ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

カウンセラーがもどかしくなったら人生相談をやろうかな

2007-03-15 00:06:18 | Weblog
カウンセラーという仕事はある意味小難しい仕事である。それはいつも直截的に表現することが出来ない仕事だからである。カウンセリングや精神分析学のいろいろな学派の書物を読めば読むほど、カウンセリング自体がやたらと難しいことのように思えてくる一瞬がある。とりわけ僕のところに訪れて来てくださるクライアントの方々は、かの有名な河合隼雄が粉骨砕身して、臨床心理士の地位向上に努力して、その臨床心理士にかかって、その結果河合流のカウンセリングに飽き足らないで、やって来られる人たちが結構多い。勿論どのような世界においても創設者か、それに近い人々のねらいから、だんだんとずれていくことが多々あることはよく分かっている。河合隼雄が頑張ったお蔭で、大量の臨床心理士が社会で活躍している。が、問題は多いのである。何だか形だけのカウンセリングをこなしつつ身分だけは保障されている臨床心理士さんの数が増えたのではないか、と僕は正直、疑問に思っている。
臨床心理士になるには大学院も出ないといけないし、その検定試験もやたら難しいということは僕もよく承知している。けれど、何かが足りない。臨床心理士のやり方に不満を持っていらっしゃる方々の多くは、話しても話しても、それに対する満足な応答がない、というものである。たぶん、このような不満が出るのは、前記したように、もともとの発想から逸脱してしまった、形骸だけの臨床心理士さんが結構いらっしゃるからではないか、と思われるのである。だからこそ、僕のようなコトバの力を信じるカウンセラーが時には必要とされるのである。僕は無意味なコトバは使わないが、クライアントの話はきちんと聞きながら、それに応じたコトバがけをする。それが僕のカウンセリングのスタイルである。臨床心理士さんからは逆に僕に対する反論や批判もおありだろうが、どんな世界であれ、ただ一つのことが絶対的に正しいのではない。おまけに誤解したまま資格だけは取ってしまう人々もいるのが世の中というものである。
僕は河合隼雄という人物がどちらかというと好きではない。嫌いとまではいかない。かなり中途半端な感情を抱いている。何故かと言うと、彼の代表作は何と言っても「影の現象学」(河合隼雄著。講談社学術文庫)であるが、この本を読み始めると、河合隼雄という人物の思想の粗さが目立つのである。確かにこの人は物知りだなあ、とは感じさせるのだが、教養の深さと反比例するように、焦点がぼけているのが分かるのである。だから、基本的に僕はこういう人が信じられないのである。もっと辛辣なことを言うと、河合の書いていることは確かに知的好奇心をかきたてはするが、たぶん多くの臨床心理士さんにも理解できないことがたくさん書かれているはずである。勿論一般読者は途中で投げ出すような本の一つである。こういう知性の型をもった人が臨床心理士の底上げをやった、ということにもともと問題があるのである。
僕は心理カウンセラーとして、このままコトバの力を信じて縦横にコトバを駆使しよう、と思う。僕のカウンセリングを信じて来てくださるクライアントのみなさんがいる限り、僕は、僕自身でありたい、と思う。僕のカウンセリングのスタイルは崩さないでいよう、と思う。自分で言うのも何だが、最近確実に腕をあげた、と感じる。その根底には、僕のこれまでの文学と哲学の蓄積が人間洞察の大いなる道具になっているからである。さらに言うと、その底には、人生の終盤を迎えてしまった人間だけが抱ける、他者に対する愛が深まった、と思うからである。
もう少しもうろくして、カウンセラーとして使い物にならなくなったら、僕は迷わず人生相談をしよう、と考えている。それが僕の脳髄に蓄えられた知性の最後の使いどころか、と考えているからである。まあ、カウンセラーをして以来、金にはあまり縁がないから、人生相談で食えるとも思わない。でもそれでいいと思う。大病を患ったら、医療保険などに頼らずに、医療放棄するからである。延命治療など御免被りたいからである。そして僕なりの死を迎える。それでよいではないか。人生、こんなものだ。

〇推薦図書「恋は底ち"から」中島らも著。集英社文庫。人生最後の段階の人生相談は中島らものようなおおらかな人生相談者になりたい、と思います。それが僕の密やかな願いです。一読をお勧めします。