ことのはのはね~奈良町から

演劇、アート、短歌他、町家での出会いまで、日々を綴ります。

NHK短歌2022年11月号より

2022-10-23 | 短歌
前登志夫主宰の短歌結社、ヤママユに歌を出さなくなって随分たつ。短歌誌も読まないが、近しいところで、鑑賞や作歌の指導を依頼されるので、初めて短歌に向かう人の参考になるかな、というのと、写真も多く、楽に読めるので、春からNHK短歌を購読している。
そこに、前先生の歌が取り上げられていた。筆者は、佐佐木定綱さん。全く短歌を知らない方のために書くと、俵万智さんのいる短歌結社「心の花」の歌人である。以下、誌面通りに記します。

平和とはかく輕やかに日常をビニール袋に入れて運べる   前登志夫『鳥獸蟲魚』

平和とは何か。戦争や争いがない状態なのか。いやいや「日常をビニール袋に入れて運べる」ことが平和である、という。日々欲しいものを買うことができ、それはビニール袋に入れてもらえる。安定した社会をビニール袋に象徴して歌った歌だが、現代は持続可能な社会が叫ばれる世の中だ、取り組みによってはビニール袋に日常を放り込めなくなる世の中になるかもしれない。読みにも変化が訪れている。


以上を一読し、「ん?なんか違う…。」と思ったので、このブログにその感覚を整理しておこうと思い、書いているのですが、「日常をビニール袋に入れて運べる」ことが平和である、という。」まず、ここが違うと思ってしまったということか。
前登志夫はそんなことを「平和」とは思っているのか?この歌にある「平和」という言葉をどう捉えるのか。個人的には、それは作歌当時の時代の空気感としての「平和」であり、戦争を体験した、前登志夫の「平和」とはまた別の「平和」であるように思う。
前登志夫は山住の歌人であり、自然や歴史を背景とした歌を詠みながら、山の暮らしから文明を撃つ歌を歌ってきた。なので、こうした一見わかりやすい、現代の表層を読んだ歌でも、必ず何かしら「今を撃つ」ものがあり、それが、前登志夫の歌の面白さかなと思う。
ただ、それはたまたま私が、前登志夫の下で学び、見聞きし、歌や評論を読んでいるからであって、時に、命の危険もあるような、山や海に対峙して、生業をたてる暮らしが、おとぎ話になってしまっている令和では、前の歌の感覚はおそらく、わからない、理解が難しいだろうな、とも感じている。
前登志夫の歌には、強靱な山の「肉体」がある。けれど、今やもう、自分の肉体なんかより、アバターを作って自分とは離れた架空の体で生きたい、と思う人も多いだろう。
となると、前登志夫の歌など、とてもリアルに感じられないだろう。だから、先生の歌の鑑賞はいよよ、難しくなる…となるか。

今回、取り上げられた歌に関していえば、山人の歌の肉体性が全面に出た歌でもなく、時代の表層を軽やかな皮肉をもって、歌っているので、今の私たちにも十分理解できるものだ。先述の鑑賞コメントの中で、「現代は持続可能な社会が叫ばれる世の中だ、取り組みによってはビニール袋に日常を放り込めなくなる世の中になるかもしれない。」とあるが、ここが気になってしまうのはなぜか。確かに、買い物袋は有料化が進み、「ビニール袋」は使われなくなるだろう。しかし、それとは別の次元に、前登志夫の読んだ「ビニール袋」はあるように思う。演劇的妄想?と笑うことなかれ。やがてこの「ビニール袋」は、「スマホ」にもなり、やがて、日常を統括するようなシステムにもなっていく…。そういったものに、日常を丸ごと入れて運び、これぞ平和?の私たち。「ビニール袋」の宇宙は決して過去にはならない、普遍性がある。

今回、師の歌の掲載があったおかげで、あらためて、令和にどのように前登志夫の歌が生きてゆくのか、考える機会をもらったと感じている。これからも是非、前登志夫の鑑賞をお願いしたい。
師の歌が難解であるということ。風土や歴史的背景、文語の声調、などなど…。それを噛み砕き、時代にあわせるのではなく、照らし合わせ、鑑賞し、残していくのが、師の主宰した「ヤママユ」の役目だろう。ヤママユの若い方たちの鑑賞を読みつつ、「???」となっている私。少なくとも、前の薫陶を受けた先輩たちは、若手の鑑賞を観念的なところから、前の歌の肉体のリアルな感性へと引っ張っていって欲しい。
とはいえ、ヤママユを離れ、歌の方へ向いていない私には、そんなこと言うのは、おこがましいというのもわかっている。
なので、これまでのように、今後とも、一般の方たちに広くわかる形で、イベントや展示事業で、前登志夫に関わる発信を続けていきたい。

ところで、「持続可能」という言葉は、今やまるでかつてのテレビ時代劇、水戸黄門の印籠のようになってしまった感がある。80年代、「エコ」という言葉が出現した時と全く同じにおいがする。「エコ」といいながら、全く「エコ」な世界を作らなかった私たち。経済活動は異様に膨らみ、資源は枯渇し続けていく…。
前登志夫の歌の肉体を読めなくなっている私たちこそが、持続可能な社会の出現を困難にしている気がしてならない。
逆にいえば、前登志夫の歌には、持続可能な社会を問うヒントに満ちていると言えないか?
演劇も自分の声と肉体があってこそ。
そこに立脚したい。歌もセリフも。






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