goo blog サービス終了のお知らせ 

特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

年輪

2024-09-23 03:57:00 | エンゼルメイク
遺体処置業務で、ある家に訪問した。
一般的な先入観を持って行くと悲しみに包まれているはずの家だった。
しかし、その家は違った。

無邪気な子供達が、場もわきまえずに走り回ったりして大騒ぎ。
大人達は、久し振りに会った人達とのお喋りに夢中になり、誰も子供達を制止する人はいない。
葬式につきものの辛気臭い雰囲気はどこにもなかった。
ま、その方が仕事をしやすい。

故人は年配の男性。
どことなく笑っているような、安らかな死顔だった。
一人の孫と故人の奥さんが遺体の傍についていた。

小学校高学年くらいのその孫が奥さん(祖母)に色々と質問をしていた。
そのやりとりを、私は作業をしながら黙って聞いていた。

Q:「死ぬ時は苦しいの?」
A:「苦しくないよ」「お祖父ちゃんだって笑ってるでしょ」
Q:「死んだらどうなるの?」
A:「みんな好きな場所に行くんだよ」「天国に行く人が多いね」
Q:「淋しくないの?」
A:「天国にもたくさんの人がいるから淋しくないよ」
Q:「おばあちゃんは、死ぬのが恐くないの?」
A:「恐くないよ」「おじいちゃんが居てくれるからね」
Q:「人は何故死ぬの?」
A:「・・・」

女性は答に詰まったのか、わざと答えなかったのか分からなかったが、黙ったままだった。
気になった私は手を止めて女性の方を見た。
すると女性は、故人の手を握りながら「何故、人は死ななきゃならないのでしょうね」と、私に尋ねてきた。

いきなりの質問、しかも難しい質問を投げ掛けられて、私は少し焦った。
少し間を置き、「あくまで自論ですが・・・」と前置きしてから静かに答えた。
「まず、自分(人)の無力さを知るため」
「そして、命が価値あるもので在るため」
「・・・私は、そう思っています」

「・・・そうねぇ」と女性。
孫は不可解そうな顔をしていたが、女性は微笑みをながら聞いてくれた。

正解のない質問に素直な気持ちで応えだだけ、若輩者のだだの自論だった。
だけど、女性は異を唱えることなく聞いてくれていた。
歳を重ねているが故の余裕のような包容力を感じた。

「この歳になっても、この人(故人)と死に別れることなんか夢にも考えていなかった」
「この人は、死なないような気がしていた」
「二人で楽しい人生だった」
女性の胸の内を聞いて、黙って頷いた私。
人生の先輩からの重い言葉だった。

樹に年輪があるように、人にも年輪があるのだろう。
子供にも老人にも、それぞれに命の価値と生き様がある。

「老いを笑うな我が行く道、子供を叱るな我が来た道」
昔、誰かが私に教えてくれた言葉を思い出す。



トラックバック 
2006-09-06 09:15:17
投稿分より

特殊清掃についてのお問合せは
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夢のあと

2024-07-26 04:56:59 | エンゼルメイク
自分が死んだら、柩の中に何を入れて欲しいだろうか。
若い頃は、結構真剣に考えて耳かき棒と酒をリクエストしていたが、今はどうでもよくなっている。
浮世の金品も、アノ世には関わりのない物と思うから。

どんなに高価な物でも、灰になってしまえば同じこと。
どんなに偉い人でも灰になってしまえば同じこと。

人は何も持たずに生まれてくる。
そして、何も持てないまま死んでいく。
現金も、株券も、豪邸も、高級車も、ブランド品も(私の場合はコノ世でも持ってない物ばかりだけど)。

私を含めて、どうして人はこうまで物を欲しがるのだろうか。
生活がある程度便利で快適であれば、それでいいような気もするのに。
命は有限なのに欲は無限と言うことか・・・何となくバランスが悪いような気がする。

では、目に見えないものはどうなのだろうか。
例えば、愛・名誉・徳・善行など。
全ては有限?中には無限のものもある?永遠ってある?
ま、その類の話は、どっかの宗教にでも任せとけばいいか。

遺族が柩の中に入れる物で多いのは、まずは衣類。
お金や写真、手紙も多い方。
それぞれの品に、それぞれの人の、それぞれの想いがある。
それは、「故人の為」と言うより「遺族本人の為」と言った方が適切だと思う。
柩に物を入れることで、わずかでも癒されるなら故人にとっても「ありがた迷惑」にはならないだろうし。

最近は火葬場の都合で副葬品が制限されることが少なくない。
環境問題なのか火葬炉の問題なのか、または火夫の都合なのかは分からないけど。

火葬炉では強力バーナーで一気に焼かれるらしい。
燃焼より冷却の方に長い時間を要することも聞いたことがある。

どちらにしろ、人間の身体も物と同じであっけなく灰になる。
残された人の心に留まれるのも、せいぜい孫の代くらいまでか。

時が経てば、全てが夢のあと。
嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、苦しいことも、笑ったことも、泣いたことも・・・だったら、無理矢理にでも笑ってみるか!
ハハハ・・・やっぱ心が伴ってないとダメだね。
じゃ、どうやったら心から笑える?

実は、笑うことも泣くことも自分の支配下にないことに気づかされる。
現実に笑うのも泣くのも自分なのに。

やはり、生き・生かされていることって、かなり不思議なことだと思う。
まるで、夢のようだ。

トラックバック 2006/08/17 08:47:39投稿分より
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラブレター

2024-07-22 10:44:10 | エンゼルメイク
  • 別れの柩に手紙を入れる人は多い。
故人に宛てたものがほとんどだろうが、アノ世に先立った人へ言葉を託けたものもあるかもしれない。
生前は照れ臭かったり、日々の生活で見過ごされたりしてきた当人(故人)への想いが、純粋なかたちでてくる場面でもある。
「できることなら、生きているうちにそういう想いを伝えられればよかったのに・・・」
そう感じることが多い。
共に生きていられる時間は限られている。
照れている場合じゃないと思う。
日本人にとっては「臭い」と思われるセリフを平気で吐けるアメリカ人が羨ましい。

私は、葬式にはイヤというほど関わっているが、結婚式には縁がない。
何年かに一度、誰かの結婚式に招かれることがあるくらい。
葬式ばかり経験していると、結婚式がとても新鮮だ。
他人の幸せを嫉みがちな私でも、結婚式の幸せに満ち溢れた雰囲気は好きだ。
結婚式の場面でも、普段なら照れ臭くて言えないようなセリフがよくでてくる。
新郎新婦が親に宛てた手紙を読んで感極まって涙を流したり、またその逆があったり。
それはそれでいいことだと思う。
でも、その数日後にはいつものノリに戻って、相変わらず親子喧嘩や夫婦喧嘩をする。
一体、結婚式の時のスタンスとテンションはどこに行ってしまうのだろうか。
心当たりある人、結構いるでしょ?

たまには照れを捨てて、大事な人に大事な想いを伝えてみたらいいと思う。
口で言うのに抵抗があれば、手紙を使えばいい(最近はE-mailか)。
そんな些細なことで、自分も相手もHappyになれればいいよね。

ある老婆が亡くなった。
子供は長女と長男の二人(姉弟)、二人とも中年になっていた。
二人とそれぞれの家族が遺族として集まっていた。
遺族は柩の中に色々なものを入れていた。
その中に、一枚の古ぼけた葉書があった。
長男はそれを柩に納めるかどうかを迷っており、長女としきりに相談していた。
長女もなかなか決断できないようで、いつまでも迷っていた。

それは、60余年前、亡き夫が故人宛にしたためたものらしかった。
今でいうと国際郵便になるのだろうか、戦地からの手紙だった。
その手紙を出して間もなく、夫は戦死したらしい。
二人の子供達はまだ幼少で、父親の顔はハッキリ憶えてないらしかった。

野次馬根性からか、私はその手紙を読んでみたくなった。
「読ませてほしい」なんてずうずうし過ぎることは分かっていたが、抑えられない好奇心もあった。
でも、やはり自分から声を掛けるのは筋違いなので、黙って作業の手だけ動かした。
私の興味深そうな視線に気づいたのか、柩に入れるかどうかのアドバイスが欲しかったのか分からないが、長女が「見て下さい」とその葉書を渡してくれた。
受け取った小さな紙片には、命と時間の重みがあった。
残念ながら文字もかすれ、紙が黄ばみ、文章として読み取ることはできなかったが、若き日の夫が書いた筆跡だけは感じることができた。
内容を聞くと、遺書めいたニュアンスで妻子のことを案じ、励ますようなものだったらしい。

今の時代に生まれ育った私には、戦地から家族に手紙を書く極限状態を想像することもできない。
常日頃は「人間はいつ死ぬか分からない」「自分の死を考えよう」等と何かを達観したようなことばかり吐いている私だが、結局のところは死との間に適当な距離感を持てている甘ったれかも。
戦場で命を張る兵士とは、とても比較にならない。
(※戦争を美化し、兵士の仕事を賞賛しているのではない。)

この夫はどんな気持ちでこの手紙を書いたのだろうか。
当時の戦況から、日本に生きて帰れないことを覚悟していたことは容易に想像できる。
そして妻(故人)は、そんな気持ちでこの手紙を受け取ったのだろうか。
夫の生還を祈りながらも、生きて再会できない覚悟もしていたかもしれない。
想像すると言葉に詰まる。

私は「故人が60余年も大事にしていた手紙だから、柩に入れてあげた方がいいのでは?」と自分なりの考えを伝えた。
しかし、故人の安らかな顔を見ていたらその考えがシックリこなくなった。
そして、すぐにその言葉を撤回した。
「天国で再会している二人にはもうこの手紙は必要ないのでは?」
「この手紙がコノ世に残った人の糧になるなら、大事の持っておかれた方がいいと思う」という旨のことを伝えた。

その後の通夜や告別式で、二人の子息がその手紙を柩に納めたかどうかは分からない。

夫が戦地から送ったこの手紙は、それまでは大事な妻のために生きていた。
父が戦地から送ったこの手紙は、これからは大事な子供達のために生きる。
それを受ける人が残るかぎり、書き手の魂(愛)は消えることはないのかもしれない。

それにしても、最近は読めるけど書けない漢字が増えてきた。
「手紙を書く」というよりも「手紙を打つ」といった表現が正しくなってきた感じ。
そのうち、絵文字や顔文字が辞書に載るようになったりして。
遺言ばかり書いていると辛気臭くなるから、私もたまには誰かに手紙を書いてみようかな。


トラックバック 2006/08/14 09:13:38投稿分より


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦悶

2024-07-01 07:21:14 | エンゼルメイク
死ぬ瞬間って、どういう感覚を憶えるものなのだろうか。
「脳内アドレナリンが大量に発生して、快感の絶頂に到る」と説いた本を読んだことがあるが、誰もその実態を知ることはできない。
私は、三十数年間の人生で一度だけ人が死ぬ瞬間を目の当たりにしたことがある。
時は幼少の頃、祖父が死んだときのことだ。
内臓疾患で闘病生活を送っていた祖父は、しばらくの闘病生活の後、意識不明の危篤に陥った。

急いで病院に駆けつけたときは、意識不明で荒い息をしていた。
皆が見守る中、最期の息をゆっくり吐いたかと思うと、もう次の息を吸うことはなくそのまま臨終した。
何分にも幼かったため、人が死ぬということがよく理解できなかったけど、祖父の最期の様子は今でも鮮明に記憶している。
黄疸で黄色く変色した身体、腕には無数の内出血の痕、柩に入った祖父の身体の冷たさと固さには、幼い私も異様な感覚を覚えたものだった。
その子が、それから十数年後には見ず知らずの屍をたくさん処置することになるなんて・・・「人生~ってぇぇぇ~不思議な、もので~すね~♪」

死ぬ瞬間って苦しくないのだろうか。
苦悶の表情を浮かべている遺体を見かけるのは、単なる偶然か。
それとも、私の先入観か。

口を開けたままの遺体、目を開けたままの遺体、そして眉間にシワを寄せて苦悶の表情を浮かべている遺体。
遺族は、安らかな死に顔を求めて「何とかならないか」「何とかしてくれ」と要望してくる。
個人的な主観では、故人のためを思って処置を求めるケースは少ないように思う。
遺体は苦悶の表情を浮かべていては、遺族も気持ち悪いのだろうか。
それとも、人目を気にしているのだろうか。
その理由を訊くことはできない。

誰が貼るのか知らないけど、TVタレントのモノマネ顔負けのセロテープ加工してある遺体も少なくない。
失礼ながら、テープのおかげで可笑しな表情を作られている遺体もある。
極端なケースだと顔にガムテープを貼って、しかもご丁寧に「はがすな!」と注意書きが付いた遺体と遭遇したこともある。
「はがすな!」と言ったって、はがさないと仕事にならない。
はがすガムテープに皮膚もくっついてくる。
本人は死んでるから文句も言わないけど、やっていて痛々しい。
しかし、テープを貼ったくらいで表情が変えられるほど人間の表情は単純なものではない。
無駄な抵抗だ。

専門の技術を使えば、開いたままの目や口を閉じることはそんなに難しいことではない。
更に特殊な技を使えば眉間のシワだって消すことができる。
ただし、目や口を閉じるだけならともかく、私の場合は安易に眉間のシワを消すことはしない。
故人の人格を否定してしまうような気がするから。
しかし、遺族の要望も簡単に無視することはできない。
したがって、私が取る策は、遺体の眉間に素手をしばらく当て続けること。
イメージとしては、シワにある布にアイロンを当てて伸ばすような感じで。
もちろん、私に念力などない。
ただただ、自分の体温を遺体に伝えるという非科学的・原始的な手法。
こんなことで完全にシワが取れることはないながらも、少しはシワが目立たないようになる遺体もある。
自分勝手に、「それくらいが調度いい」と考えている。

苦悶の表情には訳がある。
それは最期の瞬間を表しているのかもしれないし、人生そのものを表しているのかもしれない。
残され人にとって気持ちのいい表情ではないけど、それもまた故人である。
遺体の表情を変えることより、自分の心を変えることを考えた方がいいのかも。
他人(遺体)の喜びを自分の喜びとし、他人(遺体)の苦しみを自分の苦しみとできるように。


遺体というものは、生きている者に無言のメッセージを伝えてくれる。
それが苦悶の表情でも安らかな死に顔でも。
メッセージの受け取り方は人それぞれ。
どちらにしろ、やはり遺体は人間の形をしていた方がいい。

「眉間のシワより笑いジワ」と思いながらも、この猛暑についついシカメッ面をしてしまう夏である。


トラックバック 2006/07/30 08:24:57投稿分より
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Go to heaven

2024-06-04 05:51:50 | エンゼルメイク
誰も死も、どのような死も、ある人にとっては辛く悲しいもので、ある人にとってはそうとは限らないものでもある。
大方の人はそうであろうと思うが、私にとって若者や子供の死は特に重い!

ちょっと注意。
「老人や中高齢者は、若者や子供と比べると命が軽い」とか「価値がない」と思っている訳ではないので、その辺はくれぐれも誤解のないように。

さすがに、経験豊富?な私でも、子供の腐乱死体にはお目にかかったことはない。
当然、お目にかかりたくもない!!

ただ、そうではない遺体には何度も遭ってきた。
当然のことながら、子供用の布団は大人のものに比べて小さい。
身体が直接見えなくても、小さな布団を見ただけで、気持ちにズシリ!とくるものがある。
そして、掛布団をめくると、小さな子供が眠るように目を閉じている。
死因は、病死・事故死・突然死など色々。
顔色が蒼白の子もいれば、唇が紫色になっているような子もいる。
科学的根拠はないのだろうが、老人の遺体に比べると、子供の遺体は顔色が悪いことが多いような気がする。

そして、その親の嘆き悲しみ様は、とても言葉(文字)では表しきれない。
私にとって、初めての子供遺体は小学校中学年の男児だった。
もらい泣きはしなかったものの、とても複雑な心境になったのを今でもよく覚えている。


片手で持ち上がるくらいの小さな子もいた。

痩せ細って苦悶の表情を浮かべている子もいた。

痛々しいくらいの注射痕・点滴痕がある子もいた。

手術の傷が治りきっていない子もいた。

事故に遭い、身体の損傷が激しい子もいた。

将来の夢を書いている子もいた。

親が我が子の額と自分の額をくっつけて、いつまでも、いつまでも別れを惜しんでいる姿もあった。

幼い弟妹から、「○○ちゃん(兄姉の名前)はどこへ行ったの?」と問われ、返す言葉に詰まったこともあった。

親と一緒に泣いてしまい、仕事にならなかったこともあった。



「人生は細く長い方が良い」とか「人生は太く短い方が良い」とか言うことがある。
この類は、誰しも一度くらいは考えたことがあるのではないだろうか。
人間には生存本能がある。私は思う。人生は太く長い方がいい。

しかし、現実には、長くない人生を送って逝った子供達がたくさんいる。
そしてまた、今日もどこかで人生を終える子供がいる。

私にとって、子供の死に直面するひと時は、生きているのことの夢幻性を強く感じる瞬間でもある。
そして、人間一人一人が生き、生かされていることに、何か意味があるように感じる時でもある。

人生と格闘しているのは、我々大人だけではない。
子供達も、日々、目に見えない色々な敵と闘っている。
そして、死ぬことは敗北ではない。

偽善的かもしれない・・・
でも祈る・・・
天国に行ってくれ・・・。



トラックバック 2006/07/05 08:20:59投稿分より

遺体処置専門会社
ヒューマンケア株式会社

お急ぎの方は
0120-74-4949
(365日24時間受付)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする