの事が浮上してきた。
それは、入居時、このオフィスに掲げてあった神棚。
業績不振によってこのオフィスを出て行った前の会社が、そっくりそのまま残置していったもの。
男性は、それを“縁起が悪い!”として嫌悪。
迷うことなく、部下を使ってゴミ同然に処分したのだった。
それまでは気にも留めていなかった神棚なのに、一度気になりだすと収まりがつかず、そのうちそれが憂鬱の種になり始めた。
しかも、取り外し処分の実作業をした二人の部下は、一人は病気休養、もう一人は仕事のミスに端を発した冷たい人間関係に耐えられず退職。
そんな事象も手伝って、神棚を災難の原因とする気持ちが強固なものになっていった。
そんな中で、男性は“自分では手に負えない”と判断し、当方に相談の電話をかけてきたのであった。
目に見えるモノに手をつけることによって、目に見えないモノが動くことはよくある。
“遺品を整理することによって、遺族の気持ちも整理される”
“遺体をきれいに処置することによって、遺族の悲哀が癒される”
“部屋を特掃することによって、遺族が落ち着きを取り戻す”
等といったことは、その典型例。
しかし、最初から目に見えないモノを動かす目的をもった仕事は、私が責任を負えるものではない。
「申し訳ありませんが、お役に立てることはないと思いますよ・・・」
「捨てた神棚に原因があるとは思えませんし・・・」
「仮に、私どもが手を施したとしても、それでトラブルが止まる保証もありませんから・・・」
一通りの話を聞いた私は、“これは、請け負える仕事ではない”と判断。
申し訳ない気持ちをもちながらも、男性の依頼を断った。
「やっぱり、ダメですかぁ・・・」
「そりゃ、そうですよねぇ・・・」
「変なこと相談して、申し訳ありませんでした」
男性は“ダメもと”で電話をしてきたのだろう、私の返答をすんなり受諾。
未練はありそうだったけど、それ以上は粘ってこなかった。
私は、本件の原因が神棚にあるとは思っていない。
またそれに限らず、どこの仏壇にも、位牌にも、遺骨にも、御守にも、神社仏閣にも、墓にも、その類のあらゆるものにも、そんなパワーがあるとは思っていない。
また、多くの人が拝んだり、強く念じることによってパワーが宿るようなものでもないとも思っている。
今の私は、そんなこと信じてはいない。
だから、無意識にやっているかもしれないことを除いては、縁起をかつぐことはない。
仕事上の作業として求められるとき以外、仏壇や神棚や墓を拝んだりすることもなければ、
神社仏閣に詣でることもしない。
六曜や占いの類、風水も信じない(金の力と女性の涙は、簡単に信じちゃうんだけどね・・・)。
また、仕事に取り組むにあたっても、数珠・清塩・御守などといった物を必要としない。
・・・いつも“丸腰”なのである。
しかし、昔は違った。
御守・運勢・占い・風水・神社仏閣etc・・・、自分を守ってくれそうなもの、自分を良い方向に導いてくれそうな雰囲気を醸しているものには、積極的に飛びついた。
“そんなモノに力はない”と、薄々気づいていながら・・・
そう言えば、20代半ばの頃には、腕に数珠ブレスレットをつけていたこともあった。
今にして思うと、その動機は極めて不純。
“故人(供養)のため”とは表向きで、実際は“祟られない(保身の)ため”。
もしくは、遺族や関係者に対して自分を善人っぽく・プロっぽくみせるためのアクセサリー。
突き詰めて考えてみると、ただの薄っぺらい自己満足でしかなかったように思う。
遺族や遺体発生現場の関係者から「供養(除霊)した方がいいですかね?」なんて質問を受けることは珍しくない。
しかし、私は、「責任がとれないので・・・」と明言を避けている。
そして、「自分が持つ死生観や宗教観に従えばいいのでは?」とアドバイスする。
しかし、実際、特別な死生観・宗教観を持っている人は少ない。
だから、無責任でも薄識でも私の返答を欲しがる。
そんな人には、個人的な考えであることを念押ししたうえで、「(供養・除霊の類は)やる必要ないのでは?」と言っている。
私は、地上(人力)の範疇にない霊とか魂とかを、地上(人力)で始末しようとすることは“無意味”というか“ナンセンス”というか、不躾なことのように思えて仕方がないから。
もちろん、それによって残された誰かが癒されたり、それが誰かの人生をプラスに転じさせるきっかけになるのなら話は変わってくると思うけど、しかし結局、それは故人のためではなく自分のためということになるのである。
霊を始末しようと考えるのは、恐怖感や嫌悪感の現れ。
仏教的な言い方になるけど、成仏や冥福を願うことは一次的なもの。
やはり、その根底に、恐怖感や嫌悪感があることは否めない。
恐れ嫌っているのは故人ではなくその“死”なのだろうけど、自分の死と故人の死を勝手に関連づけて、知らず知らずのうちに故人に無礼を働いていないだろうか。
私は、そんな感情を抱くことを否定しているのではない。
死に関連する事態や事象を忌み嫌うのは人の本性であり、極めて自然なことだから。
ただ、思う。
「意識の中にある利他は、無意識の中にある利己がそう装って(偽って)いるだけのものではないか?」
「意識の中にある慈愛は、無意識の中にある自愛がそう装って(偽って)いるだけのものではないか?」
と。
もちろん、今、明確にその答が出せているわけではない。
ただ、そんな想いを集約させていくと、“丸腰”になるしかなくなったのである。
それでも何ら問題ない。
何かに祟られるとか、何かに呪われるとか、妙な現象に遭遇するなんてことはないし(ただ、自覚できていないだけかもしれないけど・・・)。
また、アノ世に連れて行かれてもいない(“今のところ”だけど・・・)。
私にとって、故人の霊(※有無の議論はさて置き)は、恐るべき敵ではない。
この表現は誤解を招きやすいが、あえて言うなら“お客”。
お客というのは、ある意味で怖い存在ではあるけど、だからといって無礼を働く対象にはなり得ない。
これは、この業種に限ったことではないはず。
結果、丸腰は、私の流儀でありながら、故人に対する礼儀のつもりでもあるのである。
遺産相続・責任分担・相互利害etc・・・遺族vs遺族、遺族vs第三者、第三者vs第三者etc・・・
人間関係に人の死が絡むと、対立構造が起こりやすくなる。
そして、対立する人間関係では、誰かへの礼儀が誰かへの無礼になることがある。
そんな渦中で仕事をしなければならない私は、“誰(何)を優先して礼儀を守るか”“誰に対しての礼儀を優先すべきか”、難しい選択を迫られることもしばしば。
だから、自分では、礼儀正しく仕事に取り組んでいるつもりでいても、知らず知らずのうちに“礼儀知らず”になっていることがあるかもしれない。
その様に、現実社会においては、時々の事情によって礼儀を守る対象を臨機応変に変えざるを得ない場合が多々ある。
ただ、どんな局面にあっても大切にしたいのは、自分に対する礼儀。
自分の良心に対して礼儀を守ること・・・心に宿る良心を裏切らないことが、すべての礼儀に通じる基なのではないかと思っている。
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