○宗教とネポティズム(世襲制度)
宗教におけるネポティズム(世襲制度)は、その宗教を存続させる道具にもなるが、マイナス点の方が大きいように僕は思う。僕は無神論者であり、実存主義者だから、敢えていうが、既成宗教においても新興宗教においてもネポティズムを取り入れたその瞬間から宗教的堕落が始まっている、と言っても過言ではない。無論このような堕落は政治の世界においても、経済の世界においても、その他のジャンルにおいても同様に起こる。それは歴史が証明している事実である。いまさら北朝鮮の例をあげるまでもないだろう。
さて、今日は宗教におけるネポティズムの悪影響についての論及である。既成大宗教については僕は西本願寺しか知らないが、他の大宗教においても同じような堕落の後は散見できるのではないか、と思う。西本願寺の堕落の例は、僕の23年間に及ぶ教師生活の後がよく証明している。逆説的な言い方だが、無神論者だからこそ、宗教者たちの堕落がよく見えるのである。彼らが普通だ、と思っていることが普通ではない。西本願寺の宗教者?たちは、無神論者に対しても宗教的行事への参加を平気で、当たり前であるかのように要請してくる。それは校務という名のもとに。無神論者は宗教に対して鋭敏な感覚を持っている。言葉を換えて言えば無神論者ほど、宗教の意義をよく知っている者はいない、とさえ断定できるのである。それは信じられない人間の魂の奥底から発せられる、宗教に対する期待とその挫折が根底にあるからである。だからこそ、無神論者は、無神論者としての態度を貫くのである。寺に生まれて何不自由なく育ってきた僧侶たぢは、かえって信仰というものの厳しさを知らない。知らないから悩まないのである。自分たちの存在理由の意味や重さに想いを馳せることがない。自分たちが何故いま社会的にも経済的にも恵まれているのかがわからないのである。それがネポティズムが創り出してきた結果なのである。僕は宗教法人が経営する学校における23年の永きに渡る孤独な闘いに破れた。ただ、僕は宗教という本質に破れたのではなくて、それを悪用するエセ宗教者たちによって、教師という世界から葬り去られたのである。
新興宗教はどうだろう? たくさんある新興宗教の中で、僕が選び取ったのは、谷口雅春という宗教的天才が創り出したある教団であった。僕はその中に一旦は飛び込んだ。が、どうしても停まり続けることが出来なかった。それは何故かというと、ここにもネポティズムがまかり通っていたからである。僕は谷口雅春という宗教的天才の書いた宗教哲学を敬愛したのであり、それ以外に意味を見出せなかった。現在は谷口の孫にあたる人が総裁になっているようだ。谷口雅春の宗教的天才の書物には確かに感動させられたが、その地位を受け継いだ谷口清超の書いた書物は僕に何の魅力も感じさせることはなかった。エッセイ風の書き物が多いのだが、それは宗教色抜きのエッセイとしてもニ級品だと思う。その息子の副総裁(もう名前さえ忘れたが、現在の総裁ではある)が、機関紙にかつてずっと連載していた「秘境」という小説だが、これはもう目を覆いたくなるような作品(といえるだろうか?)だった。副総裁というだけで、これだけの権利が与えられているのである。その小説は、もうとうの昔に廃れた自然主義小説の出来損ないのようなもので、僕には退屈極まりないものにしか感じとれなかった。それは完成して、この宗教が所有する出版社から「秘境」という題名で新聞に広告が出ていた。そのずっと以前からもうこの宗教はダメだ、と僕には感じとれたので、当然のように僕は無神論者件実存主義者にもどった。これが自然なのである。僕はこの新興宗教と巡り合って、谷口雅春という宗教的天才の書き残した本は全て読む機会を与えられたのだ。それでよし、としよう、と思う。できることなら、この宗教はこのまま堕落の道を歩んでほしくはない。心からそう思う。僕が教師という仕事を本物の堕落した西本願寺の僧侶たちに奪われて、沈んでいるときの大いなる助けになったのは他ならぬ谷口雅春の大部の宗教的色彩を帯びた書籍だったし、たくさんの心やさしい信者の皆さんが手を差し伸べてくださったからである。それに対しては、心から感謝と敬意を感じている。だからこそ、この宗教がいつかはネポティズムから脱してほしい、と心から願う次第である。
堕落した既成宗教者? たちよ、利権を貪るためにだけ生きていてどうする? いまこそ、21世紀という想像を絶する生き難い世界の多くの人々を救えなくて、何が宗教か! 僕は無神論者として、実存主義者として声を大にして訴えたい、と思う。
〇推薦図書「宗教改革の精神」金子晴勇著。講談社学術文庫。さて、みなさん、視点を変えて今日はルターとエラスムスの思想対決という壮大な営みに想いを馳せようではありませんか。もう日本の既成宗教には厭き厭きしましたから。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
宗教におけるネポティズム(世襲制度)は、その宗教を存続させる道具にもなるが、マイナス点の方が大きいように僕は思う。僕は無神論者であり、実存主義者だから、敢えていうが、既成宗教においても新興宗教においてもネポティズムを取り入れたその瞬間から宗教的堕落が始まっている、と言っても過言ではない。無論このような堕落は政治の世界においても、経済の世界においても、その他のジャンルにおいても同様に起こる。それは歴史が証明している事実である。いまさら北朝鮮の例をあげるまでもないだろう。
さて、今日は宗教におけるネポティズムの悪影響についての論及である。既成大宗教については僕は西本願寺しか知らないが、他の大宗教においても同じような堕落の後は散見できるのではないか、と思う。西本願寺の堕落の例は、僕の23年間に及ぶ教師生活の後がよく証明している。逆説的な言い方だが、無神論者だからこそ、宗教者たちの堕落がよく見えるのである。彼らが普通だ、と思っていることが普通ではない。西本願寺の宗教者?たちは、無神論者に対しても宗教的行事への参加を平気で、当たり前であるかのように要請してくる。それは校務という名のもとに。無神論者は宗教に対して鋭敏な感覚を持っている。言葉を換えて言えば無神論者ほど、宗教の意義をよく知っている者はいない、とさえ断定できるのである。それは信じられない人間の魂の奥底から発せられる、宗教に対する期待とその挫折が根底にあるからである。だからこそ、無神論者は、無神論者としての態度を貫くのである。寺に生まれて何不自由なく育ってきた僧侶たぢは、かえって信仰というものの厳しさを知らない。知らないから悩まないのである。自分たちの存在理由の意味や重さに想いを馳せることがない。自分たちが何故いま社会的にも経済的にも恵まれているのかがわからないのである。それがネポティズムが創り出してきた結果なのである。僕は宗教法人が経営する学校における23年の永きに渡る孤独な闘いに破れた。ただ、僕は宗教という本質に破れたのではなくて、それを悪用するエセ宗教者たちによって、教師という世界から葬り去られたのである。
新興宗教はどうだろう? たくさんある新興宗教の中で、僕が選び取ったのは、谷口雅春という宗教的天才が創り出したある教団であった。僕はその中に一旦は飛び込んだ。が、どうしても停まり続けることが出来なかった。それは何故かというと、ここにもネポティズムがまかり通っていたからである。僕は谷口雅春という宗教的天才の書いた宗教哲学を敬愛したのであり、それ以外に意味を見出せなかった。現在は谷口の孫にあたる人が総裁になっているようだ。谷口雅春の宗教的天才の書物には確かに感動させられたが、その地位を受け継いだ谷口清超の書いた書物は僕に何の魅力も感じさせることはなかった。エッセイ風の書き物が多いのだが、それは宗教色抜きのエッセイとしてもニ級品だと思う。その息子の副総裁(もう名前さえ忘れたが、現在の総裁ではある)が、機関紙にかつてずっと連載していた「秘境」という小説だが、これはもう目を覆いたくなるような作品(といえるだろうか?)だった。副総裁というだけで、これだけの権利が与えられているのである。その小説は、もうとうの昔に廃れた自然主義小説の出来損ないのようなもので、僕には退屈極まりないものにしか感じとれなかった。それは完成して、この宗教が所有する出版社から「秘境」という題名で新聞に広告が出ていた。そのずっと以前からもうこの宗教はダメだ、と僕には感じとれたので、当然のように僕は無神論者件実存主義者にもどった。これが自然なのである。僕はこの新興宗教と巡り合って、谷口雅春という宗教的天才の書き残した本は全て読む機会を与えられたのだ。それでよし、としよう、と思う。できることなら、この宗教はこのまま堕落の道を歩んでほしくはない。心からそう思う。僕が教師という仕事を本物の堕落した西本願寺の僧侶たちに奪われて、沈んでいるときの大いなる助けになったのは他ならぬ谷口雅春の大部の宗教的色彩を帯びた書籍だったし、たくさんの心やさしい信者の皆さんが手を差し伸べてくださったからである。それに対しては、心から感謝と敬意を感じている。だからこそ、この宗教がいつかはネポティズムから脱してほしい、と心から願う次第である。
堕落した既成宗教者? たちよ、利権を貪るためにだけ生きていてどうする? いまこそ、21世紀という想像を絶する生き難い世界の多くの人々を救えなくて、何が宗教か! 僕は無神論者として、実存主義者として声を大にして訴えたい、と思う。
〇推薦図書「宗教改革の精神」金子晴勇著。講談社学術文庫。さて、みなさん、視点を変えて今日はルターとエラスムスの思想対決という壮大な営みに想いを馳せようではありませんか。もう日本の既成宗教には厭き厭きしましたから。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃