「お前は負け犬」
「お前のブログは負け犬の遠吠え」
時折、そんな声が聞こえる。
そして、それは、自分を見つめ直すきっかけを与えてくれる。
勝敗の判断基準をどこに置くかによると思うけど、私はそれを否定しない。
容姿、収入、学歴、職業etc・・・私は、金持ちでもなく、社会的に高地位についているわけでもない。
人から羨望されるようなこともない。
そういう面では、人との勝負にはほとんど負けている。
だから、一般的にみて、“負け犬”と思われても仕方がない。
また、私の話には、“きれいごと”とされやすいネタやネガティブな愚痴が多い。
常に、不平・不満・不安感に支配され、陰気クサイ雰囲気がプンプン。
こうして自分を卑下する自虐ネタも好きで、それが陰気臭さを倍増させているかもしれない。
このブログにしたって、読んで明るい気分になれることは少なく、どちらかというと神妙な気分になることのほうが多いのではないだろうか。
しかし、負け犬は負け犬でも、不戦敗ではないと思っている。
一応は、戦っているつもりである。
生きていること・生きることを当然のことと思い、生きるということはどういうことか・生きるためには何をしなければならないのかなんてことは何も考えず、生に対して無責任でいられた若い頃は戦いを避けて通り、不戦敗を続けてきたこともあった。
しかし、この仕事を始めてからは、それも減ってきたように思う。
そして、ときには善戦したこともあったように思う。
完敗ではなく惜敗だったことがあったかもしれない。
それらを経て、わずかながらでも、努力することと忍耐することが身についてきたように思える(この歳になって、“手遅れ”の感もあるけど)。
戦場は、人生においていたるところにある。
そして、仕事は、主戦場のひとつである。
できることなら、仕事なんてやりたくない。
やらなければならないのなら、少しでも楽してやりたい。
また、色々な事象の現場において、色々な事情を抱えた人々、色々な立場の人々、色々なタイプの人々を相手にしなければならず、面倒なことや嫌な思いをすることも少なくない。
それでも、それをやらなければ生きていけない。
そこに戦いが生まれるのである。
「自殺後の遺体や現場について教えてほしい」
ある日、会社にそんな電話が入った。
はじめに電話をとった事務スタッフは、しばらく電話主と会話したものの、相談の内容は自分の守備範囲ではないと判断。
そこで、守備範囲が比較的広い私が電話を代わることに。
私は、電話を切るタイミングを失うような話になるなんてことはまったく予想せず、受話器をとったのだった。
電話の主は、30代の男性。
高学歴の持ち主で、それなりの企業に勤めていた。
そんな中、職場で恋愛関係にあった女性とトラブルを起こしてしまった。
男性は、男としてのメンツもあり、潔く退職。
「給与が少々下がることがあっても、自分の学歴・職歴があれば、新しい仕事に就くこともそんなに難しくはない」と考えてのことだった。
しかし、現実は違っていた。
20社近くに応募したにもかかわらず、採用してくれる企業はなし。
男性が就活に限界を感じるようになるまで、そんなに長い時間はかからず。
精神はひどくダウンし、死を考えるまでにいたっていた。
男性は、社会的地位が低い職業を具体的にいくつか挙げ、
「今更、そんな仕事に就いてまで生きていきたいとは思わない!」
と、自分が陥った境遇を嘆いた。
一方の私は、それに真っ向から反論できるほどの材料を持っておらず。
それどころか、男性のその気持ちがよくわかった。
そんな私が、ただの精神論や感情論をもって男性の心の向きを変えることができるわけはない。
私は、自殺が他の人にとってどれだけ迷惑なことか、自殺が他の人をどれだけキズつけるか、自殺が他の人をどれだけ不幸にするか等々、ひたすら自殺による実害を説明することに専念するほかなかった。
と同時に、それは、私自身に、言葉では表せない虚しさと悔しさを覚えさせたのだった。
職業には貴賎がある。
世に中には、“いい仕事”と“そうでない仕事”がある。
私の仕事は、明らかに“賎”のほうに属する。
それでも、私の場合、最初からこの仕事をしているから、この歳になっても、何とかやれているのかもしれない。
どこかいい企業に勤めていて、そこから転職せざるを得ない状況に陥ってからではやれなかったかもしれない。
これは、そこまで低い位置にある仕事。
ただ、そういう仕事と理解していても、やはり、他人から蔑まれたり見下されたりすると、不快にもなり憤りも覚える。
まったく、矛盾だらけである。
私が持つ職業の貴賎についてのこだわりは、私自身が職業に対する差別意識を持っていることの表れでもある。
自分に他人の仕事を上に見たり下に見たりするクセがあることは、ハッキリ自覚できる。
結局のところ、私は自分の仕事に対して不誠実であり、プライドが不足しているから、自らを卑下してしまうのだと思う。
だから、誰かにバカにされたら誰かに怒るのではなく自分に怒るべきで、誰かを批難したくなったら自分を批難すべきなのだと思う。
職業には貴賎はあるけど、それはそのまま楽苦の差となるわけではない。
「労苦」言葉はあっても「労楽」という言葉はない。
仕事に苦労はつきもの。
苦戦することも多く、負けそうになることも多い。
そこまでして生きなければならない理由を求めると、余計に苦しくなる。
そして、それがまた、あらたな戦いを生み、戦いが戦いを呼ぶ。
戦いのない人生はない。
戦いながら生きるのはツラい。
それでも、生き方としては正しいと思う。
戦わなければ勝利はない。
人生においては、戦いに負けた者が敗者でなく、戦うことをやめた者が敗者。
(自殺者が敗者ということではない。)
幸せに生きる、楽しく生きる、喜んで生きる、感謝して生きる、希望をもって生きる・・・
これらも、すごくいい生き方だと思う。
しかし、これらは人生の部品。
成型は“正しく生きる”ということ。
つまり、“人生の価値(勝ち)は、正しく生きることにある”ということ。
そうは言っても、これは決して簡単なことではない。
ただ、例え、正しく生きることができなくても、正しく生きることに向かっていくことが大切だと思っている。
今日は、2013年大晦日。
予定は未定の仕事ながら、今のところ、今日は現場仕事の予定はない。
“仕事納め”がない会社でやることは事務所内の雑用。
何事もなければ、残業もなく帰れ、ゆっくり風呂に入って一年の垢を落とすことができるだろう。
そして、好きな酒を飲んで、一年の労苦と労をねぎらうことができるだろう。
年老いたとはいえ、うちのチビ犬もまだまだ食欲は旺盛。
年末年始くらいは、おいしいモノを食べさせてやろうと思っている。
「特殊清掃 戦う男たち」
この一年もまた、我々は色んな戦いに遭遇した。
色んな現場に走り、色んな人と出会い、色んな想いをしてきた。
多くの涙があり、少しの笑いがあり、その中に苦悩と悲哀、感謝と喜びがあり、そして、戦いがあった。
そして、私は、人が“死”に勝てない摂理にあることを知りつつ、それでも生きた人々・生きる人々の戦いをここでリポートした。
精神の弱さを棚に上げ、強気なことを言ってきた。
小心に似合わない大口を叩くこともあった。
机上の空論もあったかもしれない。
上辺だけのきれいごとと思われても仕方がないこともたくさん吐いてきた。
実践がともなわない口先だけの発言も多かった。
正論か邪論か、善行か悪行か、そんな判断もできない頭で、自分の内に湧いてくるものを文字にしてきた。
それもまた私の戦い。
そして、例えそれが“負け犬の遠吠え”であっても、自分と誰かの心に届いているうちは吠えていこうかと思っている年末である。
公開コメント版
特殊清掃についてのお問い合わせは
特殊清掃プロセンター
「お前のブログは負け犬の遠吠え」
時折、そんな声が聞こえる。
そして、それは、自分を見つめ直すきっかけを与えてくれる。
勝敗の判断基準をどこに置くかによると思うけど、私はそれを否定しない。
容姿、収入、学歴、職業etc・・・私は、金持ちでもなく、社会的に高地位についているわけでもない。
人から羨望されるようなこともない。
そういう面では、人との勝負にはほとんど負けている。
だから、一般的にみて、“負け犬”と思われても仕方がない。
また、私の話には、“きれいごと”とされやすいネタやネガティブな愚痴が多い。
常に、不平・不満・不安感に支配され、陰気クサイ雰囲気がプンプン。
こうして自分を卑下する自虐ネタも好きで、それが陰気臭さを倍増させているかもしれない。
このブログにしたって、読んで明るい気分になれることは少なく、どちらかというと神妙な気分になることのほうが多いのではないだろうか。
しかし、負け犬は負け犬でも、不戦敗ではないと思っている。
一応は、戦っているつもりである。
生きていること・生きることを当然のことと思い、生きるということはどういうことか・生きるためには何をしなければならないのかなんてことは何も考えず、生に対して無責任でいられた若い頃は戦いを避けて通り、不戦敗を続けてきたこともあった。
しかし、この仕事を始めてからは、それも減ってきたように思う。
そして、ときには善戦したこともあったように思う。
完敗ではなく惜敗だったことがあったかもしれない。
それらを経て、わずかながらでも、努力することと忍耐することが身についてきたように思える(この歳になって、“手遅れ”の感もあるけど)。
戦場は、人生においていたるところにある。
そして、仕事は、主戦場のひとつである。
できることなら、仕事なんてやりたくない。
やらなければならないのなら、少しでも楽してやりたい。
また、色々な事象の現場において、色々な事情を抱えた人々、色々な立場の人々、色々なタイプの人々を相手にしなければならず、面倒なことや嫌な思いをすることも少なくない。
それでも、それをやらなければ生きていけない。
そこに戦いが生まれるのである。
「自殺後の遺体や現場について教えてほしい」
ある日、会社にそんな電話が入った。
はじめに電話をとった事務スタッフは、しばらく電話主と会話したものの、相談の内容は自分の守備範囲ではないと判断。
そこで、守備範囲が比較的広い私が電話を代わることに。
私は、電話を切るタイミングを失うような話になるなんてことはまったく予想せず、受話器をとったのだった。
電話の主は、30代の男性。
高学歴の持ち主で、それなりの企業に勤めていた。
そんな中、職場で恋愛関係にあった女性とトラブルを起こしてしまった。
男性は、男としてのメンツもあり、潔く退職。
「給与が少々下がることがあっても、自分の学歴・職歴があれば、新しい仕事に就くこともそんなに難しくはない」と考えてのことだった。
しかし、現実は違っていた。
20社近くに応募したにもかかわらず、採用してくれる企業はなし。
男性が就活に限界を感じるようになるまで、そんなに長い時間はかからず。
精神はひどくダウンし、死を考えるまでにいたっていた。
男性は、社会的地位が低い職業を具体的にいくつか挙げ、
「今更、そんな仕事に就いてまで生きていきたいとは思わない!」
と、自分が陥った境遇を嘆いた。
一方の私は、それに真っ向から反論できるほどの材料を持っておらず。
それどころか、男性のその気持ちがよくわかった。
そんな私が、ただの精神論や感情論をもって男性の心の向きを変えることができるわけはない。
私は、自殺が他の人にとってどれだけ迷惑なことか、自殺が他の人をどれだけキズつけるか、自殺が他の人をどれだけ不幸にするか等々、ひたすら自殺による実害を説明することに専念するほかなかった。
と同時に、それは、私自身に、言葉では表せない虚しさと悔しさを覚えさせたのだった。
職業には貴賎がある。
世に中には、“いい仕事”と“そうでない仕事”がある。
私の仕事は、明らかに“賎”のほうに属する。
それでも、私の場合、最初からこの仕事をしているから、この歳になっても、何とかやれているのかもしれない。
どこかいい企業に勤めていて、そこから転職せざるを得ない状況に陥ってからではやれなかったかもしれない。
これは、そこまで低い位置にある仕事。
ただ、そういう仕事と理解していても、やはり、他人から蔑まれたり見下されたりすると、不快にもなり憤りも覚える。
まったく、矛盾だらけである。
私が持つ職業の貴賎についてのこだわりは、私自身が職業に対する差別意識を持っていることの表れでもある。
自分に他人の仕事を上に見たり下に見たりするクセがあることは、ハッキリ自覚できる。
結局のところ、私は自分の仕事に対して不誠実であり、プライドが不足しているから、自らを卑下してしまうのだと思う。
だから、誰かにバカにされたら誰かに怒るのではなく自分に怒るべきで、誰かを批難したくなったら自分を批難すべきなのだと思う。
職業には貴賎はあるけど、それはそのまま楽苦の差となるわけではない。
「労苦」言葉はあっても「労楽」という言葉はない。
仕事に苦労はつきもの。
苦戦することも多く、負けそうになることも多い。
そこまでして生きなければならない理由を求めると、余計に苦しくなる。
そして、それがまた、あらたな戦いを生み、戦いが戦いを呼ぶ。
戦いのない人生はない。
戦いながら生きるのはツラい。
それでも、生き方としては正しいと思う。
戦わなければ勝利はない。
人生においては、戦いに負けた者が敗者でなく、戦うことをやめた者が敗者。
(自殺者が敗者ということではない。)
幸せに生きる、楽しく生きる、喜んで生きる、感謝して生きる、希望をもって生きる・・・
これらも、すごくいい生き方だと思う。
しかし、これらは人生の部品。
成型は“正しく生きる”ということ。
つまり、“人生の価値(勝ち)は、正しく生きることにある”ということ。
そうは言っても、これは決して簡単なことではない。
ただ、例え、正しく生きることができなくても、正しく生きることに向かっていくことが大切だと思っている。
今日は、2013年大晦日。
予定は未定の仕事ながら、今のところ、今日は現場仕事の予定はない。
“仕事納め”がない会社でやることは事務所内の雑用。
何事もなければ、残業もなく帰れ、ゆっくり風呂に入って一年の垢を落とすことができるだろう。
そして、好きな酒を飲んで、一年の労苦と労をねぎらうことができるだろう。
年老いたとはいえ、うちのチビ犬もまだまだ食欲は旺盛。
年末年始くらいは、おいしいモノを食べさせてやろうと思っている。
「特殊清掃 戦う男たち」
この一年もまた、我々は色んな戦いに遭遇した。
色んな現場に走り、色んな人と出会い、色んな想いをしてきた。
多くの涙があり、少しの笑いがあり、その中に苦悩と悲哀、感謝と喜びがあり、そして、戦いがあった。
そして、私は、人が“死”に勝てない摂理にあることを知りつつ、それでも生きた人々・生きる人々の戦いをここでリポートした。
精神の弱さを棚に上げ、強気なことを言ってきた。
小心に似合わない大口を叩くこともあった。
机上の空論もあったかもしれない。
上辺だけのきれいごとと思われても仕方がないこともたくさん吐いてきた。
実践がともなわない口先だけの発言も多かった。
正論か邪論か、善行か悪行か、そんな判断もできない頭で、自分の内に湧いてくるものを文字にしてきた。
それもまた私の戦い。
そして、例えそれが“負け犬の遠吠え”であっても、自分と誰かの心に届いているうちは吠えていこうかと思っている年末である。
公開コメント版
特殊清掃についてのお問い合わせは
特殊清掃プロセンター