ある日の朝、見知らぬ番号で私の携帯が鳴った。
「“とても良心的な方”ってきいたものですから・・・」
「実際にお仕事を頼むことになるかどうかわからないんですけど・・・」
「相談だけでも大丈夫ですか?」
声の主は、年配の女性。
以前から懇意にしてくれている人の紹介での、仕事の問い合わせだった。
人には人それぞれの生き様があり、人生には人それぞれのドラマがある。
そして、それをじっくり聴くのが嫌いじゃない私。
下衆な野次馬根性もあるけど、それだけじゃなく、自分にとって糧になることも多いから。
ただ、結果として、人の目には、それが“親身に話をきいてくれる”という風に映るのかもしれない。
私は、“良心的”という言葉に、小さな罪悪感と、中くらいの照れ臭さと、大きなプレッシャーを感じながら、それでも、単細胞らしく気を良くして、イソイソと現場に出かけて行った。
出向いた現場は、古い鉄筋構造の建物。
「マンション」と呼ぶには老朽低層すぎる、そうは言っても、重量鉄骨構造は「アパート」と呼ぶには相応しくない。
メンテナンスも行き届いておらず、朽ち果てるのを待っているだけのような建物。
間取りは2DK。
充分に床は露出していたけど、掃除なんか何年もしていない様子。
散らかり放題、汚れ放題、たくさんのゴミが溜まり、至るところが真っ黒・真っ茶色、ホコリだらけカビだらけ。
タバコ臭・油臭・ゴミ臭などの生活異臭も充満。
それは、そのまま故人の人格や生き様を表しているようでもあり、「男性の一人暮らしなんて、だいたいこんなもんですよ」といったセリフもお世辞に聞こえるくらい、ヒドい有り様だった。
そこで暮らしていたのは、70代後半の男性。
無職・無年金、生活保護を受けての一人暮らし。
フツーだったら、部屋の汚さに目を奪われるばかりで、そんなことは気にも留めないのだろうけど、フツーじゃない私には“ピン”とくるものがあった。
それは、そこが孤独死現場であるということ。
もともと、「孤独死現場」とは聞いていなっかたが、DKの床に敷かれた新しい新聞紙と それに滲むシミが、私にそのことを教えてくれた。
相談者は、「一応、血のつながった妹」と名乗る高齢の女性。
相談の内容は、この一室の後始末について。
故人の死を悼んでいる様子はなく、滲み出ているのは困惑の想い。
困惑の表情、怒りの表情、狼狽の表情、嘆きの表情、苦虫を噛み潰したような表情・・・色んな表情を織り交ぜながら、また、複雑な心情を滲ませながら、ことの経緯を話してくれた。
故人は女性の実兄で、若い頃からの放蕩者。
高校の頃からグレはじめ、以降、ずっと家族に迷惑をかけ通し。
自ら高校を中退して社会に飛び出たものの、コツコツ働くことができず。
どんな仕事に就いても長続きせず、トラブルを起こしてクビになることも多々。
色んな理由をつけては転職を繰り返した。
一方、飲む・打つ・買うの三拍子は勢揃い。
おまけに、ケンカや借金も日常茶飯。
収入はないくせに金遣いは荒く、両親が、借金の肩代わりをしたもの一度や二度のことではなく、親のスネは細る一方。
悪い連中と悪さをしては警察の厄介になるようなことも繰り返し、二十代も後半になると、そっちの世界にズルズルとハマっていった。
素行の悪さは近所でも有名。
で、人間という生き物も、他人のスキャンダルを好む。
故人の悪行は、近隣奥様方の井戸端会議のかっこうのネタにされ、犯罪者をみるような好奇の目は、本人を飛び越え家族にまで向けられるようになった。
特に近所に迷惑をかけていたわけでもないのだけど、そのうちに、好奇の目は白い目に変わっていき、そこでの暮らしは“針の筵”のようになっていった。
しかし、だからといって家を越すことはできず、ただただ、それに耐えるほかなかった。
家族が故人と“絶縁”したキッカケは二つ。
一つ目は、借金のかたに家を失いかけたこと。
両親が保証人になっていたわけでもないが、借金の取り立ては両親のもとへ容赦なくきた。
犯罪ギリギリの嫌がらせを受けたこともしばしば。
借金取りは近所の目もはばからずやって来ては、脅しにもとれる派手な雑言を吐いて、女性家族を追い詰めた。
「子の不始末は親の責任」と、それまでも故人がつくった借金を肩代わりしてきた両親だったが、借金のペースは返済のペースを上回り、とうとう、家を売らないと弁済できないところまできてしまった。
しかし、家を失ったら生活が立ち行かない。
切羽詰まった両親は、「これを最後にしよう!」と、親戚縁者を頼って何とか金を工面。
ささやかなプライドと生活の余裕を失うこととを引き換えに、ギリギリのところで家を失うことは免れた。
二つ目・・・それは、女性が当時 交際していた相手の両親に結婚を反対され、破談になったこと。
「実兄にそんな人間がいたら、いつ どんな災いが降りかかってくるかわからない」と。
事実、“災い”は、何度も降りかかってきていたわけで、女性は相手方にまったく反論することができず、泣く泣く身を引いた。
この出来事は、本当に悲しくて悔しくて、自殺すら考えたという。
その後、別の人と縁を持つことができたけど、その時もやはり兄の存在が邪魔をした。
相手側の両親には露骨にイヤな顔をされ、事実上、兄と絶縁することが結婚の条件みたいになった。
事を起こす度、「心を入れ替えてやり直す!」と詫びた故人だったが、すぐに堕落。
血のつながった親兄妹といっても、それぞれが一人の人間であり、それぞれに人生がある。
繰り返し、何度も故人に裏切られた家族は、故人を信じることを諦めた。
そして、自分達の人生が台なしになる前に故人との絶縁を決意。
固い意思をもって、「親でもなければ子でもない」「兄でもなければ妹でもない」「死のうが生きようが、まったく関知しない」と絶縁を宣した。
それに逆ギレした故人は、それまで散々迷惑をかけてきたことを棚にあげ「そんな冷たい人間とは、こっちから縁を切ってやる!」と捨て台詞を吐いて、姿を消した。
そして、それ以降、音沙汰はなくなり、結局、それが、故人との最期の別れとなった。
生前の両親も、それ以降、二度と故人と顔を会わせることはなかった。
故人のせいで大きな借金を負った両親は、平穏な老後を奪われ、身体が動くかぎり働き続けた。
その上、世間の好奇の目にさらされ、下げなくてもいい頭を下げ、親類縁者の中で肩身の狭い思いをしなくてはならなかった。
楽しい余生を故人が奪ったかたちとなり、二人とも、疲れ果てたように逝ってしまった。
女性は、故人にその死を知らせようとも思わず、故人もその葬式に来ることはなかった。
「絶縁!」と言ったって、それは社会的・心情的なもので、血縁をはじめ、戸籍上の縁を切ることはできない。
したがって、故人が何かやらかせば、警察から何かしらの連絡が入ってくるはず。
また、いつ難題が降りかかってくるかわからないわけで、別離後の数年は落ち着かない日々が続いた。
それでも、時間は多くのことを解決してくれる。
年月が経過するとともに故人のことは記憶から遠のいていき、そのうちに頭から消えていった。
何年かに一度、ふとしたときに、
「どこかで生きてるんだろう・・・」
「どうせ、ロクな暮らしはしていないだろう・・・」
と、思い出すようなことはあったけど、そこには楽しい想い出も懐かしさもなく、再会を望む気持ちも湧いてこず。
「このままアカの他人として忘れたい」
という気持ちが変わることはなかった。
そうしているうちに、女性の歳を重ね、子供達は独立し、夫は亡くなり、一人きりの老後ではあったけど平穏に暮らしていた。
そんな静かな日々に、突如、何十年も前に別れたきりの兄の訃報が舞い込んできて、再び、女性の心に苦悩の種を撒いたのだった。
女性は、弁護士に相談して相続放棄の手続きをすすめていた。
そして、永年の絶縁関係なのだから、当然、部屋の賃貸借契約の保証人にもなっておらず。
弁護士からも、「家財処分等、一切やる必要はない」と言われていた。
つまり、死後の始末において、“女性には法的責任はない”ということ。
ましてや、負の遺産の始末なんて、好き好んでやる人はあまりいない。
女性は、そのことを充分に理解していた。
しかし、一方で、大家からは「家財は身内が片づけるべきでは?」とプレッシャーをかけられていた。
そして、“血縁者の道義的責任”ってヤツが、女性の心に引っかかっていた。
女性は、年金生活。
決して裕福な生活ではなく、普段は爪の先に火を灯すような生活をしていることは容易に想像できた。
しかも、既に、故人を葬るため、結構な費用を負担。
それを知ったうえで私が算出した見積は“○十万円”と決して安くはなく、「どこが良心的!?」と憤られても仕方がない金額に。
「“儲けが入ってない”と言ったらウソになりますけど、経費もそれなりにかかるものですから・・・」
それを聞いた女性は、ヒドく表情を曇らせて、
「やっぱり、それくらいかかるんですね・・・」
と、諦めたように溜息をついた。
単に金銭だけの問題ではなく、迷いの種は他にもあり、女性は悩んでいた。
仮に放棄しても、大家に顰蹙をかうくらい。
借金はあったかもしれないけど、広く社会に迷惑をかけるわけではなく、女性が負うべき責任は見当たらず。
それでも、女性は、放棄することが正解だとは思えないみたいで、少しでも正解に近い答を求めるように、
「どうしたらいいと思いますか?」
と訊いてきた。
「血縁者として道義的な責任は負うべき」と言えば、商売根性丸出し、足元をみての押し売りみたいになる。
「法的責任はないのだから放ってもいいのでは?」と言えば、自らの手で大事な一仕事を捨てることになる。
だから、
「私は、お金を払っていただく側の業者ですから、“こうした方がいい”って言える立場じゃないんですよね・・・」
と、結論を導き出すことを躊躇。
結局、“良心的な人間”らしい気の利いた一言が捻り出せず、あとは沈黙でフェードアウトするしかなかった。
女性と故人のような疎遠な関係ではなく、懇意にしていた親族でも、死を境に“知らぬ 存ぜぬ”を通す人もいる。
ヒドい人になると、金目のモノだけコッソリ持ち出して知らんぷりする者もいる。
そんな悍ましい光景を目の当たりにすると、薄情な私でさえ「薄情だな・・・」と軽蔑してしまう。
逆に、どんなに疎遠な関係でも、法的責任はなくても、血縁者としての道義的責任を感じて、身銭をきって故人の後始末をする人もいる。
薄情な私は、「俺だったら放っておくけど・・・奇特な人だな」と、感心することもある。
私は、自分ごときが意見できるものではないことを承知のうえで、それまでに携わってきた多くの現場を思い出しながら、色々なケースがあり、色々な人がいることを話した。
そして、ことは善悪で判断できるものではなく、その人その人の価値観や考え方によって異なること、また、それが、その後の人生に“吉”とでるか“凶”とでるかはわからないけど、何かしらの“節目”というか・・・“分岐点”になるのではないかということを話した。
そして、
「決して小さい金額ではありませんし、相続放棄に抵触することがあったらいけないので、お子さん達と弁護士とよく相談して決めて下さい」
「返答に期限はありませんし、お断りいただいても構いませんから」
と、最低限、“良心的な人間”らしいところをみせて、その場を締めた。
“時間をかけると迷いが生じるばかり”と考えたのだろうか、女性からの電話は翌朝に入った。
“数日先か・・・もしくは、もう連絡がくることはないかもな・・・”と思っていたので、早々の連絡は意外だった。
「子供達は反対したんですけど、お願いすることにしました!」
「何かの因果でしょう・・・こんな人の妹に生まれてきたのは・・・」
「私だってこの歳で先は短いですから・・・この先、心に引っかかるものを残したまま生きていくのは気がすすみませんしね!」
女性は、自分に言い聞かせるようにそう言った。
世の中にとっては ありえない現場でも、私にとっては ありがちな現場。
慣れた仕事でもあり、作業は難なく進行し終了。
最後、完了の日、私は再び女性と待ち合わせ。
私は、薄汚れたまま空っぽになった部屋で、実施した作業の概要を女性に説明。
女性は、作業工程一つ一つに会釈するように頷きながら、黙って私の話に耳を傾けた。
そして、一通りの説明を終えた私が預かっていた鍵を差し出すと、
「ありがとうございました! 本当にお世話になりました!」
と言って、恐縮するくらい深々と頭を下げてくれた。
「さようなら・・・」
現場を去るとき、玄関にカギをかけながら、女性はそうつぶやいた。
その表情は、長年負っていた重荷が肩からおりたのだから、清々しい笑顔であってもよさそうなものだったけど、その横顔はどことなく寂しげな感じ。
こんな性格の私の目は それを見逃さず、また、このクセのある感性は自ずと動いていった。
故人の犠牲になって多くを失った青春時代・・・
故人と別れて平和に過ごした数十年・・・
そして再び、老い先短い自分に降りかかった故人の尻拭い・・・
そうした自分の人生を振り返ると一抹の寂しさが過り、それが顔に表れたのかもしれなかった。
そして、それを振り切るため、残り少ない人生を楽しく生きるため、上を向いて堂々と生きるために、“涙の想い出”にサヨナラしようとしたのかもしれなかった。
そんな風に想うと・・・
私にとっては ただの汚仕事が、私の人生にとっては ただならぬ大仕事になる。
そして、サヨナラしたい過去をたくさん抱えながらも、“特掃隊長ってのも悪くないか”と、この人生を笑って受け入れられるのである。
特殊清掃についてのお問い合わせは