「怪しそうな人が来るんじゃないかと思ってました・・・」
依頼者の女性二人は、そう言って、気マズそうに笑った・・・・・
知人を介して、現場の調査依頼が入った。
依頼の内容は遺品処理の見積り。
訪れた現場は、郊外の住宅地に建つ古いマンション。
依頼者は、二人の初老女性。
二人は姉妹で、亡くなったのは二人の姉、三姉妹の長姉。
間取りは一般的な3LDK。
一人で暮すには広すぎるくらいの部屋だったが、夫に先立たれ子がなかった故の一人暮らしだった。
故人は老齢となった頃、癌を罹患。
ただ、高齢者特有の病状で、その進行はかなり遅く、病とは長い付き合いとなっていた。
そうは言っても、病状は少しずつ進み、晩年は、ほとんど病院生活。
そんな故人は、自分の死期を悟り、少しずつ家財を片付け始めた。
それは、“自分の後始末はできるだけ自分でしたい”との意志と、“残される親族の負担を少しでも軽くしておきたい”との配慮からくる故人なりのケジメだった。
だから、残された家財の量も多くはなく、室内は生活感がないくらい整然としていた。
それでも、自分が生きているうちにすべてを片付けることは不可能。
夫も子もない故人にとって後始末を頼めるのは二人の妹だけで、故人は、死後の後始末を二人の妹に託した。
しかし、そんな二人も老齢で、しかも未経験のこと。
何をどうすればよいのかよくわからず、遺品の処分は二人の手に余った。
が、自分達がよくわからないことを見ず知らずの人間に頼むのは不安がある。
また、精一杯の終活をして逝った姉を悲しませぬよう、事はトラブルなく処理したい。
かと言って、信頼をもって頼めそうな知人もいない。
そこで、人づてに私との接点が生まれたのだった。
昨今は、「消費者契約法」などという法制が必要になるくらい物騒な世に中になっている。
二人が、何を不安に思い、何を心配しているのか、だいたいの想像はついた。
それは、「自分達が老齢の女性であることをいいことに、無茶な契約を結ばされるのではないか?」「いい加減な仕事をされるのではないか?」ということ。
そのため、見ず知らずの人間ではなく、知人を介して頼める人間を探したわけ。
それでも、二人は用心深く、私に対して強い警戒心を抱いているようで、私が穏やかな雰囲気を醸しながら挨拶をしても表情と態度は硬く、それは、中年男のつくり笑顔くらいで崩れるようなものではなかった。
二人が、私の仕事やそれに従事する人間についていい印象を持っていないのは明らかだった。
ある意味で職業に貴賎はないが、ある意味では、職業に貴賎はある。
努力・忍耐とは縁のない、低学歴で無教養の無才凡人が行き着く仕事・・・
自堕落な無才凡人が、職を転々とした挙句に行き着く仕事・・・
そんな印象を持っていたのではないかと思う。
そして、それは、あながち間違っていないと思う・・・残念ながら。
私の仕事に対して持たれる印象やイメージに“偏見”を感じることは少ない。
「それは偏見だ!」と非難したいところけど、実のところ事実であることが少なくないから。
「儲かる」「稼げる」といった金銭がらみの偏見は事実に反するけど、従事している人間の人格・キャリア・能力・資質などは「世間の偏見≒事実」である。
この仕事は、世間(人)からは、“いいイメージは持たれない=悪いイメージを持たれやすい”のである。
先入観が沸く心や偏見をもって見る目は、誰かに備えつけられたものでもなく、誰に押しつけられたものでもない。
それは、生来の人間が持って生まれた性質、人が抱く素直な気持ち。
もちろん、それらを受ける当事者(私)にとって愉快なことではない。
だけど、憤るほどのことでもなければ、非難するほどのことでもない。
私だって、先入観をもち、偏見で人や物事を見ることはあるから。
私は、それを受け入れつつも、そのマイナスイメージをプラスに転じようと努力する。
丁寧な言葉をつかい、礼儀をわきまえ、態度や表情にも注意をはらう。
名刺もキチンとしたものを持ち、資格に裏打ちされた知識も駆使する。
現場を流しているから仕方がないときも多いけど、それなりに身だしなみにも気をつける。
業務上で酷い格好になってしまったときは、
「作業をやってきたものですから、汚い格好でスミマセン」
と、最初の挨拶に一言つけ加える。
事前印象はマイナスでも、第一印象でプラマイゼロまでもっていき、作業完了までにプラスに転じることができればいいと思っている。
家財の少ない3LDKを見るのに、そんなに時間はかからず。
一通りの検分を終えた私は、すすめられるままリビングのダイニングチェアに腰を降ろした。
お茶をすすめられたものの、そこに雑談を挟むような和やかな雰囲気はなく、私は、必要な作業の内容と費用を事務的に説明。
そして、業務上の質疑応答を二~三度繰り返して、とりあえずの話を終えた。
営業上は契約を勧める必要があったのだが、二人は、押し売られることを最も警戒しているはず。
それを察していた私は、あえてそれをせず。
また、仲介してくれた知人の顔を潰すようなことになったらマズイし、二人が契約の意向を積極的にみせないかぎり、現地調査だけで退散するつもりでいた。
「他に何かお尋ねになりたいことありませんか?」
「ないようでしたら、今日はこれで失礼します・・・」
私は、暗に、“契約の強要はしない”という意思を示しつつ、無用の長居はしない姿勢をみせた。
すると、二人は、少し間を置き、ちょっと訊きにくそうにしながら、
「このお仕事、長くされているんですか?」
と、質問してきた。
実際、この類の質問を受けることは多い。
したがって、それに応えた数も多い。
私は、“よくぞ訊いてくれました”とまでは思わなかったものの、それが二人の警戒心を解く会話の糸口になりそうな気がして、そんな期待感を抱きつつ話を始めた。
私が答えた従事歴は二人の想像をはるかに越え、その動機や仕事内容は、まったくの想定外だったよう。
二人は、“職を転々とするような人がやる仕事”“仕方なくやる仕事”といった先入観を持っていたのだろう。
しかし、幸か不幸か、私は職を転々とはしていない。
他にやれることがないから、ずっとこれをやっている。
また、生活のためとは言え、結構、積極的にやっており、「金のため 自分のため」とイキがってはいるけど、依頼者や関係者に感謝されたり頼りにされたりすると、喜びを覚えたりもしている。
二人は、私の話が進むと同時に、私がそんなに怪しい人間ではない(自分で言うのも変だけど)ことがわかってきたのか、少し驚いた表情をみせた後、硬かった表情を徐々に和らげていった。
そして、それが私の信頼度を計るバロメーターになったのか、話は契約締結の方へ進んでいった。
「実のところ・・・怪しそうな人が来るんじゃないかと思ってました・・・ごめんなさいい・・・」
その言葉に悪意は感じず、むしろ好意をもってもらえたが故の言葉、私を褒めてくれる言葉だと感じた私は素直に喜んだのだった。
そして、限界を感じることが多く、後悔だらけの職業人生だけど、長くやっていることを評価してもらえるだけで、人に認めてもらえたような気がして、自分の人生を肯定できる喜びを感じることができたのだった。
今日で今年もおしまい。
凛と澄んだ空の下、今のところ、今日は小さな現場を一件予定しているだけ。
追加業務が発生しなければ、夕方も遅くならず退社できるだろう。
そして、普段は粗食でも充分に満足できる私だけど、今夜は、少しはいいモノを食べようと思っている。
ただ、明日も仕事だから、深酒はできない。
ま、仕事柄、それも仕方がない。
まずは、そんな中にあっても、一年を生き通すことができ、また新たな年を迎えることができる(多分)ことに感謝!感謝!
ブログはあまり書けなかったけど、今年も色々なことがあった。
多くの現場を走り回り、そして、色々な人との出会いがあった。
そのほとんどは良識をもった良心的な人達なのだが、少数ながら、中には、苦手なタイプの人や嫌なタイプの人もいた。
心無い態度や言葉によって、悲しい思いや悔しい思い、惨めな思いしたこともあった。
自分自身の弱さや信念のなさで、悲しい思いや悔しい思い、惨めな思いしたこともあった。
世間一般にマイナスの印象を持たれるのは仕方がない。
それは、ある種、自然なこと。
ただ、誰かにとってプラスの存在になれればいいと思っている。
依頼者との関係において価値ある仕事ができればいいと思っている。
それが、汚仕事に従事してくたびれる自分を励まし、勇気づけるのだから。
私は、何事においても、一つのことを続けていくことは大切なことだと思っている。
「究める」なんて大袈裟なことは言えないけど、そう思う。
こんな仕事だけど、現に、そうしてきてよかったと思えることは多い。
しかし、肉体は老い衰え、精神は熟し鮮を失い、社会情勢は変化していく。
この先、いつまでこの仕事を続けていけるかわからない。
この先、いつまでこの人生を続けていけるかわからない。
この先、どうなるかわからない不安がある。
この先、どうなるかわからない恐怖がある。
しかし、どうなるかわからないから希望が持てる。
どうなるかわからないから期待ができる。
自由は不確かなところにあり、不確かな明日だからこそ自由に志向できる。
2016年大晦日にあって、この無才凡人は、新たな年に向かって覚える不安と恐怖を希望と期待を変えようと、マイナスの心とプラスの心を必死に戦わせている。
そして、幾度も繰り返されてきたその戦いに、幾度も繰り返されるであろうその戦いに、「俺って、懲りないヤツだよな・・・」と、希望を誘うための笑みを浮かべているのである。
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