“生”と“死”は常に隣り合わせ、表裏一体。
病気、事件、事故、戦争、天災などで、日本や世界のあちらこちらで、毎日毎日、多くの命が失われている。
そして、それを伝えるニュースも日常に溢れている。
しかし、生きている我々は、“死”を縁遠いもののように錯覚している。
それが生存本能というヤツなのかもしれないし、そうしないと前向きに生きられないのかもしれない。
そうは言っても、“死”は、病人や高齢者だけにかぎったことではなく誰にでも訪れる。
ある日突然か、自分が想像しているより早いか、自分が覚悟しているより遅いか、たったそれだけの違いがあるだけで否が応でも。
一般的には、健康長寿をまっとうし、終活をキチンと済ませた上で“コロリ”と逝くのが理想と言えようか。
ただ、多くの人が思い知らされているように、人生なんてものは、そんな生易しいものではない。
人生はもちろん、死期も死に方も、なかなか思い通りにはいかない。
そんな荒道を、どれだけ頑張って、どれだけ辛抱して歩いていくか、そして、どれだけ真剣に最期に向かっていくか、それが“生”の課題なのかもしれない。
遺品整理の相談が入った。
声から判断するに、電話の主は老年の女性。
「身内が亡くなったので、部屋の家財を処分したい」とのこと。
そうなると、まずは、現地調査が必要。
その上で、見積金額と作業内容を提案することになる。
私は、そのことを説明し、私と女性 双方の都合を突き合わせて、現地調査の日時を定めた。
約束の日、私は、教わった住所に車を走らせた。
到着した現場は、街中に建つ小規模の賃貸マンション。
広めの通りに面した一階は店舗、二階から上が居住用
必要に応じてメンテナンスは入れていたようだったが、外壁の仕様は時代遅れ。
地味な色合いの塗装も「シック」というより「安っぽい」といった感じ。
そろそろ寿命がくることを考えた方がよさそうな老朽建築だった。
建物の前で待っていると、約束に時間に合わせて依頼者もやってきた。
想像通りの老年の女性で、似たような年恰好の女性二人も同行。
聞くところによると、三人は姉妹で、亡くなったのは四人姉弟の末弟とのこと。
老齢ながらも、皆で故人(弟)の後始末のために奔走しているよう。
三人とも丁寧な物腰で、疲れた様子や不満げな表情は一切なく、三姉妹の関係が良好であることはもちろん、四姉弟の関係も良好であったことが伺えた。
現場は、二階の一室。
我々は建物の裏手に回り、薄暗い内階段を上へ。
建物は五階建だったが、エレベーターはなし。
二階だったからよかったものの、もっと上だったら女性達にはキツかったかも。
それでも、私は、女性達の足腰を気遣って、ゆっくりと階段を上がった。
目的の部屋につくと、女性の一人がバッグから鍵を取り出し開錠しドアを引いた。
玄関前の通路も薄暗かったが、明けたドアの先も薄暗。
主がいなくなった部屋のため どことなくヒンヤリとした空気が感じられたものの、電気は止められておらず。
私は、女性達に先に入ってもらい、蛍光灯をつけてもらった。
そして、「失礼しま~す」と、玄関で靴を脱いだ。
間取りは1DK。
玄関を入ってすぐのところが広めのDK。
DKの奥が六畳の和室でベランダはなし。
天井・壁はクロス貼ではなく塗装。
柱も剥き出しで、押入の戸は襖。
障子こそなかったが、窓はサッシではなく旧式の鉄枠窓だった。
玄関からむかって突き当りの窓辺にキッチンシンク。
玄関から右に折れる向きに進んだところが浴室・洗面所・トイレ。
バス・トイレ・洗面所は別々で、それぞれスペースにゆとりあり。
ただ、その設備はかなり古く、浴室はタイル貼で浴槽は昔ながらのバランス窯。
洗面台も旧式。
トイレもタイル貼で、便器は骨董級の和式だった。
言葉は悪いが、その古クサイ仕様が物語る通り、この建物は「築五十年余」とのこと。
そして、故人は、それに近いくらいの年月をここで生活。
他の部屋は住人が入れ替わるたびに、ちょっとした修繕は施されてきたようだったが、現場の部屋は、長年に渡って、故人が“住みっ放し”の状態。
時折は必要最低限の修繕をしてきたものの、他の部屋と同レベルのことはできず。
結果として、この部屋は、時間が止まってしまったかのようなレトロな佇まいとなっていた。
それだけの年数を暮らしていたわけだから、家財の量は多め。
日常生活で使うモノが各所に残されていた。
ただ、一般の部屋と比べて、この部屋の様子は違っていた。
部屋の隅々には、いくつものゴミ袋や段ボール箱が積み重ねられ、また、書籍や雑誌の類も、一定量がヒモで括られ山積みに。
それなりの生活用品は手近なところに置いてあったものの、まるで、どこかから引っ越してきたばかり、もしくは、どこかへ引っ越す直前のように整然としていた。
その訳は、“終活”。
生前、故人は終活に着手していた。
そして、そのキッカケになったのは・・・
数年前、故人の身体に掬っていた病気が発覚。
ちょっとした体調不良が発端だったが、当初、故人は「一時的なものだろう」「そのうちよくなるだろう」と甘くみていた。
しかし、その期待に反して状態は改善せず。
数か月後、重い腰を上げて病院を受診。
精密検査の結果、重い病気にかかっていることが判明した。
その後、入院となり手術も受けた。
術後は、軽等級ながら障害者手帳を受ける身体に。
それでも、退院後は元の生活に復帰。
当初は慣れない身体に悪戦苦闘したようだったが、「人に迷惑をかけたくない」「我が家で気楽に暮らしたい」との一心で、一人暮らしを継続。
そんな生活は、相当に難儀なものだったのだろうけど、本望を貫くべく、少々の無理をしてでもそれに自分を慣れさせていったことが想像された。
しかし、時は無情なもので、病に対する敗色は濃厚に。
少しずつではありながら身体は衰弱の一途をたどっていき、ただちに入院しなければならない程ではなかったものの、「元気」というには程遠い状態に。
そういう状況を心配した女性達(姉達)は、「私達もできるだけのサポートをするから」と、介護施設に入ることを提案。
しかし、故人は、「住み慣れた部屋で暮らしたい」といった願望が強く、女性達の提案に感謝はしつつも受け入れることはせず。
身体的には施設に入った方が楽に決まっていたが、“幸せ”とか“楽しさ”といったものは他人が測れるものではない。
結局、日常生活に大きな支障がでるようなら訪問看護・訪問介護を利用するということで姉弟の話し合いは決着した。
しかし、女性達には、「本人が望むのだから、それでいい」とは言い切れない不安もあった。
それは、孤独死。
若くない上、病弱である身体での一人暮らしでは、充分に起こり得る。
そして、場合によっては、別次元の問題を引き起こしかねない。
故人(弟)の意思を尊重してやりたいのは山々だったが、それは、目を背けることができない現実でもあった。
本音のところでは、そんな縁起でもないこと話したくはなかったけど、女性達姉弟は、そのことについても話し合った。
それは、女性達の情愛から出たもの。
だから、故人にとって耳障りで不快な話題ではなかったはずだったが、ただ、淋しく切ないものではあったかもしれなかった。
しかし、結局のところ、故人にかぎらず、“死”に抗える人間はいないわけで、それについて故人も反論はできず。
結論が出ない中でも、最期と真剣に向き合う覚悟を決めざるを得ないことは、皆にとって暗黙の認識となった。
意外にも、故人が訪問介護を利用するようになったのは、それからすぐのこと。
かかりつけの病院に相談し、故人は、テキパキとその手筈を整えた。
女性達は「人の世話にはなりたがらないから、しばらく先のことになるのではないか」と考えていたようだったが、やはり、故人の頭からは「孤独死」という不安が離れなかったよう。
話の経緯からすると、「死を恐れて」というより「人に迷惑を掛けることを恐れて」といったことが理由だと思われた。
そして、これも、最期にできる、女性達に対する故人の思いやりの一つだったのかもしれなかった。
「墓に衣は着せられぬ」
訪問介護を受け始めたのと同時に、故人は、“終活”を開始。
遺言書を書き、保有する財産や貴重品類もわかりやすく整理。
また、少しずつでも、日常生活で不要な家財を処分することに。
生活に必要なモノとそうでないモノを分別。
要るモノは最小限に、要らないモノは最大限に、ゴミ袋や段ボール箱に詰めていった。
これもまた、最期にできる、女性達に対する思いやりの一つだったのかもしれなかった。
それから、しばらくの月日が経ち・・・
ある日の夜、故人から女性に電話が入った。
「このところ、一段と具合が悪い」
「食事も満足に摂れなくなってきた」
「今すぐどうこうはないにせよ、“そろそろ”かもしれない・・・」
それは、いつになく弱気な言葉で、ある種の覚悟を胸に抱かせるものだった。
覚悟していたものの、“別れ”が現実味を帯びてくると、女性は大きく動揺。
そして、他の姉妹にも連絡をとって、翌日早々に故人宅を訪問。
ただ、訪問介護のヘルパーが世話してくれているお陰か、心配していた程には衰弱しておらず。
また、部屋も荒れておらず。
しかし、どちらにしろ、一人暮らしの限界が間際まで近づいていることは明らか。
案の定、かかりつけの病院に診てもらうと、近日中に入院しなければならなくなった。
そして、入院後、幾日かして、誰もが、いずれまた自宅に戻れることを信じて疑っていなかった中で、故人は静かに息を引き取ったのだった。
晩年の故人は、諦念の想いを自分に言い聞かせるように「仕方がない・・・」と溜息をつくことが多かったそう。
「どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか」
「何の因果? 何かの罰?」
降りかかった災難に対する理由を求めたのか・・・
が、そんなことわかるはずはない・・・
ただ、現実を受け入れるしかない・・・
そうやってたどり着いた想いを「仕方がない・・・」という言葉に集約させていたのだろう。
行年は六十代半ば。
平均寿命と比べると、まだまだ若い。
良縁に恵まれなかったのか悪縁しかなかったのか、生涯独身で妻子はなし。
独り身の身軽さからか、家庭持ちの人に比べて、自由に使える金は多かったよう。
両親はとっくに他界し、最も近い血縁者は女性達三人の姉。
女性達はそれぞれに家庭を持っていたが、故人は、盆暮の贈物や土産物をはじめ、幼少期から大人になるまで甥や姪にも小遣いを渡し、何かにつけ当人達が喜びそうなモノを買い与えてくれたそう。
自分に家庭がない分、女性達家族のことを大切にしてくれ、当の故人も嬉しそうにしていたそう。
また、常々、「姉さん達には迷惑かけないようにしないとね・・・」と言っており、健康にも気をつかっていた。
酒は飲まず、タバコも吸わず。
食生活が偏らないよう外食を控え、適度な運動を心掛け、適正体重を維持することも怠らなかった。
それでも、大病を患ってしまった。
皮肉なことに、節制していたからといって病気に罹らないわけではない。
不摂生な人がいつまでも元気でいることもよくある。
「運命」「宿命」「摂理」・・・人知を超えたところにその理由があるのかもしれないわけで、最新の医療や科学をもってしても人間ができることは小さい。
よく「現実を受け入れるしかない」と言うが、「自分を任せるしかないない」といった方が合っているかもしれない。
そのときの故人の心境を想い測ると、溜め息がでるような同情心と、他人事にできないゆえの切なさと淋しさが湧いてきた。
そこは、病気を患った故人が一人で暮らしていた部屋。
衰えた身体で不便なことも多かったことだろう。
身体に痛みを、心に傷みを覚えたことも少なくなかっただろう。
そんな中、一人きりの部屋で、不安や恐怖心に苛まれたか、悪事や不出来を悔いたか、想い出や懐かしさに笑みを浮かべたか・・・
遠くない将来に訪れるであろう最期に思いを巡らせたことは一度や二度ではなかったはず。
消したくない生活感と消さなければならない生活感を対峙させながら整理を進めた部屋・・・
雑多なモノが詰められたゴミ袋、荷物が入れられたダンボール箱、括られた書籍・・・
それは、思うように身体が動かせない中で、故人が自分の最期を見越してやった終活の跡・・・
故人に対する女性達の情愛が、ヒンヤリと感じられていた部屋の空気をあたためたのか、それは、急に故人が現れ、何事もなかったかのように終活作業を続けてもおかしくないくらいリアルに“生”が感じられる光景だった。
私は、故人の生前の姿を知る由もなかったし、見えるわけもなかった。
が、自分なりに最期まで生きた故人の姿がそこにあるような気がした。
そして、「俺も、その時が来たら、狼狽えることなく真剣に最後に向かいたいもんだな」と、口を一文字に結び、小さくうなずいたのだった。
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