ここ2~3日、真冬に戻ったかのような天気が続いているが、東京では桜が咲いている。
桜は、咲くのもはやければ、散るのもはやい。一気に咲いて、一気に散る。
その華やかさが人々の心を惹きつけるのか、それとも、その儚さが人々の心を惹きつけるのか・・・
私も、満開に咲く桜に心を躍らせる一人。
更に、その後に残る独特の余韻も好き。
葉桜を見ながら満開の花を思い返すと、いい夢を見た後のような淡い美味が感じられるから。
私は、よく、人生を“現実という名の夢幻”“夢幻の思い出”等と表すが、それだけ、夢幻性を強く感じている。
ちょっとイッちゃってるように思われるかもしれないけど、この人生は、肉体という服を着て、夢の中を旅することのように感じているのである。
「おじいさん・・・」
目の前には、冷たくなって横たわる老年男性。
そして、その傍らには、連れ合いである老年女性が正座し、肩を落としていた。
「よろしくお願いします」
女性をはじめ、集まった遺族は皆、喪服姿。
当夜に通夜式を控えた故人は、柩に納められるのを待っていた。
「これを着せて下さい」
女性は、私に向かって一式の洋服と靴を差し出した。
それは、遺族が故人に着せたいとする服だった。
「天国で恥ずかしい思いをしたら可哀想ですから・・・」
目の前に横たわる故人は、くたくたのパジャマ姿。
女性は、故人をそのまま荼毘に付すことを、忍びなく思っているようだった。
「これなんですけど・・・」
用意された洋服は、結構な枚数。
広げてみると、上下の下着・靴下・チノパン・襟付きシャツ・ベスト、そして、一組のハイキングシューズだった。
「本人が気に入っていたものなんです」
故人の趣味は、ハイキング。
それに出かける際、愛用していた服だった。
「元気だった頃は、毎週のように出掛けてたんですよ」
ハイキングには、故人と女性は、各地の山や沢によく出掛けていたとのこと。
女性は、その思い出を嬉しそうに話した。
「着せられますか?」
遺体については素人の女性でも、生体と死体が違うものであることは分かっているよう。
キチンと着せ替えができるものかどうか、少し心配なようだった。
正確なデータを収集したわけではないが、我々のような専門の遺体処置業者(納棺業者)の手によって処置が施され納棺される遺体は、全体の20%程度だと思う。
では、それ以外の80%は誰が納棺しているのか?というと、そのほとんどは葬儀社や遺族の手によってなされていると思う。
専門業者が担った場合と、そうでない場合の一番の違いは、故人の外見。
手前味噌ながら、やはり専門業者の手をかけた方が、故人の見栄えはいい。
本人(故人)の心情は諮りかねるけど、遺族にとって、故人の見栄えは気になるところなので、そこに我々の必要性がでてくるのである。
遺体の着衣として最も多く用いられるのが経帷子。いわゆる、“死装束”とか“白装束”などと言われているもの。
そう・・・これまた感覚的な数値だけど、これを着る遺体は、上記20%のうちの90%台に達していると思う。
その大きな理由は、以下の三点だろう。
「宗教的背景」
“死人の正装”“極楽浄土への旅に必要な装束”という思想がある。
「業者の都合」
経帷子も葬祭商品の一つ。それを販売することによって、売上利益があがる。
「作業上の都合」
経帷子は、遺体に着せやすくするための工夫が施されている。そのため、寝たきりで硬直した遺体に着せやすい。
その結果として、上記のような%になっていると考える。
しかし、中には、本件の女性のように、違うものを着せることを希望する遺族もいる。
故人が遺言していたもの、遺族が着せたいと思うもの、生前の愛用品etc・・・
その場合は、やはり、遺族や故人の意思が最優先。
売上が上がらなかろうが手間がかかろうが、遺族(故人)の意思が尊重される。
そうは言っても、やはり洋服を着せるのには、一手間も二手間もかかる。
特に、浮腫みや腐敗によって身体のサイズが変わったり、重度の死後硬直があったりすると大変。
遺体やその手足を無理矢理にでも動かさなければならず、遺族に見せにくい場面もでてしまう。
結果、遺族の立会いをなくしての作業をせざるを得ないこともある。
それでも、遺族は、その仕事を非常に喜んでくれる。
それが、代金額では計れない仕事の価値。
世間の評価は低くても、遺族の評価が高ければそれでよし。
その開き直りと蓄積が大切なのだろうと思っている。
「随分、浮腫んじゃったわね・・・」
故人の足は、浮腫んで膨らんだうえに血色を失い・・・
女性は、故人の労をねぎらうかのように、その足を優しく摩った。
「靴は、無理そうね・・・」
故人の足は、生前のサイズをオーバー。
服は何とか着せたものの、靴は、とても履かせることができなかった。
「もう歩く必要ないから、靴は要らないか・・・」
“もう歩く必要ない・・・”
この言葉は、単に死を象徴するだけにとどまらず、私には、人生というものが何たるかを表しているように聞こえた。
「“人生は長い”と思っていたけど、過ぎてみると短いものね・・・」
平均寿命を基準にすると、故人の生涯は、決して短いものではなかった。
しかし、女性は、そう呟いて、悲しい場面にあって“笑み”ともとれる表情をみせた。
“過ぎてみると、人生は短い”“まるで夢のよう”
この類の言葉は、老年の人からよく聞かれる。
もちろん、若年者でも、このような心情を持つことはあるだろう。
しかし、心底、それを痛感する(悟る)のは、死期を悟ったときや死期を感じたときなのだろうと思う。
そして、苦悩や後悔は薄らぎ、懐かしさと愛おしさばかりが頭を過ぎるのだろうと思う。
しかし、今、人生は長く感じられてしまう。苦悩の時は特に。
“儚い夢”と簡単に片付けられない。
これは、時の価値を、心(本性)で捉えず、頭(理屈)でしか捉えていない証拠。
だから、いつまでたっても余計な思い煩いが、自分から抜けない。
これだけのチャンスが与えられているのに、生と死の先輩が教えてくれることが、自分に定着しない。
だから、私の足取りは重い。
私は、自分の、この人生を後悔している。先に不安も抱えている。
“もっといい人生があったのではないか”“もっと楽な人生があるのではないか”と、自業自得を棚に上げ、ぼやいてばかりいる。
しかし、幸いなことに、それがすべてではない。
私は、この人生(夢と奇跡)に感謝もしている。
時に、感動もある。小さいけど、プライドもある。
これらを、これからどのように育んでいくか・・・それが、これから期待されること。
この夢が醒めようとするとき、この夢から醒めるとき、私は何を想うだろう。
色んなこと、色んな想いが頭を過ぎるだろう。
ただ、その時は、苦笑いでもいいから、笑顔を浮かべたい。
そして、そうなるような生き方をしたい。
だからこそ、季節の桜に心躍らせ、葉桜にいい夢を見るように、この夢中旅行を少しでも楽しんでいきたいと思っている。
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桜は、咲くのもはやければ、散るのもはやい。一気に咲いて、一気に散る。
その華やかさが人々の心を惹きつけるのか、それとも、その儚さが人々の心を惹きつけるのか・・・
私も、満開に咲く桜に心を躍らせる一人。
更に、その後に残る独特の余韻も好き。
葉桜を見ながら満開の花を思い返すと、いい夢を見た後のような淡い美味が感じられるから。
私は、よく、人生を“現実という名の夢幻”“夢幻の思い出”等と表すが、それだけ、夢幻性を強く感じている。
ちょっとイッちゃってるように思われるかもしれないけど、この人生は、肉体という服を着て、夢の中を旅することのように感じているのである。
「おじいさん・・・」
目の前には、冷たくなって横たわる老年男性。
そして、その傍らには、連れ合いである老年女性が正座し、肩を落としていた。
「よろしくお願いします」
女性をはじめ、集まった遺族は皆、喪服姿。
当夜に通夜式を控えた故人は、柩に納められるのを待っていた。
「これを着せて下さい」
女性は、私に向かって一式の洋服と靴を差し出した。
それは、遺族が故人に着せたいとする服だった。
「天国で恥ずかしい思いをしたら可哀想ですから・・・」
目の前に横たわる故人は、くたくたのパジャマ姿。
女性は、故人をそのまま荼毘に付すことを、忍びなく思っているようだった。
「これなんですけど・・・」
用意された洋服は、結構な枚数。
広げてみると、上下の下着・靴下・チノパン・襟付きシャツ・ベスト、そして、一組のハイキングシューズだった。
「本人が気に入っていたものなんです」
故人の趣味は、ハイキング。
それに出かける際、愛用していた服だった。
「元気だった頃は、毎週のように出掛けてたんですよ」
ハイキングには、故人と女性は、各地の山や沢によく出掛けていたとのこと。
女性は、その思い出を嬉しそうに話した。
「着せられますか?」
遺体については素人の女性でも、生体と死体が違うものであることは分かっているよう。
キチンと着せ替えができるものかどうか、少し心配なようだった。
正確なデータを収集したわけではないが、我々のような専門の遺体処置業者(納棺業者)の手によって処置が施され納棺される遺体は、全体の20%程度だと思う。
では、それ以外の80%は誰が納棺しているのか?というと、そのほとんどは葬儀社や遺族の手によってなされていると思う。
専門業者が担った場合と、そうでない場合の一番の違いは、故人の外見。
手前味噌ながら、やはり専門業者の手をかけた方が、故人の見栄えはいい。
本人(故人)の心情は諮りかねるけど、遺族にとって、故人の見栄えは気になるところなので、そこに我々の必要性がでてくるのである。
遺体の着衣として最も多く用いられるのが経帷子。いわゆる、“死装束”とか“白装束”などと言われているもの。
そう・・・これまた感覚的な数値だけど、これを着る遺体は、上記20%のうちの90%台に達していると思う。
その大きな理由は、以下の三点だろう。
「宗教的背景」
“死人の正装”“極楽浄土への旅に必要な装束”という思想がある。
「業者の都合」
経帷子も葬祭商品の一つ。それを販売することによって、売上利益があがる。
「作業上の都合」
経帷子は、遺体に着せやすくするための工夫が施されている。そのため、寝たきりで硬直した遺体に着せやすい。
その結果として、上記のような%になっていると考える。
しかし、中には、本件の女性のように、違うものを着せることを希望する遺族もいる。
故人が遺言していたもの、遺族が着せたいと思うもの、生前の愛用品etc・・・
その場合は、やはり、遺族や故人の意思が最優先。
売上が上がらなかろうが手間がかかろうが、遺族(故人)の意思が尊重される。
そうは言っても、やはり洋服を着せるのには、一手間も二手間もかかる。
特に、浮腫みや腐敗によって身体のサイズが変わったり、重度の死後硬直があったりすると大変。
遺体やその手足を無理矢理にでも動かさなければならず、遺族に見せにくい場面もでてしまう。
結果、遺族の立会いをなくしての作業をせざるを得ないこともある。
それでも、遺族は、その仕事を非常に喜んでくれる。
それが、代金額では計れない仕事の価値。
世間の評価は低くても、遺族の評価が高ければそれでよし。
その開き直りと蓄積が大切なのだろうと思っている。
「随分、浮腫んじゃったわね・・・」
故人の足は、浮腫んで膨らんだうえに血色を失い・・・
女性は、故人の労をねぎらうかのように、その足を優しく摩った。
「靴は、無理そうね・・・」
故人の足は、生前のサイズをオーバー。
服は何とか着せたものの、靴は、とても履かせることができなかった。
「もう歩く必要ないから、靴は要らないか・・・」
“もう歩く必要ない・・・”
この言葉は、単に死を象徴するだけにとどまらず、私には、人生というものが何たるかを表しているように聞こえた。
「“人生は長い”と思っていたけど、過ぎてみると短いものね・・・」
平均寿命を基準にすると、故人の生涯は、決して短いものではなかった。
しかし、女性は、そう呟いて、悲しい場面にあって“笑み”ともとれる表情をみせた。
“過ぎてみると、人生は短い”“まるで夢のよう”
この類の言葉は、老年の人からよく聞かれる。
もちろん、若年者でも、このような心情を持つことはあるだろう。
しかし、心底、それを痛感する(悟る)のは、死期を悟ったときや死期を感じたときなのだろうと思う。
そして、苦悩や後悔は薄らぎ、懐かしさと愛おしさばかりが頭を過ぎるのだろうと思う。
しかし、今、人生は長く感じられてしまう。苦悩の時は特に。
“儚い夢”と簡単に片付けられない。
これは、時の価値を、心(本性)で捉えず、頭(理屈)でしか捉えていない証拠。
だから、いつまでたっても余計な思い煩いが、自分から抜けない。
これだけのチャンスが与えられているのに、生と死の先輩が教えてくれることが、自分に定着しない。
だから、私の足取りは重い。
私は、自分の、この人生を後悔している。先に不安も抱えている。
“もっといい人生があったのではないか”“もっと楽な人生があるのではないか”と、自業自得を棚に上げ、ぼやいてばかりいる。
しかし、幸いなことに、それがすべてではない。
私は、この人生(夢と奇跡)に感謝もしている。
時に、感動もある。小さいけど、プライドもある。
これらを、これからどのように育んでいくか・・・それが、これから期待されること。
この夢が醒めようとするとき、この夢から醒めるとき、私は何を想うだろう。
色んなこと、色んな想いが頭を過ぎるだろう。
ただ、その時は、苦笑いでもいいから、笑顔を浮かべたい。
そして、そうなるような生き方をしたい。
だからこそ、季節の桜に心躍らせ、葉桜にいい夢を見るように、この夢中旅行を少しでも楽しんでいきたいと思っている。
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