特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

最期に向かって

2023-05-31 08:07:28 | 遺品整理
“生”と“死”は常に隣り合わせ、表裏一体。
病気、事件、事故、戦争、天災などで、日本や世界のあちらこちらで、毎日毎日、多くの命が失われている。
そして、それを伝えるニュースも日常に溢れている。
しかし、生きている我々は、“死”を縁遠いもののように錯覚している。
それが生存本能というヤツなのかもしれないし、そうしないと前向きに生きられないのかもしれない。

そうは言っても、“死”は、病人や高齢者だけにかぎったことではなく誰にでも訪れる。
ある日突然か、自分が想像しているより早いか、自分が覚悟しているより遅いか、たったそれだけの違いがあるだけで否が応でも。
一般的には、健康長寿をまっとうし、終活をキチンと済ませた上で“コロリ”と逝くのが理想と言えようか。
ただ、多くの人が思い知らされているように、人生なんてものは、そんな生易しいものではない。
人生はもちろん、死期も死に方も、なかなか思い通りにはいかない。
そんな荒道を、どれだけ頑張って、どれだけ辛抱して歩いていくか、そして、どれだけ真剣に最期に向かっていくか、それが“生”の課題なのかもしれない。



遺品整理の相談が入った。
声から判断するに、電話の主は老年の女性。
「身内が亡くなったので、部屋の家財を処分したい」とのこと。
そうなると、まずは、現地調査が必要。
その上で、見積金額と作業内容を提案することになる。
私は、そのことを説明し、私と女性 双方の都合を突き合わせて、現地調査の日時を定めた。

約束の日、私は、教わった住所に車を走らせた。
到着した現場は、街中に建つ小規模の賃貸マンション。
広めの通りに面した一階は店舗、二階から上が居住用
必要に応じてメンテナンスは入れていたようだったが、外壁の仕様は時代遅れ。
地味な色合いの塗装も「シック」というより「安っぽい」といった感じ。
そろそろ寿命がくることを考えた方がよさそうな老朽建築だった。

建物の前で待っていると、約束に時間に合わせて依頼者もやってきた。
想像通りの老年の女性で、似たような年恰好の女性二人も同行。
聞くところによると、三人は姉妹で、亡くなったのは四人姉弟の末弟とのこと。
老齢ながらも、皆で故人(弟)の後始末のために奔走しているよう。
三人とも丁寧な物腰で、疲れた様子や不満げな表情は一切なく、三姉妹の関係が良好であることはもちろん、四姉弟の関係も良好であったことが伺えた。

現場は、二階の一室。
我々は建物の裏手に回り、薄暗い内階段を上へ。
建物は五階建だったが、エレベーターはなし。
二階だったからよかったものの、もっと上だったら女性達にはキツかったかも。
それでも、私は、女性達の足腰を気遣って、ゆっくりと階段を上がった。

目的の部屋につくと、女性の一人がバッグから鍵を取り出し開錠しドアを引いた。
玄関前の通路も薄暗かったが、明けたドアの先も薄暗。
主がいなくなった部屋のため どことなくヒンヤリとした空気が感じられたものの、電気は止められておらず。
私は、女性達に先に入ってもらい、蛍光灯をつけてもらった。
そして、「失礼しま~す」と、玄関で靴を脱いだ。

間取りは1DK。
玄関を入ってすぐのところが広めのDK。
DKの奥が六畳の和室でベランダはなし。
天井・壁はクロス貼ではなく塗装。
柱も剥き出しで、押入の戸は襖。
障子こそなかったが、窓はサッシではなく旧式の鉄枠窓だった。

玄関からむかって突き当りの窓辺にキッチンシンク。
玄関から右に折れる向きに進んだところが浴室・洗面所・トイレ。
バス・トイレ・洗面所は別々で、それぞれスペースにゆとりあり。
ただ、その設備はかなり古く、浴室はタイル貼で浴槽は昔ながらのバランス窯。
洗面台も旧式。
トイレもタイル貼で、便器は骨董級の和式だった。

言葉は悪いが、その古クサイ仕様が物語る通り、この建物は「築五十年余」とのこと。
そして、故人は、それに近いくらいの年月をここで生活。
他の部屋は住人が入れ替わるたびに、ちょっとした修繕は施されてきたようだったが、現場の部屋は、長年に渡って、故人が“住みっ放し”の状態。
時折は必要最低限の修繕をしてきたものの、他の部屋と同レベルのことはできず。
結果として、この部屋は、時間が止まってしまったかのようなレトロな佇まいとなっていた。

それだけの年数を暮らしていたわけだから、家財の量は多め。
日常生活で使うモノが各所に残されていた。
ただ、一般の部屋と比べて、この部屋の様子は違っていた。
部屋の隅々には、いくつものゴミ袋や段ボール箱が積み重ねられ、また、書籍や雑誌の類も、一定量がヒモで括られ山積みに。
それなりの生活用品は手近なところに置いてあったものの、まるで、どこかから引っ越してきたばかり、もしくは、どこかへ引っ越す直前のように整然としていた。


その訳は、“終活”。
生前、故人は終活に着手していた。
そして、そのキッカケになったのは・・・

数年前、故人の身体に掬っていた病気が発覚。
ちょっとした体調不良が発端だったが、当初、故人は「一時的なものだろう」「そのうちよくなるだろう」と甘くみていた。
しかし、その期待に反して状態は改善せず。
数か月後、重い腰を上げて病院を受診。
精密検査の結果、重い病気にかかっていることが判明した。

その後、入院となり手術も受けた。
術後は、軽等級ながら障害者手帳を受ける身体に。
それでも、退院後は元の生活に復帰。
当初は慣れない身体に悪戦苦闘したようだったが、「人に迷惑をかけたくない」「我が家で気楽に暮らしたい」との一心で、一人暮らしを継続。
そんな生活は、相当に難儀なものだったのだろうけど、本望を貫くべく、少々の無理をしてでもそれに自分を慣れさせていったことが想像された。

しかし、時は無情なもので、病に対する敗色は濃厚に。
少しずつではありながら身体は衰弱の一途をたどっていき、ただちに入院しなければならない程ではなかったものの、「元気」というには程遠い状態に。
そういう状況を心配した女性達(姉達)は、「私達もできるだけのサポートをするから」と、介護施設に入ることを提案。
しかし、故人は、「住み慣れた部屋で暮らしたい」といった願望が強く、女性達の提案に感謝はしつつも受け入れることはせず。
身体的には施設に入った方が楽に決まっていたが、“幸せ”とか“楽しさ”といったものは他人が測れるものではない。
結局、日常生活に大きな支障がでるようなら訪問看護・訪問介護を利用するということで姉弟の話し合いは決着した。

しかし、女性達には、「本人が望むのだから、それでいい」とは言い切れない不安もあった。
それは、孤独死。
若くない上、病弱である身体での一人暮らしでは、充分に起こり得る。
そして、場合によっては、別次元の問題を引き起こしかねない。
故人(弟)の意思を尊重してやりたいのは山々だったが、それは、目を背けることができない現実でもあった。

本音のところでは、そんな縁起でもないこと話したくはなかったけど、女性達姉弟は、そのことについても話し合った。
それは、女性達の情愛から出たもの。
だから、故人にとって耳障りで不快な話題ではなかったはずだったが、ただ、淋しく切ないものではあったかもしれなかった。
しかし、結局のところ、故人にかぎらず、“死”に抗える人間はいないわけで、それについて故人も反論はできず。
結論が出ない中でも、最期と真剣に向き合う覚悟を決めざるを得ないことは、皆にとって暗黙の認識となった。

意外にも、故人が訪問介護を利用するようになったのは、それからすぐのこと。
かかりつけの病院に相談し、故人は、テキパキとその手筈を整えた。
女性達は「人の世話にはなりたがらないから、しばらく先のことになるのではないか」と考えていたようだったが、やはり、故人の頭からは「孤独死」という不安が離れなかったよう。
話の経緯からすると、「死を恐れて」というより「人に迷惑を掛けることを恐れて」といったことが理由だと思われた。
そして、これも、最期にできる、女性達に対する故人の思いやりの一つだったのかもしれなかった。

「墓に衣は着せられぬ」
訪問介護を受け始めたのと同時に、故人は、“終活”を開始。
遺言書を書き、保有する財産や貴重品類もわかりやすく整理。
また、少しずつでも、日常生活で不要な家財を処分することに。
生活に必要なモノとそうでないモノを分別。
要るモノは最小限に、要らないモノは最大限に、ゴミ袋や段ボール箱に詰めていった。
これもまた、最期にできる、女性達に対する思いやりの一つだったのかもしれなかった。


それから、しばらくの月日が経ち・・・
ある日の夜、故人から女性に電話が入った。
「このところ、一段と具合が悪い」
「食事も満足に摂れなくなってきた」
「今すぐどうこうはないにせよ、“そろそろ”かもしれない・・・」
それは、いつになく弱気な言葉で、ある種の覚悟を胸に抱かせるものだった。

覚悟していたものの、“別れ”が現実味を帯びてくると、女性は大きく動揺。
そして、他の姉妹にも連絡をとって、翌日早々に故人宅を訪問。
ただ、訪問介護のヘルパーが世話してくれているお陰か、心配していた程には衰弱しておらず。
また、部屋も荒れておらず。
しかし、どちらにしろ、一人暮らしの限界が間際まで近づいていることは明らか。
案の定、かかりつけの病院に診てもらうと、近日中に入院しなければならなくなった。
そして、入院後、幾日かして、誰もが、いずれまた自宅に戻れることを信じて疑っていなかった中で、故人は静かに息を引き取ったのだった。


晩年の故人は、諦念の想いを自分に言い聞かせるように「仕方がない・・・」と溜息をつくことが多かったそう。
「どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか」
「何の因果? 何かの罰?」
降りかかった災難に対する理由を求めたのか・・・
が、そんなことわかるはずはない・・・
ただ、現実を受け入れるしかない・・・
そうやってたどり着いた想いを「仕方がない・・・」という言葉に集約させていたのだろう。

行年は六十代半ば。
平均寿命と比べると、まだまだ若い。
良縁に恵まれなかったのか悪縁しかなかったのか、生涯独身で妻子はなし。
独り身の身軽さからか、家庭持ちの人に比べて、自由に使える金は多かったよう。
両親はとっくに他界し、最も近い血縁者は女性達三人の姉。
女性達はそれぞれに家庭を持っていたが、故人は、盆暮の贈物や土産物をはじめ、幼少期から大人になるまで甥や姪にも小遣いを渡し、何かにつけ当人達が喜びそうなモノを買い与えてくれたそう。
自分に家庭がない分、女性達家族のことを大切にしてくれ、当の故人も嬉しそうにしていたそう。
また、常々、「姉さん達には迷惑かけないようにしないとね・・・」と言っており、健康にも気をつかっていた。
酒は飲まず、タバコも吸わず。
食生活が偏らないよう外食を控え、適度な運動を心掛け、適正体重を維持することも怠らなかった。

それでも、大病を患ってしまった。
皮肉なことに、節制していたからといって病気に罹らないわけではない。
不摂生な人がいつまでも元気でいることもよくある。
「運命」「宿命」「摂理」・・・人知を超えたところにその理由があるのかもしれないわけで、最新の医療や科学をもってしても人間ができることは小さい。
よく「現実を受け入れるしかない」と言うが、「自分を任せるしかないない」といった方が合っているかもしれない。
そのときの故人の心境を想い測ると、溜め息がでるような同情心と、他人事にできないゆえの切なさと淋しさが湧いてきた。


そこは、病気を患った故人が一人で暮らしていた部屋。
衰えた身体で不便なことも多かったことだろう。
身体に痛みを、心に傷みを覚えたことも少なくなかっただろう。
そんな中、一人きりの部屋で、不安や恐怖心に苛まれたか、悪事や不出来を悔いたか、想い出や懐かしさに笑みを浮かべたか・・・
遠くない将来に訪れるであろう最期に思いを巡らせたことは一度や二度ではなかったはず。

消したくない生活感と消さなければならない生活感を対峙させながら整理を進めた部屋・・・
雑多なモノが詰められたゴミ袋、荷物が入れられたダンボール箱、括られた書籍・・・
それは、思うように身体が動かせない中で、故人が自分の最期を見越してやった終活の跡・・・
故人に対する女性達の情愛が、ヒンヤリと感じられていた部屋の空気をあたためたのか、それは、急に故人が現れ、何事もなかったかのように終活作業を続けてもおかしくないくらいリアルに“生”が感じられる光景だった。

私は、故人の生前の姿を知る由もなかったし、見えるわけもなかった。
が、自分なりに最期まで生きた故人の姿がそこにあるような気がした。
そして、「俺も、その時が来たら、狼狽えることなく真剣に最後に向かいたいもんだな」と、口を一文字に結び、小さくうなずいたのだった。


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偽善意

2023-05-18 07:43:29 | 腐乱死体
もう、二十年も前のことになる。
私は、会社近くの賃貸マンションで暮らしていた。
駅近で立地はよかったのだが、その分、家賃は高め。
併せて、色々な事情があり、岐路に立たされ、人生は、入居時には想像できなかった方向へ進み、結局、たった一年で転居することになった。

そこで、不本意かつ不愉快なことが起こった。
それは、部屋の原状回復についてのこと。
ゴミを溜めていたわけでもなければ、掃除もキチンとしていた。
タバコも吸わなければ、動物も飼っていなかった(迷い犬を一時的に保護したことはあったけど)。
にも関わらず、退去時、預けていた敷金はまるごと没収され、追加の原状回復費用まで請求されてしまった。


「たった一年しか住んでいないのに・・・」
納得できなかった私は、不動産会社に説明を求めた。
しかし、
「居住期間を問わず、退去時には一律に請求させてもらうことになっているので」
と、無碍の一言。
その後、何度かやりとりしたが、納得のできる説明はなし。
結局、
「数万円で片付くなら・・・」
と、私は、イヤな思いをすることから逃れたくて、泣き寝入ったのだった。


似たような事案は、仕事上でも、数えきれないくらい遭遇している。
賃貸物件を退去する際の原状回復についてはトラブルになることが多い。
貸主(大家・管理会社側)からすると、部屋の原状回復にかかる負担は少しでも軽い方がいい。
つまり、できるだけ借主に負担させたいと考える。
一方、借主(住人側)からすると、その負担は軽い方がいい。
そういった利害が対立することで、退去時のトラブルに発展するのである。

賃貸物件は借物なのだから、善良な管理者としての注意義務を負って使用しなければならない。
言い換えれば、「社会通念上“当然”とされる良識をもって丁寧に使わなければならない」とうこと。
逆に言うと、「通常使用による損耗や経年による劣化は借主に責任はない」ということにもなる。
ただ、発生した損耗が通常使用によるものなのか、また、発生した劣化が経年によるものなのか、結局それを判断するのは人の感覚。
損耗や劣化を「当然」「自然」とみるかどうか、「悪意」「怠慢」とみるかどうかで着地点は変わる。
孤独死現場やゴミ部屋・ペット部屋など、借主が良識をもって使用していなかったことが明らかな場合を除いて、双方で客観的・公正にそれをジャッジし着地させるのは難しい。

前記の汚損事例を当社では「特別汚損」と称しているが、「孤独死」は借主(住人側)にとって分が悪い。
遺体が腐敗してしまうと尚更。
誰もが「不可抗力」とわかりつつも、原因をつくったのか借主であることはハッキリしており、「借主に責がある」とみなされる。
自然死でもそうなのだから、死因が自殺となれば尚更そうで、貸主に対して抗弁の余地はなくなる。



「管理しているマンションで孤独死が発生した」
「退去立ち合いのため遺族と現地で会う予定」
「我々だけでは判断できないことがあるかもしれないので、それに合わせて来てもらえないだろうか」
と、何度か取引をしたことがある不動産管理会社から現地調査の依頼が入った。
担当者は、そこで住人が孤独死したことのみ把握。
死因をはじめ、亡くなってから発見されるまでの経緯や時間、汚染や異臭についての情報は一切持っておらず。
ただ、遺族の態度や様子から、“一筋縄ではいかなそう”といった不安を感じているようだった。

訪れた現場は、街中に建つ賃貸マンション。
約束の時刻より早く着いた私は建物前で待機。
ヒマつぶしに建物の外観を観察。
窓やベランダの構造から想像するに、そこは単身者用のマンションで、間取りはすべて1K。
そうこうしていると、程なくして、管理会社の担当者二名が現れた。
どこかで時間調整をしていたのだろうか、二人とも、約束の時刻ピッタリに。
私は、こちらに歩いてくる二人に視線を合わせて会釈。
表情がわかるくらいまで近づいたところで、社交辞令の笑顔と共に言葉を交わして挨拶をした。

遺族もじきに現れるものと思っていたが、「先に部屋に入っている」とのこと。
我々三人は管理キーを使ってオートロックをくぐり、エントランスの中へ。
そのままエレベーターに乗り込み、目的階のボタンを押し、目的の部屋を目指した。

部屋の玄関ドアは既に開いていた。
訪問のマナーとしてだろう、それでも、担当者はインターフォンを押した。
すると、即座に中から応答があり、中年の男性が出てきた。
笑顔を浮かべる場面ではないのは当然ながら、その表情は、強張った感じ。
男性は寡黙で、短い挨拶の言葉以外、一言も発さず。
抱える緊張感がビンビンと伝わってきた。

我々は小さな玄関に脱いだ靴を揃えながら中へ。
玄関を上がると、まず通路。
その左側には下駄箱兼収納庫とミニキッチンが並び、右側には洗濯機置場とユニットバス。
その奥が六畳程度の洋間。
そして、突き当りの窓の向こうには、狭いながらも生活で重宝しそうなベランダ。
見晴らしも陽当たりも良好。
駅も近く、周辺には店も多く、「高級」という程ではないものの、やや贅沢にも思えるくらいのマンションだった。

我々が集合した用向きは、「部屋の退去・引き渡し」だったため、当然、室内に家財はなく空っぽ。
また、部屋も水周も、少々の生活汚れがあっても然るべきところ、きれいな状態。
どうも、一通りのルームクリーニングをやったよう。
部屋を退去する際の礼儀としては充分過ぎるくらい・・・見方を変えると、ちょっと不自然に思えるくらいきれいだった。

ただ、そこは孤独死があった現場。
で、違和感を覚えることがいくつかあった。
それは、暑くもないのに玄関や窓が全開であったことと、ユニットバスとキチンの換気扇が回りっぱなしだったこと。
そして、人工的な芳香剤臭が強めに感じられたこと。

その状況から、私はすぐに“ピン!”ときた。
それは、異臭対策。
部屋に異臭があるからこその対策。
「異臭がある」ということは、「遺体は腐敗していた」ということ。
「腐敗していた」ということは、「汚染があった」ということ。
「汚染があった」ということは、「汚染部からは強い異臭が出ている」ということ。

訊きにくいことだったが、私は、男性に故人が倒れていた場所を質問。
すると、男性は、
「部屋のどこからしいんですけど、詳しいことはよくわかりません」
と返答。
男性は、遺体があった状態の部屋を見ていないようだったので、まずは得心した。
が、考えてみると、状況を警察から聞いた可能性は高い。
にも関わらず、「わからない」と言うのは、何とも不自然。
そうは言っても、「知らないはずないでしょ?」と問い詰める権利が自分にないことは百も承知だったので、私は、これからやるべきことを考えつつ、それ以上のことは訊かなかった。

結局、玄関から台所、ユニットバスにかけて一か所一か所を確認することに。
私は、どこかに汚染痕がないかどうか、部屋のあちこちを凝視。
また、ときには四つん這いになって、方々の床に鼻を近づけ、犬のように隅から隅へとニオイを嗅いで回った。

すると、台所と部屋の境目付近の床で強い異臭を感知。
同時に、不自然な変色も。
一見すると見落としそうになるくらいのものだったが、よくよく見ると、床の一部がわずかに暗色になっており、その部分の目地にも妙な汚れが浸みついていた。
ニオイの種類といい、変色といい、経験上、私にとっては、それが腐敗遺体の汚染痕であるとするのがもっとも合理的な判断だった。

とは言え、男性がいるその場では、具体的なコメントは避けた。
それが、男性に対する私なりの最低限の礼儀だった。
で、部屋の見分を終えた私は、担当者に声をかけ、男性を部屋に残し、一旦 外へ。
そして、「あくまで個人的かつ主観的は所感」と前置きした上で自分なりの見解を伝えた。

それは、
「故人は、台所と部屋の境目付近に倒れていた」
「発見が遅れ、遺体は酷く腐敗していた」
「表向きには分かりにくいが、腐敗遺体液は床材に浸透し、下地まで汚染されている可能性がある」
「外部の空気が通っている間は感じにくいが、部屋を密閉すれば強い異臭が感じられるはず」
といったものだった。


管理会社が私に求めてきたのは、部屋の原状回復についてルームクリーニングのみで済むのか、内装の改修工事や設備の入れ替えが必要なのかどうか、仮に内装設備の改修が必要な場合、どの程度の工事が適切なのか等の関する意見。
その管理会社(貸主側)は、私にとっては“客”。
しかし、偏った意見を言うつもりはなかった。
忖度なく、あくまで、客観的に、公正に判断するつもりでいた。
ただ、部屋には、通常の生活では発生しようがない種類の内装汚損があり、特有の異臭が残留。
通常使用では起こり得ない状況があったわけで、それが現実であり事実。
男性(借主側)に責があるのは明白。
私に悪意はなかったのは当然ながら、結果として、男性にとって不利な意見ばかりを並べることになってしまった。

一方で、男性の保身に走りたい気持ちも痛いほどわかった。
この類の補償や賠償については、世間一般に認知されている「適正価格」や「標準価格」といったものがないから、不安は尽きなかったはず。
「そこで住人が亡くなっていた」という事実は覆せないにしても、部屋の汚損や劣化は「日常生活における通常損耗」として決着させたかったに違いない。
そのために、男性達遺族は、素人ながらに、精一杯の原状回復を試みたはず。
汗をかき、涙をのみながら、市販の物品と自分の手を使ってできるかぎりのことをやったはず。
愛する娘が使っていた家財を片付け、遺体汚染を掃除し、手強い悪臭と格闘し・・・
懐かしい想い出と、深い悲しみと、後始末のプレッシャーと、事後補償の不安・・・
ただ、残念ながら、内装建材は相応に傷んでおり、その汚染は、素人の清掃で片付くほど軽いものではなく・・・
先の見えない金銭的負担や精神的負担について際限のない不安に襲われながらの作業が、どんなにツラいものであったか、想像すると気の毒で仕方がなかった。

結局のところ、フローリングは下地ごと、天井壁クロスの全面的な貼り替えも避けられそうになかった。
もちろん、本格的な消臭消毒も。
原状回復させるにためには、他に選択肢はなかった。
そして、かかる費用のほとんどは遺族が負担することになるはず。
ただ、私の見解があってもなくても、早かれ遅かれ、内装汚損と異臭の問題は明らかになったはず。
だから、男性に対して申し訳ないことをしたといった感覚はなかった。

内装の汚損も残留する異臭も、それに見合った工事や作業で片付けることはできる。
物理的には、それで原状回復は実現できる。
しかし、そこで起こった「孤独死」「遺体腐敗」といった事実まで消すことはできない。
夢幻の出来事にしたくても、「事故物件」「瑕疵物件」という事実は残る。

これは、貸主にとっても借主にとっても、大きな損害となる。
しばらくの間、当室の家賃は従来額より引き下げざるを得ず、場合によっては、それは現場となった部屋だけでなく、隣の部屋や建物全体にも影響する。
そしてまた、それは死因によって・・・「自然死(病死)」なのか「自殺」なのかによっても大きく異なる。
その訳を言葉で表すのは難しいが、人々が抱く嫌悪感や恐怖心は自殺の方が大きい。
言うまでもなく、その分、その後の補償も膨らむ。

そこに暮らしていたのは、男性の娘で歳は二十代後半。
肉体が腐敗するまで発見されなかったことを考えると、「無職」またはそれに近い身の上だったのか・・・
浅はかな偏見なのだが、若年者が孤独死する原因として「病気」は浮かびにくい。
「病死」と並行して「自殺」という二文字がどうしても過ってしまう。


「死因も確認した方がいいと思いますよ」
一通りの見解を述べた私は、担当者へそう言いかけた。
しかし、咄嗟に、その言葉を呑み込んだ。
何かしらの理性に制止されたわけでも何かしらの正義が過ったわけでもなかったが、思わず口をつぐんだ。
故人に対する同情でもなく、男性に対する優しさでもなく、ただ、自分が嫌な思いをしないため、自分が悪者になりたくないがために口を閉ざしたのだった。

ただ、その時点で、私がそのことを口にしようしまいが、結果は変わらなかったはず。
どちらにしろ、先々は、家賃補償の問題も浮上するはず。
併せて、死因についても。

私ができたことと言えば、死因が自殺でなかったことを願うことのみ。
ただ、これもまた、一時的な感傷、穢れた自己満足・・・
この一生につきまとう、「私」という人間の本性を表す乾いた偽善意なのではないかと顧みるのである。


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生くあて

2023-05-08 08:24:20 | その他
三年ぶり・・・
コロナ規制が大幅に緩和された今年のGWは、季節外れの暑さも手伝って、多くのところで盛り上がりをみせたよう。
ニュースが伝える各所の盛況ぶりは、コロナ禍について、悪い夢でも見ていたかのような錯覚を覚えるくらい。
そして、新型コロナウイルスも、「危険性がもっとも低い」とされる五類に引き下げられた。
ただ、引き続き、高齢者や基礎疾患のある人への配慮は必要だし、後遺症に苦しんでいる人も少なくないらしいから、まるっきり過去の禍として忘れていくわけにはいかないと思う。
また、倒産・失業、そして病死、この禍によって、取り返しのつかない事態に陥った人も少なくない。
社会経済や世の中が息を吹き返そうとしているところに水を差すようなことを言うのはナンセンスだとわかりつつも、諸手を挙げて喜ぶことはできない。
この社会には、いまだ、多くの弱者がいることも忘れてはならない。

物価も上がりっぱなし。
一部では賃金が上がっているところもあるらしいが、実質賃金は低下の一途。
選挙を意識して行われる“バラマキ”も、ほとんど焼け石に水。
本音のところでは「その場しのぎ」のつもりなのかもしれないけど、その場さえしのげていない感が否めない。
結局のところ、気前よく撒かれる金の原資は借金なわけで、そのツケは、我々の注意が他に逸れた頃合いを見計らって、増税や社会保障の圧縮といったかたちで回ってくる。
「一億総中流」と言われていた時代は遠い過去のもの。
このままだと、「一億総下流」といった事態にもなりかねない。

ただ、いつの世にも富裕層はいる。
その一部には、既得権益によって甘い汁を吸っている人もいるのだろうが、それを恨むのは筋違い。
もともと、人間とは、そういう性質(欲)を持った生き物であり、この社会は、そういう生き物によって構成されているわけだから、この社会が“弱肉強食”になり、封建的になるのは当たり前のこと。
搾取される側だから不満を覚えるわけで、多くの人間は、搾取する側になればそれを推すだろう。
で、私は、搾取される側の人間だから、こういったネガティブな論調になっているわけだ。

それはさておき、この先、この日本は、この世界は、どうなっていくのだろう。
残念ながら、大半の庶民にとって、この社会は、生きにくくなっていく一方のような気がしてならない。
とは言え、問題はあまりに大きすぎ、多すぎるため、選挙権を行使しても納税の義務を果たしても何も変えることはできない。
講じることのできる具体策はなく、できることと言えば、ただただ、政治家や専門家の机上の空論でお茶を濁すことくらい。
それで、事が解決するわけではないことを知りつつ、「なんとなかる」「なるようにしかならない」と都合の悪いことは深く考えないようにして放り投げるしかないのかもしれない。



「今回は、孤独死とかではないんですけど・・・」
付き合いのある不動産会社から、一本の電話が入った。
「“夜逃げ”とでも言うんでしょうか、住んでいた人がいなくなりまして・・・」
担当者は、自分が悪いわけでもないのに、やや言いにくそう。
「一通り探してはみたんですけど・・・」
まるで、誰かに言い訳をしているかのよう。
「いなくなって数か月経ちますし、必要な手続きも終わったんで、そろそろ部屋を片付けようかと・・・」
溜息混じりに、用件を伝えてきた。

訪れた現場は、街中に建つアパート。
築年は古く、かなりの年月が経過。
それでも、日常のメンテナンスがキチンとされているのだろう、そこまでのボロさは感じさせず。
部屋の鍵は、現地に設置されたキーボックス内。
私は、不動産会社から知らされていた四桁の暗証番号にダイヤルを合わせた。

「悪臭」というほどではなかったものの、カビ臭いようなホコリっぽいような独特の生活臭がプ~ン。
間取りは1Kで、お世辞にも「きれい」とは言えず。
台所をはじめ、風呂やトイレ等の水廻りは、ロクに掃除がされておらず。
部屋の隅々もホコリまみれ。
本人が暮らしていた当時からそうだったのか、後に立ち入った第三者がそうしたのか、雑多なモノが散らかり放題。
「ゴミ部屋」という程ではなかったが、その予備軍のような状態だった。

「“失踪”ということだけど、本当は亡くなったんじゃないの?」
「あ、でも、俺にそんなウソつく理由ないな・・・」
「そうすると、やっぱ、失踪か・・・」
住人が亡くなっていようがいまいが、私には関係ないこと。
ただ、部屋が生命力を失い、また あまりにもモノクロに荒廃しているものだから、“住人の死”という、職業病的な考えが頭を過った。

とにもかくにも、余計な野次馬根性は仕事に無用。
やるべきことは、不動産会社の指示に沿って、粛々とことを進めるのみ。
「かかる費用は大家が負担する」とのこと。
想定外の負担を強いられることになった大家を気の毒に思いながらも、苦労しながら生きていたことが如実に伺える部屋を前には、失踪した当人を責める気持ちにもなれなかった。

残置された家財は少量ながらも、その中には色々なモノがあった。
男性の氏名、生年月日など、個人情報が記された書類。
消費者金融からの支払催促状や、不動産会社からの家賃滞納通知も。
古い免許証や何枚かの写真もあり、本人の顔も伺い知れた。
また、白い袋に入った何種類かの処方薬もあった。

その部屋に暮らしていたのは八十代の男性。
ここに入居したのは十数年前。
賃貸借契約の保証は保証会社が担い、身元引受人もおらず。
入居当時は仕事にも就いており、高額ではなかったが安定した収入があった。
家賃は銀行口座からの自動引き落としで、これまで何度か残高不足による遅払いはあったものの、完全な滞納はなかったそう。
ただ、近年は、仕事をしていたのかどうか不明。
どれだけの年金を得ていたのかも不明ながら、家賃滞納の現実を鑑みると困窮していたのは明白。
また、残された処方薬が示す通り、持病も抱えていたようだった。

あってもおかしくない雰囲気ながら、生活保護を受けていたことを伺わせるような書類は見当たらず。
「生活保護を申請すれば通っただろうに・・・」
「年齢も年齢だし、持病があったなら尚更・・・」
「それとも、頼れる身寄りがいたのかな・・・そんなわけないか・・・」
頭の雑草地に、仕事に無用な野次馬が駆け回った。
そもそも、生活保護を受けていれば、「家賃滞納」ということにはならなかったはずなので、貧乏しながらも何とか自力で生活してことが想像された。


話が逸れるが・・・
「生活保護」という制度は、多くの欠点をはらんでいる。
多くは不正受給。
そして、それを貪る貧困ビジネス。
自治体の事情や地域の状況によるところが大きいのだろうから、一概に批判するのは軽率とわかりつつも・・・
勤労者がボロアパートで窮々としているのに、受給者はきれいなマンションに暮らしている。
勤労者が嗜好品を我慢しているのに、受給者は酒・タバコ・ギャンブルを楽しんでいる。
勤労者が汗水流して働いているのに、受給者は健常に動く身体をブラブラと持て余している。
仕事上、そういった現実を目の当たりにすることが少なくない私は、現行制度をどうしても斜めに見てしまうところがある。

ただ、問題とされることには、その逆もある。
それは、役所が何だかんだと難癖をつけて申請させないよう圧力?をかけたり、申請を受け付けないようにしたりすること。
それで、本当に保護が必要な人が申請しにくい雰囲気や文化ができてしまうこと。
実際、受給者が増えている実情の陰で、「人の世話になりたくない」「身内に知られたくない」「恥ずかしい」等と、申請を躊躇っている人が少なくないらしいのだ。
本来は、そういう人達を救うための制度なのに、各所に見え隠れする矛盾を苦々しく思ったことがある人は、私だけではないのではないだろうか。


不動産会社は、男性を探し出すことを諦めていた。
仮に探し出せたところで、資力があるとは考えにくい。
困窮していることに変わりはなく、裁判沙汰にしても差し押さえる資産もないはず。
無駄な手間と費用をかけるだけ損。
結局のところ、滞納家賃の回収はあきらめて、次の段階に進んだ方が得策と判断したよう。
後々、始末する家財が問題の種にならないようにだけ留意した上で部屋を空にし、きれいにリフォーム・クリーニングを施し、新たな入居者を募集する算段をつけていた。

不動産会社からの通知書を見ると、家賃の滞納額は三か月分、十数万円。
過去にも支払いが遅れることはあったのかもしれないけど、それでも何とかやってきていたのだろう。
しかし、ここにきて、いよいよ払えなくなってきた・・・
もちろん、“袖”があれば“振る”つもりはあったはず・・・
払えるだけの収入がないからそういうことになったのだろう。
で、結局、何か月分滞納すれば追い出されるのかわからない中、「追い出される前に出て行こう」ということにしたのだろうか。

しかし、持病のある高齢者。
家賃が払えないほど困窮し、頼れる身寄りもない。
そんな男性が、どこへ行くというのだろう、アパートを出て行ってしまえば、途端に、路頭に迷う。
行くあてがあるとは容易には思えない。
いくらかの金があれば、ホテルにでも入れるが、家賃が払えないくらいだから、仮にそれができたとしても長続きはしないだろう。
また、金がなければ毎日の食事にも事欠く。
ホームレスになっても生き延びることはできるのかもしれないけど、果たして、そこまで体力と気力を持ち続けることができるものかどうか・・・
「もしかして、自分で寿命を決めて出て行ったのかな・・・」
自然と、そんな考えが頭を過った。
と同時に、恐ろしいほどの切なさと淋しさが悪寒となった背筋を走った。

ただ、男性がどこでどうなっていようが私には関係ないこと。
実際に手助けをするわけでなし、ただの野次馬根性、余計なお世話。
一時的な感傷、ただの自己満足。
もっと言うと、善人気分を味わいたいがための勝手な同情。
事実、作業から数日・・・いや、一晩寝て翌日になれば、男性のことなんか忘れている。
結局のところ他人事で、冷淡にやり過ごすだけのことだった。


「人生100年時代」と言われるようになって久しいが、それが“吉報”ではなく“悲報”のように聞こえるのは私だけではないだろう。
「長寿」、響きはいいけど、誰しも若いまま生きられるわけではない。
頭も身体も衰える。
動きたくても動けなくなり、働きたくても働けなくなり、大半の庶民は経済力も衰える。
健康寿命は100年よりもっと短いわけで、「命が尽きる前に金が尽きる」とも言われている。
「100才まで生きなきゃならないとしたら、お先真っ暗?」なんて、笑えるようで笑えない思いが湧いてくる。

真面目に働いて、税金や社会保険料もキチンと納めて、それでも老後は年金だけで充分な暮らしができない人は多い。
視聴者ウケするよう極端な事例を選んで取り上げているのかもしれないけど、TVで、少ない年金で壮絶な節約生活をする高齢者の暮らしぶりを伝えるドキュメントを何度か観たことがある。
年金の大半が家賃で消える人、電気を契約せず懐中電灯生活をしている人、一日をおにぎり一個でしのいでいる人、老体に鞭打ってアルバイトをしている人等々・・・
「生きているのが面倒くさい」と言っていた老人の疲れた言葉が、ドキッと胸に刺さり、そのまま、夏陽に逆らえないアイスクリームのように悲しく溶けていき、拭いたくても拭い切れないものとなってしまった。


作業が終わると、部屋は空っぽになった。
男性がそこで暮らしていた証・・・生きていた証は、部屋に残された汚れや傷みのみ。
その様が、私の内に涌く妙な淋しさと切なさを煽ってきた。
ただ、そんな私でも、
「どこかで生きてくれてればいいな・・・」
とまでは思わなかった。
私には、男性に対して無責任に生きることを求めることが、薄情で軽はずみなことのように思え・・・
男性に、更なる苦しみを強いることになるような気がしたからだった。

よく 人は、命の大切さ、生きることの素晴らしさを訴える。
当り前のように、それが健全な人間、健全な考えとされる。
人に“死”を強いることが「悪」とされるのは決まりきった倫理価値であるが、はたして、人に“生”を強いることは「善」と言い切れるものだろうか・・・
その中で、人の手によって“生”が粗末にされている現実も多い。
心の中の殺人を含めれば、「日常的に起こっている」といっても過言ではないのではないか。
そこには、「矛盾」の一言では片付けられない矛盾がある。
その矛盾とともに、人類の歴史は、脈々と紡がれている。
無力と諦めの中で、“時間”が、その悲しみと怒りを遠い過去へ洗い流し、忘れさせてくれるのを待ちながら。


結局のところ、これからの時代、物事によっては、短絡的になった方が楽に生きられるのかもしれない・・・
足元を見つめ直し、それを固めることに注力し、将来に“生くあて”を求めない方が軽やかに生きていけるのかもしれない・・・
ネガティブに思われるこの思考も、意外に、見通せない未来に向かってポジティブな芽を出すのかもしれない・・・

コロナ禍明けに沸く世間から取り残された人間が藁をも掴もうとするかのように、私は、そんな風に思うのである。

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