これから、ますます生きにくくなることが予想されるこの社会。
国の財政・社会保障・環境破壊・各種の格差など、問題や課題に事欠かない現代において、
学歴だけでは食べていけなくなっているのは、近年の就職難が証明している。
そんな時勢では、学歴+αが求められる。
そして、多くの若者が、その“+α”を手に入れるため、自己啓発に勤しむ。
独立起業を検討したり、手に職をつけることを考えたり、公的資格の取得に挑戦したりと。
「その仕事をやるのに、特別な資格がいるんですか?」
たまに、そんな質問をされることがある。
ある意味とても難しいような、またある意味でとても簡単なような・・・やはり、世の人からみると、不可思議な仕事なのだろう。
・・・答えは、「No」
特別な資格はいらない。
会社法人レベルで資格免許が必要な部分はあるけど、個人的なことでの必須資格はない。
(車の運転免許がないと仕事にならないけど、“できない”わけではないし、根性とか忍耐力は公的資格でもなんでもないしね。)
とある病院の一室。
亡くなったのは、30代の女性。
死因は、癌による衰弱死。
腐敗進行が早く、その顔に、生前の面影はなかった。
その全身は、腐敗し膨張。
生前の何倍もの大きさに膨らんでいた。
体表には水疱が発生。
膨らみかけた水風船のように、黄色い体液がたまっていた。
それが敗血症であることは、一目瞭然だった。
着ているパジャマ各所には、黄色い体液シミ・・・
水疱や破れて、腐敗体液が染み出していた。
それは、人間が人間じゃなくなっていくプロセスのひとつ・・・
しかし、遺族の前で遺体を“汚いもの扱い”するのはタブー。
それでも、故人の身体は、衛生上も作業上も、とても素手で触れるようなものではなく・・・
私は、ラテックスグローブを両手に装着し、遺体をストレッチャーに移動する準備を整えた。
体表は脆弱・・・
不用意に触れると、表皮がズレ剥がれる。
身体もまた脆弱・・・
指に少し力を入れただけで、低反発ウレタンのようになった肉は簡単に陥没する。
そんな身体が、大きく膨張・・・
故人の身体を抱え上げることなんて、容易にできるものではなかった。
そんな遺体の変容に、遺族は驚愕した様子。
「どんな遺体でも、こうなるんですか?」と、しきりに訊いてきた。
「そうです・・・亡くなると皆こうなるんです・・・」と答えてあげたかったのは山々だったが、そんなウソはつけず・・・
しかしまた、気の利いた言葉も返せず・・・
私は、黙って作業を進めるしかなく・・・
結局、故人は、歯止めのかからない腐敗進行と汚れたパジャマと共に防水シーツに梱包され、そして、無言の退院をしたのだった。
故人を自宅に連れ帰ると、部屋には、遺体を安置するめための布団が用意されていた。
しかし、故人をこのまま布団に寝かせていても、その身体は収拾がつかなくなる一方であることは明白。
私は、この変容は、身体を冷凍しないかぎり止められない旨を説明。
そして、早めに納棺して静かに火葬のときを待つのが無難であることを伝えた。
納棺式は、“儀式”というよりも、“作業”として行われた。
まるで、危険物でも封じ込めるかのように・・・
故人の部屋に集ったのは家族だけで、それ以外の親戚や友人達の同席は許さず。
“見世物になりかねない”との遺族の危惧と、私が経験則ですすめた結論だった。
そして、本来なら、納棺後でも故人の顔だけは見られるようにしてあるのだが、ここでは、故人の顔に面布をかけて、外から見えないようにして蓋を閉じたのだった。
とある警察署の霊安室。
亡くなったのは、20代の男性。
死因は、無謀運転による交通事故死。
頭部は破壊され、その顔に、生前の面影はなかった。
他にも不自然死遺体が並ぶ霊安室には、故人が放つ血生臭いニオイが充満。
そんな冷気漂う霊安室に、故人は、ステンレス台をベッド代わりに、ビニールシートを布団代わりにして横たわっていた。
ビニールシートをめくると、検死の終わった痛々しい身体が露に。
その腕や脚は不自然に湾曲し、打撲痕も多数。
特に、顔面から頭部は激しく損傷しており、“即死”であったことは容易に想像できた。
その遺体を搬送車に乗せて帰宅させる役目を負っていた私は、故人を防水シーツに包むことに。
両手にラテックスグローブを装着して、作業を開始。
動かすたびに“グズグズ”と奇怪な軋音をたてる遺体と手につく血に戸惑いながら、頭の先から足の先までスッポリ隠れるように包みこんだ。
そうして後、故人はストレッチャーに乗せられ、無言のまま警察署から放免されたのだった。
故人を自宅に連れ帰ると、遺体を安置するめための布団が用意されていた。
しかし、“安らかな死に顔”を完全に失った故人を“安置”する術はなく・・・
また、故人の梱包を解くにあたっては、多難が予想され・・・
結局のところ、故人を布団に寝かせたところで、その損傷を人目に晒すのみであることが容易に想像でき・・・
私は、納棺を早めに行うことと、ドライアイスを多めに入れることを遺族にすすめた。
納棺式は、“儀式”というよりも、“作業”として行われた。
まるで、危険物でも封じ込めるかのように・・・
故人の部屋に集ったのは家族だけで、それ以外の親戚や友人達の同席は許さず。
“見世物になりかねない”との遺族の危惧と、私が経験則ですすめた結論だった。
そして、本来なら、納棺後でも故人の顔だけは見られるようにしてあるのだが、ここでは、故人の顔に面布をかけて、外から見えないようにして蓋を閉じたのだった。
死体には、人々の好奇心をくすぐる何かがあるのだろうか・・・
死体は、見世物になりやすい。
神経過敏なのかもしれないけど、私は、この仕事をしていて、死体に対する好奇の視線・・・
悲哀・同情・哀悼の意といった潤いのあるものではなく、単なる“恐いもの見たさの乾いた好奇心” を感じることが少なくない。
その死よりも、好奇の視線に晒されることの方に気の毒さを覚えることがある。
自殺遺体・損傷遺体・腐乱遺体などの変異遺体の場合は特に。
しかしまた、自分自身が、そんな好奇心を持ってしまうこともある。
残念ながら、そこには、死体にまとわりつくウジやハエと大差ない自分がおり、“自分自身が、死体を見世物にしてしまう”という自己矛盾を抱えている自分がいるのである。
哀悼の意を好奇心が勝るとき、死体は見世物になる。
しかし、本来、死体は見世物ではない。
結局のところ、後の自分なのである。
そして、私は、見世物になりたくない。
自分の屍を見世物にされたくないと思っている。
だから、私は、自己矛盾を抱えながらも、自分の屍と扱う遺体を重ねて、“死体を見世物にしない”ことに軸足を置いた仕事をしている。
もちろん、これが、正しいことかどうかはわからない。
中には、「多くの人に自分の屍を見てほしい」「多くの人に家族の亡骸を見てほしい」という人もいるかもしれないし、“価値観の押し売り”なっている可能性も否定できないから。
また、習慣習俗として継承されている葬送儀礼の一部を否定することになっているかもしれないから。
ただ、自分の頭で何も考えず、自分の心を何も動かさないでいては、この仕事を自分がやっていることの意味が見出せない・・・
・・・深く考える必要のないことかもしれないけど、そう思う。
自己矛盾の、こっち側とむこう側を行ったり来たりするのが生きること・・・
そして、自己矛盾の、こっち側と向こう側を行ったり来たりしなければならないのが人生・・・
その中にあっても、私は、他人の死を、悼むことができないまま。
この仕事のことも、“ビジネス”と割り切ったまま。
だけど、この仕事をやるうえでは、わずかでも、故人の遺志や遺族の立場を慮ることのできる心と頭を持ち合わせていたいと思っている。
小さなことだけど、それが、この仕事をやるうえで大切な資格かもしれないから。
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国の財政・社会保障・環境破壊・各種の格差など、問題や課題に事欠かない現代において、
学歴だけでは食べていけなくなっているのは、近年の就職難が証明している。
そんな時勢では、学歴+αが求められる。
そして、多くの若者が、その“+α”を手に入れるため、自己啓発に勤しむ。
独立起業を検討したり、手に職をつけることを考えたり、公的資格の取得に挑戦したりと。
「その仕事をやるのに、特別な資格がいるんですか?」
たまに、そんな質問をされることがある。
ある意味とても難しいような、またある意味でとても簡単なような・・・やはり、世の人からみると、不可思議な仕事なのだろう。
・・・答えは、「No」
特別な資格はいらない。
会社法人レベルで資格免許が必要な部分はあるけど、個人的なことでの必須資格はない。
(車の運転免許がないと仕事にならないけど、“できない”わけではないし、根性とか忍耐力は公的資格でもなんでもないしね。)
とある病院の一室。
亡くなったのは、30代の女性。
死因は、癌による衰弱死。
腐敗進行が早く、その顔に、生前の面影はなかった。
その全身は、腐敗し膨張。
生前の何倍もの大きさに膨らんでいた。
体表には水疱が発生。
膨らみかけた水風船のように、黄色い体液がたまっていた。
それが敗血症であることは、一目瞭然だった。
着ているパジャマ各所には、黄色い体液シミ・・・
水疱や破れて、腐敗体液が染み出していた。
それは、人間が人間じゃなくなっていくプロセスのひとつ・・・
しかし、遺族の前で遺体を“汚いもの扱い”するのはタブー。
それでも、故人の身体は、衛生上も作業上も、とても素手で触れるようなものではなく・・・
私は、ラテックスグローブを両手に装着し、遺体をストレッチャーに移動する準備を整えた。
体表は脆弱・・・
不用意に触れると、表皮がズレ剥がれる。
身体もまた脆弱・・・
指に少し力を入れただけで、低反発ウレタンのようになった肉は簡単に陥没する。
そんな身体が、大きく膨張・・・
故人の身体を抱え上げることなんて、容易にできるものではなかった。
そんな遺体の変容に、遺族は驚愕した様子。
「どんな遺体でも、こうなるんですか?」と、しきりに訊いてきた。
「そうです・・・亡くなると皆こうなるんです・・・」と答えてあげたかったのは山々だったが、そんなウソはつけず・・・
しかしまた、気の利いた言葉も返せず・・・
私は、黙って作業を進めるしかなく・・・
結局、故人は、歯止めのかからない腐敗進行と汚れたパジャマと共に防水シーツに梱包され、そして、無言の退院をしたのだった。
故人を自宅に連れ帰ると、部屋には、遺体を安置するめための布団が用意されていた。
しかし、故人をこのまま布団に寝かせていても、その身体は収拾がつかなくなる一方であることは明白。
私は、この変容は、身体を冷凍しないかぎり止められない旨を説明。
そして、早めに納棺して静かに火葬のときを待つのが無難であることを伝えた。
納棺式は、“儀式”というよりも、“作業”として行われた。
まるで、危険物でも封じ込めるかのように・・・
故人の部屋に集ったのは家族だけで、それ以外の親戚や友人達の同席は許さず。
“見世物になりかねない”との遺族の危惧と、私が経験則ですすめた結論だった。
そして、本来なら、納棺後でも故人の顔だけは見られるようにしてあるのだが、ここでは、故人の顔に面布をかけて、外から見えないようにして蓋を閉じたのだった。
とある警察署の霊安室。
亡くなったのは、20代の男性。
死因は、無謀運転による交通事故死。
頭部は破壊され、その顔に、生前の面影はなかった。
他にも不自然死遺体が並ぶ霊安室には、故人が放つ血生臭いニオイが充満。
そんな冷気漂う霊安室に、故人は、ステンレス台をベッド代わりに、ビニールシートを布団代わりにして横たわっていた。
ビニールシートをめくると、検死の終わった痛々しい身体が露に。
その腕や脚は不自然に湾曲し、打撲痕も多数。
特に、顔面から頭部は激しく損傷しており、“即死”であったことは容易に想像できた。
その遺体を搬送車に乗せて帰宅させる役目を負っていた私は、故人を防水シーツに包むことに。
両手にラテックスグローブを装着して、作業を開始。
動かすたびに“グズグズ”と奇怪な軋音をたてる遺体と手につく血に戸惑いながら、頭の先から足の先までスッポリ隠れるように包みこんだ。
そうして後、故人はストレッチャーに乗せられ、無言のまま警察署から放免されたのだった。
故人を自宅に連れ帰ると、遺体を安置するめための布団が用意されていた。
しかし、“安らかな死に顔”を完全に失った故人を“安置”する術はなく・・・
また、故人の梱包を解くにあたっては、多難が予想され・・・
結局のところ、故人を布団に寝かせたところで、その損傷を人目に晒すのみであることが容易に想像でき・・・
私は、納棺を早めに行うことと、ドライアイスを多めに入れることを遺族にすすめた。
納棺式は、“儀式”というよりも、“作業”として行われた。
まるで、危険物でも封じ込めるかのように・・・
故人の部屋に集ったのは家族だけで、それ以外の親戚や友人達の同席は許さず。
“見世物になりかねない”との遺族の危惧と、私が経験則ですすめた結論だった。
そして、本来なら、納棺後でも故人の顔だけは見られるようにしてあるのだが、ここでは、故人の顔に面布をかけて、外から見えないようにして蓋を閉じたのだった。
死体には、人々の好奇心をくすぐる何かがあるのだろうか・・・
死体は、見世物になりやすい。
神経過敏なのかもしれないけど、私は、この仕事をしていて、死体に対する好奇の視線・・・
悲哀・同情・哀悼の意といった潤いのあるものではなく、単なる“恐いもの見たさの乾いた好奇心” を感じることが少なくない。
その死よりも、好奇の視線に晒されることの方に気の毒さを覚えることがある。
自殺遺体・損傷遺体・腐乱遺体などの変異遺体の場合は特に。
しかしまた、自分自身が、そんな好奇心を持ってしまうこともある。
残念ながら、そこには、死体にまとわりつくウジやハエと大差ない自分がおり、“自分自身が、死体を見世物にしてしまう”という自己矛盾を抱えている自分がいるのである。
哀悼の意を好奇心が勝るとき、死体は見世物になる。
しかし、本来、死体は見世物ではない。
結局のところ、後の自分なのである。
そして、私は、見世物になりたくない。
自分の屍を見世物にされたくないと思っている。
だから、私は、自己矛盾を抱えながらも、自分の屍と扱う遺体を重ねて、“死体を見世物にしない”ことに軸足を置いた仕事をしている。
もちろん、これが、正しいことかどうかはわからない。
中には、「多くの人に自分の屍を見てほしい」「多くの人に家族の亡骸を見てほしい」という人もいるかもしれないし、“価値観の押し売り”なっている可能性も否定できないから。
また、習慣習俗として継承されている葬送儀礼の一部を否定することになっているかもしれないから。
ただ、自分の頭で何も考えず、自分の心を何も動かさないでいては、この仕事を自分がやっていることの意味が見出せない・・・
・・・深く考える必要のないことかもしれないけど、そう思う。
自己矛盾の、こっち側とむこう側を行ったり来たりするのが生きること・・・
そして、自己矛盾の、こっち側と向こう側を行ったり来たりしなければならないのが人生・・・
その中にあっても、私は、他人の死を、悼むことができないまま。
この仕事のことも、“ビジネス”と割り切ったまま。
だけど、この仕事をやるうえでは、わずかでも、故人の遺志や遺族の立場を慮ることのできる心と頭を持ち合わせていたいと思っている。
小さなことだけど、それが、この仕事をやるうえで大切な資格かもしれないから。
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