五月に入り、色とりどり、街や野山のあちらこちらでツツジが満開の盛りを迎えている。
そんな中、長~いGWが終わった。
懐が寒くなっている人、渋滞や人ごみに疲れた人、飲み過ぎ食べ過ぎで太った人など、様々な人がいそう。
とにもかくにも、久しぶりに政府や自治体による規制らしい規制がないGWで、多くの人が、その ひと時を楽しんだことだろう。
そして、そこでは、多くの“笑顔の想い出”が生まれたことだろう。
今は気づいていないかもしれないけど、この先、それは、“人生の宝物”になるもの。
だから、次の楽しみを追うばかりではなく、これはこれで、大切に、大切に、心にしまっておいた方がいい。
先々、自分を癒し励ましてくれることがあるかもしれないから。
併せて、今日から再び仕事の人も多いだろう。
家族から解放されてホッとしている人、再びの労苦に向かって憂鬱になっている人、様々か。
憂鬱になっている人にとっては、キツいところ。
そのうちに慣れてくるのだろうけど、とりわけ、新入社員や新入学生などは、五月病にならなければいいけど。
現実逃避からくる退職・退学等の間違いが起こって、私のような人生を歩くことになったら、目も当てられないからね。
私の場合、GW明けとか、まったく関係なく、毎朝、キツい思いをしている。
毎朝、起床前の数回、ほんの数秒から十数秒なのだが、「波」というか「発作」というか、胸の内を得体の知れないものが襲ってくる。
鬱にも慣れたこの頃は、それが「来そう」「来てる」「過ぎた」というのが自分でもわかる。
うまく言葉では言い表せないけど・・・
奈落に突き落とされるような恐怖感、暗闇を彷徨うような不安感、追い詰められるような切迫感、動悸がするほどの緊張感、息をするのもイヤになるくらいの虚無感・・・すべて自分の中で起こっていることながら、身の危険を感じるときもある。
あくまで、個人的な憶測だけど、ビルからの飛び降りや電車への飛び込み等、衝動的な自殺の場合、当人は、この症状に見舞われているときが多く、瞬間的な感情に動かされてしまうのではないかと思う。
「自殺があった部屋なんですけど・・・」
取り引きのある不動管理会社から、現地調査の依頼が入った。
日本人が自殺する場合、「縊死」、つまり、首をくくることが多いのだが、自刃の場合は“血の海”になっていることも多く、念のため、私は、そのことを質問。
すると、担当者は、
「“首吊り”です・・・」
と、声のトーンを落として返答。
発見に至った経緯や汚染・異臭の具合も訊きたかったけど、それ以上、担当者の気分を沈ませては申し訳なかったので、“現場に行けばわかること”と、私は、質問の言葉を飲み込んだ。
希望された調査日は、それから数日後。
訪れた現場は、閑静な住宅地に建つアパート。
軽量鉄骨構造で、「マンション」とは呼ばないものの、「アパート」と呼ぶには高級。
外観もきれいで、同地域の木造アパートに比べると、間違いなく家賃は高いはずだった。
早めに到着した私は、建物の前で待機。
すると、程なくして、二人の男性が現れた。
一人は、電話で話した管理会社の担当者。
そして、もう一人は中年の男性で、故人の遺族(以降「男性」)。
落ち着きのない物腰と、怯えたような表情から、故人とは、かなり近い血縁者であることが伺えた
通常の孤独死でも充分ショッキングなのに、自殺となると、男性も、心中、穏やかではいられないはず。
通常の精神状態ではなく、デリケートな状態、ナーバスになっていても不思議ではない。
私は、前もって、遺族が来ることを知らされておらず。
だから、そんな男性を前に、私は、やや緊張。
どんな表情で、どんな物腰で、どんな言葉遣いで接すればいいのか、ない知恵を絞って思案した。
現場の状況については、「担当者に会った時に訊けばいい」と考えていた私。
しかし、男性が一緒となると、なかなか訊きにくい。
結局、死後どれくらいで発見されたのか、汚染や異臭はどんな具合か、状況は不明のまま、短く挨拶を済ませただけで、我々は部屋の方へ。
玄関前に着くと、担当者は、カバンから鍵を取り出し、何の躊躇いもみせず、ドアの鍵穴に差し込んだ。
部屋が凄惨な状態になっている場合は、一番先に私が入ることが多い。
もっと言うと、私しか入らないことが多い。
しかし、ここでは、鍵を開け、ドアを引いた担当者は、迷うことなくそのまま入室。
次いで男性も。
中が汚い場合は土足のまま、またはシューズカバーをつけて入ることが多いのだが、二人とも玄関で靴を脱いで。
部屋を見るまでもなく、もう、それだけで「軽症」であることが判明した。
部屋に入ると、室内に家財はなく、空っぽ。
また、汚染らしい汚染もなく、異臭らしい異臭もなし。
というか、これから誰かが入居してくるのはないかと思われるくらい、かなりきれいな状態。
事情を知らずに一見すると、部屋を探している人を不動産会社が案内しているのかと見まがうくらいの画で、私は、逆の意味で驚いた。
間取りは1DK。
「この辺です」
部屋に入ると、担当者は、そう言って、遺体があった辺りを指さした。
そして、
「床に、少し体液がついていたようですけど、〇〇さん(男性)が掃除されたそうです」
と説明。
残っていた家財も男性達遺族が片付けたようだった。
「ところで、私は、何をやれば・・・」
特段の汚染も異臭もない部屋で、自分がやるべき仕事を計りかねた私は、そう質問。
「床の清掃と部屋の消毒です!」
担当者は、男性に気遣う素振りもみせず即答。
「大家さんが強く希望されているものですから」
と、言葉を続けた。
しかし、「掃除」と言っても、既に床はピカピカ、「消毒」と言っても、部屋は充分に清潔な感じ。
しかし、大家は、それを強く希望。
担当者は、更に言葉を続け、
「その後、床と天井壁のクロスは貼り替えます」
「水周りの設備をどうするかは検討中です」
と、大家の“要望”・・・というか、”命令”を代弁。
私は、内心で、“どうせ貼り換えるなら、清掃も消毒もいらないんじゃないかな・・・”とも思わなくもなかったが、それを口にしても自分の得にはならないので、黙って聞き流し。
男性も、故人の身体あったところの床を見つめながら、黙ったまま反論もせず。
この流れからすると、「向こう〇年間、通常家賃の〇%を補償していただきます」といった家賃保証の問題がでてくるのも時間の問題だった。
担当者としては、この痛ましい現実に対して、いちいち男性に気遣って、その心情を汲んでいては仕事にならない。
親切のつもりで感情を移入すると、それが、精神的な負担を重くすることもある。
担当者は、横柄な態度をとるとか、偉そうな口調で話すとか、そんなことはなく、男性に対する礼儀をわきまえつつも、男性の顔色をうかがうことなく、一方的、且つ、やや事務的に大家の意向を伝えていった。
同時に、私は、大家の心情も察した。
大家は、ありきたりのアパートを建てて、ありきたりの家賃を得るより、付加価値の高いアパートを建てて、地域相場より高い家賃を得ることを選択したのだろう。
もしくは、結構な資産家か。
どちらにしろ、アパートへの愛着もあれは思い入れもあって当然。
しかも、問題は、この部屋だけのことでおさまる保証はない
「気持ち悪い」と、他の部屋の住人が出ていく心配もある。
「あそこのアパートで自殺があった」等と、一部屋だけの問題ではなく、アパート全体が風評被害に遭って、他の部屋まで家賃を下げなければならなくなる可能性だって充分にある。
ただの孤独死なら、ある種の不可抗力な出来事でもあるが、事情はどうあれ、あくまで自殺は「故意」。
大家は、その事実に対して、大きな嫌悪感を抱き、強い憤りを覚えていたのではないかと思われ、そんな気持ちを考えると、遺族に対する要求は理不尽なものとも思えなかった。
成り行きで、私は、その場にいたのだが、担当者と遺族がやりとりする中では無用の存在。
極めてデリケート、かつ故人や男性のプライバシーに関わるような話だから尚更のこと。
しかし、そこに、「用は済んだので、私は引き揚げます」と口を挟めるような雰囲気はなく、結局、黙ってその場に滞在。
そして、マジマジと見つめたわけではなかったが、担当者が何かを言うたびに、私のチラチラとした横目視線は、自然と遺族の方へ。
無表情の中にも滲み出る心情があり・・・
下衆の野次馬根性がありながらも、独善的な感傷がありながらも、私の頭は、その心情を読んでいった。
亡くなったのは、男性の息子。
年齢を訊く立場にはなかったけど、男性の年齢からすると、故人は若かったはず。
若くして逝った故人の苦悩はいかばかりだったか・・・
残された遺族の嘆き悲しみはいかばかりか・・・
抱えきれない苦悩を抱え、負いきれない重荷を負い・・・
倒れないでいるだけでやっと、潰されないでいるだけでやっと・・・
生きているだけでやっと、やっと生きている・・・
担当者の口から出る言葉に対して、男性は、短い質問こそすれ反論はせず。
反論したいことがなかったわけでもなく、大家の言いなりにもなりたくなかったはずだけど、故人がやってしまったことを大家の立場になって考えると言い返す言葉も見つからなかったのだろう。
私の目には、床に視線を落としたまま黙っている男性が、
「息子はそんなに悪いことをしたのだろうか・・・」
「これだけ人に迷惑をかけてるんだから、やはり、悪いことをしたんだろうな・・・」
と、無理矢理、自分を納得させ、
そしてまた、
「育て方が悪かったんだろうか・・・」
「助けてやる方法はなかったんだろうか・・・」
と、深く悔やんでいるように見えた。
そして、私は、そんな男性の姿に、何も及ぼせない過去を痛感させられ、男性にとって、何の役にも立たない哀れみや同情心をともないながら、ただただ小さな溜め息をつくのみだった。
「自殺」というものは、痛ましいことであり、悲しいことであり、憐れむべきことかもしれない。
しかし、往々にして、「自殺」は悪行とみなされ、故人だけでなく遺族まで罪人のような扱いを受ける・・・
やったのは故人で、遺族ではないのに、いわば、故人の身代わりとして、重荷を背負わされる。
同時に、同じ、一人の死でも、“自殺”となると、同情心はなかなか湧いてこず、疑義や咎める気持ち、場合によっては嫌悪感や恐怖感が沸いてきやすい。
特に他人は。
これも、また現実。
正邪・善悪で片付けることができない中でうごめく悩ましい現実。
しかし、これを「冷酷」と非難することはできない。
もともと、生存本能をもつ人間は、“死”に対して嫌悪感や恐怖感を持っているものだし、自ら命を絶つことに対して、更に強い感情を抱くことも自然なことだと思われるから。
私は、これまで、遺族・利害関係者・他人に関係なく、「自殺」という事象によって甚大な害を被った人々の悲哀や苦悩もたくさん目の当たりにしてきた。
そして、残念ながら、これからも、自殺現場に携わることが少なからずあるだろう。
それでまた、己のメンタルにダメージを受けることもあるだろう。
また、百歩譲って、それで故人は救われるのかもしれないけど、残された人は、誰一人、幸せにはならない。
それどころか、未来に向かって持っている、幸せに生きる権利さえも奪いかねない。
だから、故人を責める気持ちになれないのも事実だけど、私は、決して「自殺」というものを肯定しない。
生きることは権利なのか、それとも義務なのか・・・
不幸の底にいると義務のように思えてしまうこともあるけど、実のところは権利。
行使していいもの。
また、死ぬことは権利なのか、それとも義務なのか・・・
絶望の淵にいると権利のように思えてしまうこともあるけど、実のところは義務。
履行されなければならないもの。
つまるところ、“生きることは権利”であり“死ぬことは義務”であるのが、本来のあり方のように思う。
生きる義務の履行中は死ぬ権利は行使できず、生きる権利を行使している中でも死ぬ義務は履行される・・・つまり、いつまでも生きていたくても、いつか死ななければならないのだから。
本来、権利である“生”を義務として履行せず、本来、義務である“死”だけを権利として行使するのは、虫が良すぎやしないだろうか・・・
しかし、私は、今、義務的に生きてしまっている。
程度に差はあれど、生きにくくなる一方の現代社会には、似たような人も少なからずいそう。
「俺には、俺が生きる権利を奪う権利はないよな・・・」
「死ぬことは、義務として定められているんだから、そんなに、生きることを恐れる必要はないのかもな・・・」
私は、混乱している頭でこの文を打っている自分に、そう語り掛けている。
そうして、やっとの想いで、明日への命を繋いでいるのである。