順調に重松の作品を読み進んでいる。彼の手に入る限りの作品は手に入れた。彼のテーマは同じだ。しかし、それなら、なぜそんなにたくさんの作品を読む必要があるの? という疑問をお持ちだろう。だが、それでいいのである。何故なら、重松の作品は、現代に生きる人間にとってとても声を大にして語ることがもうすでに憚られるようになってしまった人間的価値を作品の中に閉じ込めているからである。だから、僕にとってはこの人の作品は、ウェイトトレーニングみたいなものなのである。規則正しい繰り返しが必要なのである。心の中に少しずつたまっていけば、それが最も僕には都合がよいからである。
重松は、一体人間にとって、真理とは何か? あるいは 善性とは何か? また 美的なものとは何を指すのか、というかなり古典的な価値意識を僕たちに繰り返し、伝えようとしているからである。簡単にまとめれば、<真・善・美>の世界観なのである。難解な哲学的用語を解読するように、哲学書を読む必要はない。この人が、人生におけて夢を抱く必要性と、夢は壊れるものであるけれども、その夢の挫折を乗り越えて、人間は立ち上がっていくのだ、ということを何度も、何度も重松は読者に訴えようとしているのである。
話を換える。今日、<若者よ、死んではならない>というブログで触れた自殺した天才的な若き女性の妹が僕に会いにきてくれた。僕がメールを送ったのである。それも弱々しく。できれば、君に会いたい、というふうに。この姉妹は精神的な繋がりが強く、深い姉妹であるので、姉の死に僕は大きなショックを受けたが、前にこの場に書いた<哲学的・文学的天才少女について>というブログの主人公であるこの妹は死なせてはならない、と強く思っていたからであった。しかし、僕に出来たことと言えば気弱なメールを送ることでしかなかった。だが、この天才少女は来てくれたのである。亡くなったお姉さんについては、この天才少女の口から漏れ出たイメージしか僕はない。しかし、僕の頭の中では確固とした実像として存在していた。僕はずっと心の中で泣き叫んでいたように思う。実際に涙が出た。号泣に近い涙だった、と思う。恥ずかしくはない。彼女の姉に対する鎮魂の涙だったから。この天才少女には、重松 清の価値意識を正面から伝えたかったが、出来なかった。僕の言葉は、君は死ぬなよ、死んではいけない! という訴えに過ぎなかった。でも、人生とは夢を持ち、その夢は瓦解するかも知れないが、その瓦解した残骸の中から立ち上がるのも人生の醍醐味なんだよ、ということを本当は伝えたかったのに。彼女は、しかし月に1回は来てくれると約束してくれた。今日はそれで十分だった、といまは思っている。
さて、<若者よ、死んではならない>というブログに対して、ある青年がコメントをくれたので答えておく。彼のコメントはこうだ。<<はじめまして。自分は受験生で滑りどまった龍谷か近畿大学に行くことになりそうですが、学歴というのは就職や社会において大きな影響になるのでしょうか?まだ未熟すぎるので、さまざまな経験をされた方にぜひ聞きたいです。>> というものだが、学歴というのはむしろ自分がこだわってしまいがちなものではないか、と思う。入りたい学部さえ間違わなければ、滑り止めの大学でもよいではないか。世の中はもう学歴社会ではない。そういう時代は過ぎた。進学高や予備校がこだわっているのは、そこで飯を食っている人々が、生徒を集める必要があるからだ。人生、立場の違いで、言うことが異なってくる。それが事実である。ただ、青年よ、君にも夢を抱く必要はある。そしてその夢ははかなくも消えてしまうようなものかも知れないが、君はそこから立ち上がってくる醍醐味を人生から学びとることで、生きる喜びが増える。挫折というのは悪いことばかりではないのである。これは挫折ばかり体験している僕には自信を持って言える。だから、君、がんばりたまえ。
〇推薦図書「明日があるさ」重松 清著。朝日文庫。これはエッセイ集です。小説に飽きたらエッセイを。でも重松は読み続ける価値のある小説家です。声を大にして叫ばなければならないことを彼は書き続けているのですから。
重松は、一体人間にとって、真理とは何か? あるいは 善性とは何か? また 美的なものとは何を指すのか、というかなり古典的な価値意識を僕たちに繰り返し、伝えようとしているからである。簡単にまとめれば、<真・善・美>の世界観なのである。難解な哲学的用語を解読するように、哲学書を読む必要はない。この人が、人生におけて夢を抱く必要性と、夢は壊れるものであるけれども、その夢の挫折を乗り越えて、人間は立ち上がっていくのだ、ということを何度も、何度も重松は読者に訴えようとしているのである。
話を換える。今日、<若者よ、死んではならない>というブログで触れた自殺した天才的な若き女性の妹が僕に会いにきてくれた。僕がメールを送ったのである。それも弱々しく。できれば、君に会いたい、というふうに。この姉妹は精神的な繋がりが強く、深い姉妹であるので、姉の死に僕は大きなショックを受けたが、前にこの場に書いた<哲学的・文学的天才少女について>というブログの主人公であるこの妹は死なせてはならない、と強く思っていたからであった。しかし、僕に出来たことと言えば気弱なメールを送ることでしかなかった。だが、この天才少女は来てくれたのである。亡くなったお姉さんについては、この天才少女の口から漏れ出たイメージしか僕はない。しかし、僕の頭の中では確固とした実像として存在していた。僕はずっと心の中で泣き叫んでいたように思う。実際に涙が出た。号泣に近い涙だった、と思う。恥ずかしくはない。彼女の姉に対する鎮魂の涙だったから。この天才少女には、重松 清の価値意識を正面から伝えたかったが、出来なかった。僕の言葉は、君は死ぬなよ、死んではいけない! という訴えに過ぎなかった。でも、人生とは夢を持ち、その夢は瓦解するかも知れないが、その瓦解した残骸の中から立ち上がるのも人生の醍醐味なんだよ、ということを本当は伝えたかったのに。彼女は、しかし月に1回は来てくれると約束してくれた。今日はそれで十分だった、といまは思っている。
さて、<若者よ、死んではならない>というブログに対して、ある青年がコメントをくれたので答えておく。彼のコメントはこうだ。<<はじめまして。自分は受験生で滑りどまった龍谷か近畿大学に行くことになりそうですが、学歴というのは就職や社会において大きな影響になるのでしょうか?まだ未熟すぎるので、さまざまな経験をされた方にぜひ聞きたいです。>> というものだが、学歴というのはむしろ自分がこだわってしまいがちなものではないか、と思う。入りたい学部さえ間違わなければ、滑り止めの大学でもよいではないか。世の中はもう学歴社会ではない。そういう時代は過ぎた。進学高や予備校がこだわっているのは、そこで飯を食っている人々が、生徒を集める必要があるからだ。人生、立場の違いで、言うことが異なってくる。それが事実である。ただ、青年よ、君にも夢を抱く必要はある。そしてその夢ははかなくも消えてしまうようなものかも知れないが、君はそこから立ち上がってくる醍醐味を人生から学びとることで、生きる喜びが増える。挫折というのは悪いことばかりではないのである。これは挫折ばかり体験している僕には自信を持って言える。だから、君、がんばりたまえ。
〇推薦図書「明日があるさ」重松 清著。朝日文庫。これはエッセイ集です。小説に飽きたらエッセイを。でも重松は読み続ける価値のある小説家です。声を大にして叫ばなければならないことを彼は書き続けているのですから。