多くの人が自粛し、また、多くの人が自粛しなかったGWも終わった。
桜花の3月21日で緊急事態宣言(首都圏)が明け、少しは落ち着きを取り戻すかに見えたところ、期待されていた(誰も期待してなかった?)「まん延防止等重点措置」も、ほとんど意味をなさず、早々と第四波に襲われている。
で、再びの緊急事態宣言(東京)。
しかしながら、その緊張感はほとんど感じず。
人出は大きく減っていない模様で、街には人があふれ、通勤電車も満員。
一回目の宣言時とは、明らかに雰囲気が違う。
予定通り5月11日に宣言が解除された場合、第五波・第六波が次々にやってきて、緊急事態宣言も四回目・五回目と続くことが想定されているらしい。
残り、たったの数日で著しく減少していくとは思えず、どうしたって宣言は延長されるのだろう。
“期待の星”ワクチン接種も かなりのスローペースで、目に見えた効果がでるのは、どうも来年以降のよう。
しかも、追い討ちをかけるように、変異ウイルスが頭角を現してきている。
クルーズ船のニュースを傍観していた頃のことを思うと、まさに、悪夢が現実になってしまっている。
2021年も、三分の一が過ぎたわけで、残念ながら、年内で収束する見込みはなく、今年もまたコロナ対策に明け暮れる年となるのだろう。
それでも、まだ、オリンピックは開催するつもりらしい。
昨年の今頃より、今年の方が悲惨な状態なのに、それでも中止を決断しないなんて理屈に合わない。
また、臭いモノにフタをしているのか、“さわらぬ神に祟りなし”と思っているのか、どのメディアにおいても、「オリンピック中止」を主張するメディアもない。
某TV局は、風前の灯になっている聖火リレーが盛り上がっている体をつくろうとしてか、しきりに肯定的なニュースを流している。
関係者は楽しそうだけど、無理矢理感は否めず、コロナ禍で苦しめられている“外野”との温度差も著しい。
「もはや茶番だな・・・」と、私も、冷めた目でしか見れなくなっている。
国や自治体のリーダー達だって、ただの人間。
今まで経験したことがないことに戸惑うのは仕方がない。
だから、“奔走”が“迷走”に見えてしまうのもやむを得ない。
ただ、それがわかっていても、やはり、手遅れ感は拭えない。
無責任に批判する野党議員や評論家のようにはなりたくないけど、批判する気持ちがどうしても湧いてくる。
コロナのニュースが流れない日はないが、併せて、生活困窮者を取り上げたニュースも時々流れる。
職を失って路上生活に陥る人が増えているそう。
これまでは、ホームレスの多くは中高年男性だったところ、このところは、若者や女性が激増しているらしい。
本当に気の毒なことである。
一方で、冷たい言い方かもしれないけど、「失業→路上生活」という安直な構図には、やや疑問がある。
「職を失ったからといって、そんなにあっさりと路上生活に転落するものか?」と。
もちろん、メディアは視聴者の目を引きやすい顕著な例(人物)を探して取材するのだろうけど、それにしても、易々と落ちすぎるような気がする。
また、「選ばなければ仕事はあるんじゃないの?」「好き嫌い言ってるから仕事にありつけないんじゃないの?」とも思ってしまう。
常々、税金や社会保険料をキチンと納めていれば、それなりに身は守れるはず。
雇用保険や各種助成金制度を利用すれば、数か月~一年くらいはもちそうなもの。
しかし、それが叶わないということは、つまり、「平時から、きわどい生活を続けていた」、つまり、「社会的責任をキチンと果たしてきていなかったのでは?」ということになる。
よく、「非正規だから」「派遣だから」と、人々の同情を買おうとするような口調を耳にするけど、そうなるにはそれなりの原因があったはず。
もちろん、非正規になりたくてなったわけではないだろう。
自分の力ではどうすることもできない不可能力的な事情があったかもしれない。
しかし、しかしだ、そこに、努力や忍耐が足りなくはなかったか?
社会に対する責任を果たし、社会に貢献してきたか?
それをなくして、社会が守ってくれないことを批難するのはスジ筋違い。
極論すれば「自業自得」。
「非正規だから」「派遣だから」という声も、ただただ、独りよがりの言い訳にしか聞こえない。
随分前に、某有名企業の敏腕経営者が、
「派遣労働者や非正規雇用の労働者は被害者意識が強すぎる!」
「税金や社会保険料をキチンと納めないでおいて、どういうつもりか!」
と叱責するような意見を言っていたことがあった。
この意見に批判が多かったかどうか定かではないけど、私個人は、大いに賛同した。
自分の無能さ、根性のなさを棚に上げて、何でもかんでも社会や他人のせいばかりにする。
若い頃(特に高校生の頃)の私が、まさにそんな人間だったのだが、そんな考えの人間に未来が開けるわけがない。
そして、そういったモノの考え方をしているうちは、いつまでたっても這い上がれないだろう。
私は、「非正規」ではないけど、吹けば飛ぶような零細企業の珍業で、なかなかの労苦の下で生きている。
ただ、この苦境を社会や他人のせいにしたことはない。
そんな考えも、まったくない。
ヘソの曲がった言い訳ばかりして、イヤなことから逃げてばかり、たいした能力もなく、ろくに努力もせず、ちょっとしたことにも忍耐もできず、自分に負荷がかかることに挑戦する勇気もなかった結果がこれ。
親のせいでも、境遇のせいでも、社会のせいでもない。
自分で撒いた種を自分で刈り取っているだけ、100%自分の責任!
「諦め」という名の「達観」か、「達観」という名の「諦め」か、
「後悔」という名の「納得」か、「納得」という名の「後悔」か、
私は、自分でそう思っている。
出向いた現場は、高級マンションの一室。
1Fロビーのカウンターにはコンセルジュがおり、まるでホテルのよう。
当然、セキィリティーシステムも万全。
ただ、私の身の丈に合わないのだろう、そういった場所はどうも落ち着かず。
正規に鍵を預かっていた私は、そのままカウンターを素通りすることはできたけど、作業服姿の風貌は明らかに部外者で、キョロキョロとした挙動は明らかに不審。
だから、私は、あえて受付カウンターに寄り、訪問者リストに、訪問先の部屋番号と、社名・氏名・連絡先を記入。
すると、そこで起こったことを知っていたようで、部屋番号を見た女性コンセルジュは、「こんにちは」と言いながら、きれいに整った顔をやや引きつらせた。
目的の部屋は、眺望のいい上の階。
そこで、住人が吐血死。
「部屋中、血だらけになっている!」
ここに来る前、電話で話した管理会社の担当者は、画像でしか見たことがないような凄惨な光景を目の当たりにしてか、かなり興奮していた。
確かに、血だらけの現場には、独特の寒々しさ・痛々しさがある。
その“赤いインパクト”は、視覚や臭覚だけでなく、精神面にも衝撃を与える。
ただ、自刃自殺現場や刺殺現場など、凄惨な現場を何度も経験していた私は、“そこまでのことじゃないだろう・・・”と、わりと軽く考えながら部屋の鍵を開けた。
部屋に入ると、そこには、一般社会ではなかなか目にすることがない、凄惨な光景が広がっていた。
床や壁のあちこちには血痕が付着し、手や足のかたちを残す痕も残留。
水廻りを中心に深刻な汚染が発生していたけど、ただ、大騒ぎするほどの状況でもなく、ありがちな、血生臭いニオイもほとんどなし。
腐乱死体現場とは違い、ウジやハエの発生もなし。
ひたすら、光景が生々しいだけ。
私は、それで気持ちを凹ませるほど優しい人間ではないし、気持ちを凹ませずにいられるほど強靭な人間でもない。
とにかく、好き嫌い言わず、お金がもらえる仕事をがんばるしかなく、気合の溜息をついた。
血痕清掃は、そんなに難しいものではない。
簡単に言えば、固形物を削り取り、拭き取るだけのこと。
対象が“人間の血”で、“本人死亡”ということと、“自分の手も血だらけになる”ということ以外、特別なことはない。
ただ、とにかく、手間がかかるし根気がいる。
小さなことをコツコツと積み上げていくことが苦手な私には、一種の修行みたいな作業。
あと、汚染が生々しい分、“死”というものが、結構、重く圧しかかったりする。
故人の“生”がリアルに感じられて、色々と考えさせられるから、別に それがイヤなわけではないけど、何とも言えない重苦しさは感じる。
ただ、一つの命が不慮の死に遭遇したわけで、私にもその可能性は充分にあるわけだから、重苦しく感じるくらいでないといけないのではないかとも思っている。
大量の血液は、プルプルのゼリー状になる。
それを放っておくと、カチカチの板状になる。
それを思慮なく削ると、パチパチと弾け飛んで、周囲を汚すのみならず、自分の腕や顔にピチピチと当たってくる(眼にだけは入らないように気をつける)。
血みどろになった自分の両手を持ち上げて、「何じゃ!こりゃ~!」とジョークを飛ばしてみても、ウケる者は誰もおらず虚しいだけ。
とにもかくにも、終わりの見えない作業を、一人、黙々とこなしていくのである。
楽なところから片づけるか、キツいところから片づけるか、やらなければならない作業に変わりはないのだが、順番によって作業効率は変わる。
メンタルへの影響も少なくない。
ただ、イヤなことを後回しにしてロクなことはない。
だけど、イヤなことを後回しにするのが、私の悪い癖。
また、身体と精神を、軽いところから徐々に慣らしていくことも一つのやり方。
しかし、作業にも飽き、身体も疲れてきた先にへヴィー級の汚染が待っていることを想像するとゾッとするものがあったので、一番キツいところから着手することに。
私は、そう意を決し、広すぎるくらいのトイレに入り込んだ。
そう、最も酷かったのはトイレ。
自分で気づいていたのかどうか、故人は内臓を患っていたのだろう。
吐き気をもよおした故人は、まず、トイレに駆け込んだよう。
そして、そこで嘔吐。
ただ、吐瀉物が真っ赤な血だったものだから、仰天したはず。
これで吐き気は収束すると思ったのか、動揺する自分を落ち着かせようとしたのか、汚してしまった便器や床を、トイレットペーパーで途中まで拭いたような痕があった。
次に酷かったのは、洗面所。
吐き気がある程度治まって口を洗おうとしたのだろうか。
ただ、そこでもまた嘔吐。
純白の洗面台は赤黒く染まり、大理石の床にまで飛散。
しかし、そこでは、掃除するような余裕はなく、洗浄した形跡も血を拭いたような痕もまったくなく、血痕は 無残なかたちでそのまま放置されていた。
その次は、キッチンシンク。
口をゆすごうとしたのだろうか、水を飲もうとしたのか、故人は、キッチンに足を踏み入れたよう。
また、血痕は、キッチンから部屋の方へも拡散。
延々とおさまらない吐血によって、気は動転するばかり。
そして、動揺と貧血でフラフラだったのではないかとも思う。
救急車を呼ぶためにスマホを探し歩いたのか、パニックに陥って一所に止まっていられなかったのか、口から流れ出る血を手で受け止めながら、床に垂れた血を踏み広げながら、部屋中を右往左往したものと思われた。
しかし、こうなると、もう時間の問題。
救急車の到着が先か、失血死するのが先か・・・
口から血が噴き出たときは、心臓が止まりそうになるくらいの恐怖感を覚えたことだろう。
「病院で診てもらっておくべきだった・・・」と、取り返しのつかない後悔に、嘆き悲しむ瞬間があったかもしれない。
血で汚れゆく高価な部屋に、この世の虚しさを覚えた瞬間があったかもしれない。
そして、薄れゆく意識の中で、「あぁ・・・もう・・・これで、死んじゃうのかな・・・」と覚悟を決めたかもしれない。
結局、救急車を呼ぶこともできず、故人は気を失い、そのまま逝ってしまったのだった。
「生きていれば、いつ 何が起こるかわからない」
「人は、いつ死ぬことになるかわからない」
理屈では、それがわかっていても、私のような凡人は、いつも楽な方へ流される。
本当に自分のためになることをことごとくやらず、実のところは自分のためにならない道ばかりを選んでしまう。
で、いつの時点で手遅れになってしまうのかわからないまま、「人生、志と心がけ次第で、いつでもやり直すことができる」なんていう絵空事で自分をごまかしながら、いつの間にか、人生を右往左往するようになる。
ただ、そうは言っても、人生の意味は、生きているプロセスに練り込まれている。
しばしば不本意な人生を嘆き、疲労感や虚無感に襲われることも多いけど、それでも、食べていけるだけの仕事があり、それを続けることができ、また、贅沢な暮らしではないけど、雨風しのげる家があり、それを守ることができている。
労苦が続く中にも、充実感はある。
苦悩が尽きない中にも、感謝すべきことはたくさんある。
謙虚になることと自分を否定することは違う。
自分を責めすぎてはいけない。
高慢になることと自分を肯定することは違う。
自分を褒めてやることも、ときには必要。
手遅れの人生だって、まだ、やれることはたくさんある。
今、心の持ちようを変えることはできる。
初めて会ったときは、既に“手遅れ”だった“K子さん”。
春の風のあたたかさを肌身に感じつつ、冬の風と共に去った彼女が教えてくれた、自分を責めないことの大切さと その優しさを、私は、毎日のように想い出し、噛みしめているのである。
-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
お急ぎの方は
0120-74-4949
(365日24時間受付)