特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

勇気

2024-11-26 05:42:57 | 生前相談
ある日、女性の声で電話が入った。
タドタドしい喋り方と、的を射ない内容に、始めは間違い電話?イタズラ電話?と思ってしまった。
しかし、話を聞いているうちに、この電話が間違いでもイタズラでもないことが分かった。


話の内容はこうだった。
「自分はかなりの高齢者」
「自宅で独り暮しをしている」
「難病にかかり、歩行も困難」
「週一回、ホームヘルパーが来る」
「子供はいるが、離れて暮らしている」
「死期が近いものと覚悟している」
「愛着のある、この家で死にたい」
「孤独死したときのために備えておきたい」


私は話の内容を聞いて、この女性が独り暮しを続けていることが信じらなかった。
ただ、家と家族への愛着が並大抵ではないということが、すぐに理解できた。


私が言うまでもなく、女性は遺言を残しており、残された人が困らないような配慮をしていた。
残された問題は、身体のこと。
どんなに死の準備を整えたところで、身体ばかりは事前にどうこうできるものではない。
女性は、死ぬ覚悟と死への整理はできているものの、実際に孤独死してしまった後にどのようなことが起こるのかが想像できないようだった。
そして、私が経験してきた多くのケースを、一つでも多く聞きたいみたいだった。


正直、私は躊躇った。
女性の要望に応えるには、グロい話を避けては通れなかったからだ。
ただ、女性は耳障りのいいきれいな話を期待しているのではなく、現実に起こる可能性のある話を聞きだかっていることは明白だった。
私は、慎重に前置きして、話を聞ける心の準備ができているのかを確認した。


しかし、これは愚問だった。
私なんかより、ずっと深く死を考え、しっかり覚悟も整えている女性。
私のグロい話ごときに動揺するはずもなかった。


私は、遺体が腐っていく様、回りに与える影響、事後処理の実態をゆっくり話した。


夏は腐りやすい
冬は腐りにくいが、コタツやホットカーペットには注意が必要
一番は布団・ベッド、次に風呂・トイレで亡くなる人が多い
どんなにきれいにしていてもウジは湧く
etc・・・


話した内容は、あくまで発見が遅れて腐乱した場合。
話題は、発見の遅れを防ぐ対策に絞られた。
そこで、アドバイスを求められた私は、いくつかの方法を伝えた。


離れて暮らす子供と、毎日連絡をとる
ホームヘルパーの日数を、できるだけ増やす
新聞をとる
etc・・・


どの方法も、ありきたり過ぎてもどかしかったが、私には決定策が思い浮かばなかった。


「実際に私が死んだら、貴方は何ができますか?」
「遺体搬送・遺体処置・特掃・・・必要なことは一通りできますよ」
「でしたら、そちらの連絡先を大きく書いて玄関にでも貼っておけば安心ですね」
「安心かどうかは分かりませんが、連絡が入ったら急いで伺いますよ」
「その時が来たら、よろしくお願いしますね」
「でも、具合が悪くなったら119番ですよ」
「いいの、私は家族で楽しく暮らしたこの家で死にたいんです」
「そうですか・・・分かりました・・・その時が来たら、一生懸命やります」


「貴方がその仕事をされている理由は知りませんけど、私のような者にとってはありがたい仕事ですよ」
「そう言っていただけるだけで、救われるものがありますよ」
「歳は、まだお若いんでしょ?」
「若いような若くないような・・・○歳です」
「まだ若いじゃないですか!」
「そうですかね・・・」
「今のうちに色んなことを勉強して下さいね」
「ハイ・・・」
「お金や物は失くなったり盗られたりするけど、自分が学んだことは失くしたり盗られたりすることはありませんからね」
「私には、大した能力はありませんから・・・」
「能力なんかなくていいんです」
「でも・・・」
「ほんの少し、勇気を持てばいいだけですよ」」
「・・・」
「二度とない人生、勇気をだして生きないともったいないですよ」


私の過去には、女性の言葉に思い当たる節がいくつもあった。
「少しの勇気か・・・確かにそうだなぁ」


私は、女性の住所と連絡先を聞いた。
そして、自分の名刺をでっかく拡大コピーしたものを何枚か郵送した。


私は、自分の晩年に何を思うだろう。
普通に考えたら、最期に目に入る景色は味気ない病室の天井。
それを見ながら、色々なことを考えるのだろう。

女性の住所は、今でも残している。
会ってみたいような気もするけど、私なんかの出番がない方がいいと思う。


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2006-10-04 10:58:49
投稿分より

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生きじまい

2017-01-17 08:10:18 | 生前相談
ある年の晩秋、空気が涼から冷に変わりはじめた頃。
私は、都会の喧騒遠い閑静な住宅地に建つ依頼者宅を訪れた。
依頼者は、高齢の女性。
病気を患っており、病院や老人施設を転々としながらの療養生活。
依頼の内容は、家財生活用品の処分・・・いわゆる生前整理について。
老いには逆らえず、身体は徐々に弱まっており、人生をしまう仕度をしようとしているのだった。

女性宅のエリアは、区画整理された住宅地。
だいぶ前の分譲地で、一帯は古い建物ばかり。
しかも、人影や車の通りもなく、寂しい雰囲気。
その中にある女性宅は、一段と寂れた様相。
庭や外周の手入れも行き届いておらず荒れ気味で、また、建物のメンテナンスもキチンとされておらず。
空き家っぽい雰囲気・・・生活の体温が感じられない冷えた佇まい(たたずまい)で、周囲の家とは趣を異にしていた。

私は、指定されていた時刻ピッタリにインターフォンをプッシュ。
すると、玄関ドアの向こうから「どうぞ~」と声が聞えてきた。
その返事を“入って来て下さい”の意と汲んだ私は、「こんにちは~・・・」とドアを引き、「失礼しま~す・・・」と玄関に足を踏み入れた。
そして、近づいてくるスローな足音を聞きながら、女性が出てくるのを待った。

女性は、ゆっくり ゆっくり、一歩一歩が前に出ているか確かめるように歩いてきた。
老齢病弱ということは先に聞いていたので、そのスローペースにも特に違和感は持たなかったが、女性は気になるものを身に着けていた。
それは、何かのボンベらしきものがついた機材。
そして、そこから伸びた管が鼻孔につながり固定されていた。
女性は、キャスター付のそれを傍らに引きずりながら出てきたのだった。

女性は特に苦しそうにしていたわけではなかったが、その装置は見た目に重々しく、それだけで、その場の雰囲気は重苦しいものになった。
が、女性はそんな私の小驚など気にもせず、やや苦しそうに息をしながらも丁寧な言葉で私を居間に招き入れ、ソファーに座るよう促した。
そして、
「病院からの一時帰宅なものですから、何のお構いもできなくてスミマセン・・・」
「買ってきたもので申し訳ないんですけど、どうぞ・・・」
と、傍らのレジ袋からペットボトルのお茶を出し、私の前に置いてくれた。

いつもの私なら、
「どこを悪くされているんですか?」
「それは何のための機械なんですか?」
等と、余計なことを根掘り葉掘り訊いていくのだが、医学に見識のない私でも、その病気が軽いものではないことは察せられた。
しかも、治る見込みも低そうに見えたため、私は、女性の病気や機材については何も触れなかった。
そして、その後、女性の口からは、“病気について触れなくてよかった”と思うような話が出てきたのだった。


女性には夫がいたが、その夫は数年前に先逝。
家族としては息子が一人いるのだが、息子のほうも重い病気と障害を負っており、長く施設で生活。
将来、社会にでて自立生活できる可能性は、極めて低かった。
となると、女性がいなくなった後、もうこの家は用なしに。
しかも、土地家屋や家財を置いたまま逝った場合、息子に負担がかかってしまう。
しかし、女性の身体は衰えるばかり。
生前にどうにもできないことは息子の成年後見人に頼むとしても、頭がシッカリしているうちに、身体が動かせるうちに家財を始末し、残して逝く息子のために家を金に換えておこうと算段。
そして、その一助になればと、私が呼ばれたのだった。

愛着ある品々も、想い出がタップリ詰まった家も、天国に持って行くことはできない。
それは、誰にだって、すぐわかること。
しかし、実際にそれを手放すとなると、なかなか理屈通りにはいかない。
懐かしい想い出や深い思い入れが邪魔をする。
それが、自分の死をリアルに悟れない時期であるなら尚更。
しかし、女性は、自分の死をリアルに想像していた。
そう遠くない将来にやってくるであろうこと悟っていた。
だから、自分の持ち物を始末することについて迷いはなく、感銘を受けるほど潔かった。

「もう、この家には、二度と戻ってくることはないでしょうから・・・」
「苦労は色々ありましたけど、過ぎてみると人生なんて短かいものですね・・・」
「もうじきこの人生が終わると思うと、寂しい気がしますよ・・・」
「楽しくないことが多くても、それでも、人生は楽しいものですね・・・」
少し前の女性が複雑な心境であったことは、容易に察せられた。
特に、病弱な息子を残して逝かなければならないことを思うと、胸が張り裂けそうになったかもしれない。
しかし、その類のことは相当の覚悟をもって片づけたのだろう、この時の女性は、穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、外見は老い衰えた女性だったけど、その内面は、生気にも似た輝きを放っていた。

そこには、死を受け入れざるを得ない者の弱さと、終焉の閑寂があった。
死を覚悟した者の強さと、人生の輝きがあった。
そして、私にとっては、そのことを決して他人事として済ませてはいけない機会があった。
私には、とてもその境地に至ることはできなかったけど、できるかぎり自分に当てはめてみたかった。
銭金のためにやっている仕事だけど、銭金では買えないものを手に入れたかった。
せっかくの自分の人生、せっかくの人の死。
後悔の念にとらわれながらも 頑張っている仕事、人生の多くの時間を費やし 続けている仕事なのだから。



2015年の日本人の平均寿命は女性87.05歳、男性80.79歳で、いずれも過去最高を更新したとのこと。
うちの会社には「エンゼルケア事業部」という遺体処置(死後処置、死化粧、身体の清め、着せ替え、納棺など)を担う部署がある(かつて、私もここに所属していたこともあったけど、近年は「ライフケア事業部」いう部署に所属して活躍?している)。
そこで扱う遺体の多くは、やはり70代・80代の故人。
もちろん、もっと高齢の人もいるし、もっと若い人もいるけど、上数値を反映して高齢者が多い。

もちろん、皆、赤の他人。
見ず知らずの人、生前の縁は皆無。
だから、これといった情もなく、悲哀を感じることもない。
ただ、
「一人一人の人生が終わっていってるんだな・・・」
しみじみそう思う。
そして、
「俺の人生も終わりに向かってるんだよな・・・」
と、再認識する。

また、仕事のせいか性質のせいか、私は、
「“死”というものを想わない日はない」
と言っても過言ではないくらいの毎日を送っている。
「俺、死ぬんだよな・・・」
しみじみと そう想い、同時に不思議にも想う。
また、街の雑踏を眺めながら、
「この人達、いつか皆 死んでいなくなるんだよな・・・」
と現実的かつ不気味なこと?を想う。

生と死は常に隣あわせで、死の機会は、老若男女を問わず、万民平等。
すべての死は不可抗力。
この摂理は、多くの人が知っている。
しかし、平均寿命というデータによって、一般的には“若者より高齢者のほうが死に近い”と考えることが多い。
しかし、あくまで、それは全体的・相対的な数値。確率の問題。
人間個々で考えると、まったく当てはまらない。
幼少・若年で亡くなる人も多くいるわけで、だからこそ、“人生の終わり”を意識すること、考えることは、誰にとっても必要なことなのである。

“死”に教わること、“死”に気づかされることってたくさんある。
が、“死”というものは、かなりデリケートなもの。
揚々としたときには怖れ、欝々としたときには憧れたりもする。
人生を輝かせる遠因にもなれば、暗くする原因にもなる。
そして、“死”それ自体は、なかなかポジティブに捉えられるものではない。
そこから派生する思想や価値観は、容易にポジティブなものになりうるけど、死そのものはそうならない。
未知の恐怖、消滅の寂しさ、有限の切なさ、無力の虚しさ等、ネガティブなものが多く浮かんでくる。
気分の位置によっては、悲観的・短絡的な志向に傾いてしまうから難しい。

老齢や病など、自分の死をリアルに悟る時がきたとき、どういう心境になり、そういう心情になるだろう。
何を考え、何を想うだろう。
悲哀か、緊張か、恐れか、未練か、寂しさか、虚しさか、後悔か、諦めか・・・
それとも、笑顔の想い出か、安堵か、平安か、希望か・・・
そして、何をするだろう。
慌てて遺言を書くか、焦って生前整理をするか、別れを告げに誰かに会いに行くか、懐かしの地を訪れるか・・・
それとも、お金も人目も気にせず、楽しみに興じるか・・・
具体的には想像するのは難しいけど、理想は、穏やかな笑みを浮かべながら生きてきた道程を回顧し、また、天国に希望をもつこと。

死に対してどう向き合うか、どう備えるか、答をだすのは簡単ではない。
生きることとどう向き合うか、どう生きるか、それも同じ。
死を想うことは、生の力を削ぐものではない。
死を想うことは、生を力づけること。
死の準備は時間の密度を上げる。
そして、自分の人生を熱くするエネルギーが宿る。

“死を想いながら生きること”は、“人生を充実させること”“力強く生きること”の基となる。
本ブログにもしつこく書いているけど、私は、それを愚弱な自分に訴え続けていこうと思っている。
人生をしまう日がくるまで。



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