ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

孤独であるためのレッスン

2007-03-07 00:28:22 | 観想
○孤独であるためのレッスン

重松 清の作品を読んでいると、それはいくら読んでも終わりのない円環運動のように、僕の胸の中をえぐってくるように感じる。それは悪い感触では勿論ない。人間の、かつては抱いていたもっと単純で豊かな未来に対する夢を主人公たちはみんな持っていて、そして、迎えた21世紀という時代は確かにそれなりに進歩の跡は伺えるのだが、決して1970年代に感じた未来への素朴な想像とはまるで違っていた、ということに深い共感を受ける。一つ一つの作品から、同じ共通感覚を得ることが出来るのである。と言っては何だが、重松の作品から受ける印象はどうしても後味が切ない。それだけではなく、読者である僕自身の<いま>をどのように解釈すればよいのか、という課題を一冊読み終えるごとに与えられる有り様なのである。

もう手塚 治もいない。彼の描いて見せた未来像を21世紀の今になって信じることは出来ない。鉄腕アトムの登場するような世界は訪れはしなかった。むしろ、生活は多少便利にはなったような感覚はあるが、人間は当時より苦しんでいるように思う。当時子どもだった世代がいまや、社会から引退しようとしている時代である。所謂団塊の世代の人々が、高度経済成長を支えた中心的な役割を担ったとは言え、その名残りとは一体何だったのだろう? いまはその良い名残りを残した時代と言えるのだろうか? 日本人がカイシャ(と敢えてカタカナを使う)という特殊な感覚で、帰属し得た会社は、いまや終身雇用制度を物の見事に捨て去った。いまやもうカイシャに安心して帰属出来る時代ではなくなった。かと言って、日本はアメリカン・ドリームが現実におこり得る社会はない。逆に簡単にリストラが行なわれ、これまでのカイシャへの帰属意識は否応なく捨てねばならない。そして、その先は別の良き機会に恵まれているわけでは決してなく、生活の基盤そのものが危うくなってしまうだけの世の中になってしまった。

僕の危うい記憶の底から出てきた言葉はハイデガーが看破した、人には<世界から自己を解釈する傾向がある>というものである。つまり、現実の世界そのものの見方に馴染み、感じ方に慣れ、この方向から自己を解釈してしまう、という傾向が人間にはある、ということである。そしてその傾向を了解してしまうのでもある。もっと簡単に言うと人間は世間並に発想し、世間並の見方でしか自己を理解できず、世間並の生き方しか出来なくなってしまう、ということである。さらに換言すれば、世界が悪くなれば、悪くなった場所からしか自己を解釈できなくなる、ということである。そういう意味で21世紀に生きる僕たちも<世界から自己を解釈している>人間そのものになってはいないだろうか? かつての良きものを取り戻すという思考ではなく、過去よりさらに生き難くなった現代の価値意識から逃れるどころか、それに馴染み初めているのではないだろうか? たとえばサラリーマンにとって、いつリストラされるか分からない、という恐れは現実的な恐れであり、想像の中のそれでは決してなく、リストラされたら、一体自分はどうすればよいのか? という思考回路が普通の世の中の解釈の方法論として通用しているのではないか?

こんな世の中であればこそ、もう労働組合とか、革新政党とか、という幻想自体が、現実的な幻想そのものになりつつあるのではないか? かと言って何かを保守するべき価値観があるのか? と言えば、保守すべき実体そのものもない。自民党という保守政権がその愚かしさそのものを躍起になって法制化しようとしているではないか。

世界はこんなふうに、人間を主人公にしてくれない方向へと流れ続けている。だからこそ、人間は存在そのものの孤独感の中に封じ込められてしまいがちである。こういう世界から自己を解釈してしまうと、大抵の人間は過酷な孤独に立ち向かえなくなってしまう。毎年、毎年、自殺者が3万人を下らない国とは一体どういう国なのだろうか? 現代の若者の多くが自分に合ったカイシャを探そうとしてすぐに就職したカイシャを辞めてしまうのは、当然のことなのである。もうかつてのカイシャは存在しないからである。だからと言って、それまでより条件の良い会社が見つかるか、と言えば必ずしもそうではない。キャリアップできない古い土壌も日本の社会の中には過去の残骸のように生き残ってもいる。つまり職場を換える度に生活の質が落ちていくのである。これは明らかに終身雇用制度の残滓である。

こんな中途半端な世界を僕たちは世代ごとに少しずつ異なった感覚をもって、ハイデガーが看破したような生き方をせざるを得ないのが現代という時代である。すこぶる孤独な時代背景を背負っているのが、いまを生きる人間の時代性とも言える。ならば、僕たちはもっと深くその中に沈潜してやろうではないか! それが今日の僕の目論見である。人間が孤独の中を彷徨わなければならないとするなら、むしろ、その孤独を自己の中に取り込んで、孤独の主人公になってやってもよい。否、むしろ、孤独になるレッスンをこそ、いま個々の人間の世界像の中にきちんと据え直さなければならないのではないか、というのが、僕の主張である。世界に振り回されず、自己が世界の中心であるべきなのである。たとえ、嫌な時代に直面しているにせよ、人間が中心になれるような思考回路を持とうとしなければ、時代の波にさらわれてしまうどころか、殺されてしまう。現代における自殺の有り様とは、殺される側の人間の論理で成り立っているようなものだ。さて、みなさん、いまだからこそ、自らの創造的な孤独づくりのためのレッスンをはじめようではありませんか。そういう岐路に僕たちは立たされているのですから。

〇推薦図書「孤独であるためのレッスン」諸富祥彦著。NHKブックス。この本は僕が主張するよりは、もっと積極的な孤独のためのレッスンに関する書です。この時代をタフに生き抜くための、それ故に必要な孤独になる能力を身につけましょう、と言っていますよ。これは、たいへんですね。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃