雨は上がった。アジサイが色づき始めた。燕を散見するようになった。
コーヒー牛乳色の川は太く、ツツジは花を落とし始めて、雁の群れははるか遠くなったことだろう。
雨上がりの通勤路、いつもはまだ閉まっている動物病院に多くの人が順番待ちをしている。
そういえば、歯医者もそうだけど、感染しそうでクラスター発表がここでも起ってはいない。
ペットを挟んで会話を弾ませている人がいない訳じゃない。病状説明も長くなりがちだろう。
ひょっとしてここでは、ペットが吸収して背負ってくれているのかな、なんて根拠なく思う。
覇気のないペットが診察台に乗せられて、ペット越しに会話がなされている。
病気はペット自身のものだけれど、飼い主の物でもあるように見える。
そう考えたとき、ペットの死はどうなんだろうと考えた。
厚生省のガイドラインに則ったお医者さんの判定は、肉体に死の過程を緩やかに辿り始めさせる合図だろう。
猫などはその時が近づいてくると姿を消すなんて言われているけれど、反応しなくなるまで飼い主のそばにいたペット自身にも自覚は残るんだろうか。
見えているペットは目をキョロキョロさせているのだけれど、こうしてガラス越しに眺めていると、
死は自身の問題というより、むしろ関わってきた周囲の人々の問題に思えるのが不思議でもある。
そう考えると、社会的使命を帯びて死を前提とする行動を、万歳三唱で見送った時代の異常さに思いは馳しる。
そして今、命は大事という社会的使命を帯びて、多数の生命や人生に犠牲が強いられている。
同じ命に違いはないけれど、ここまでして助けようとしている人達というのは、
頑張って検査して探し出したり、死んだ人にも検査をかけたりする見せかけの数字を除いて一体何人ほどあるんだろう。
雲の切れ間から一瞬光が差したのだろう。
我が影にふと気づいたかと思うと、フワッとした僅かなぬくもりが残った。
やっぱりわけわかんないなぁ、と笑っていた。