ユースケ・サンタマリア演じる編集者の夫と石田ゆり子演じるアパレル関係会社のバリバリに仕事が出来る妻との共働きの夫婦が、今夜、ドラマの中で、離婚した。もともとユースケ・サンタマリア演じる夫が、かつて浮気するが、妻の石田ゆり子はそのことに気づきながらも、夫を許している。夫役のユースケ・サンタマリアの人間性は心優しく、少し気弱なたぶん世の中にいくらでもいそうな男性だが、石田ゆり子は、ある意味、出来すぎた妻としてこの物語に登場する。妻としても一児の母親としても仕事の面においても出来過ぎなのである。たぶんその心の底には夫の浮気に対する寂しい感情も在った、と感じさせる見事な演技である。出来すぎた妻であるからこその、心の隙間に同じ業界の藤井フミヤ演じる切れ者の男性(この男性も家庭では愛妻家である)と一夜の過ちを犯してしまう。奥さんがたまたま忘れていった携帯電話のメールで、ユースケ・サンタマリアは妻の浮気? を知らされてしまう。携帯電話というのはクセ物だ、と思う。これは僕の勝手な推測だが、世の中のこういう関係のねじれが表沙汰になるのは、妻か、夫が、相手方の携帯の電話登録か、メールの内容を読んで、二人の関係が崩れていく、ということが多いのではないか。文明の力の皮肉だ、と僕は思う。
来週の展開はどうなるかは知らない。が、今週のドラマは、結局、この夫婦は離婚することになる。そして、強い雨の降りしきる日に夫のユースケ・サンタマリアが離婚届けを出す。子どもは妻に引き取られ、妻のご両親のもとに、ユースケ・サンタマリア演じるところの夫は、自分たちは離婚するが、妻はご両親が頼りなので、よろしくお願いする旨を、頭を畳に擦り付けて頼む。妻のご両親は夫役のユースケ・サンタマリアに同情的で、もう自分の娘とは縁を切る、とまで言ってくれる。そこを夫はそうしないで、妻の力になってほしい、と言って頼み込むのである。石田ゆり子は別れた後もそつなく仕事をこなす。上司にそのことを褒められる、その時、石田ゆり子(と言ってもいいだろうか)は、私、がんばります。これまで肩に力が入りすぎました。だから、がんばりすぎずにがんばります、と答える。夫のユースケ・サンタマリアも元気に仕事をこなす。だが、その出版社は大手の出版社に吸収されるという話を上司から聞いたところで、今日のドラマは終わった。
僕は役者としてのユースケ・サンタマリアも好きだし、石田ゆり子も好きだ。そして、この二人の役どころは、それぞれぴったりと当てはまった感じのするドラマだ、と思う。二人の演じる夫婦はともに優し過ぎるし、誠実であり過ぎるのだ、と思う。こんな二人は実生活の上では決して離婚などしない。こんな爽やかで、哀しすぎる離婚は実生活上は存在しない、と僕は同じ離婚経験者として思う。だいたいにおいて、この二人にはとりもどせないと思い込んではいるが、愛の炎が燃え続けている。そこに憎悪という悪魔的存在はない。夫婦という存在が壊れてしまうのは結局は、この悪魔的存在である憎悪という怪物が、永年築いてきた夫婦の精神の根底をまず破壊する。二人の間の愛は、その力の埒外に置かれてしまうことになる。夫婦の絆はじわじわと壊れていく場合もあるが、古いビルディングがダイナマイトで破壊されるように一挙に崩壊する場合もある。それが愛の崩壊のあり方、だ。もう二人の関係性の中に優しさのかけらも残っていない。血が繋がっていようと、いまいと、人間における関係性が根底から壊れるときの、これがある意味、正しい崩壊のあり方である。もう誰にも止められはしない。それが現実の過酷さ、である。そしてそれが、絆というものの崩壊感覚なのである。
その意味で、このドラマはユースケ・サンタマリアも石田ゆり子も、その他の登場人物も優しすぎるのである。現代における大人のファンタジーだ。ユースケ・サンタマリアが置かれた職場のような人間関係が、現実に存在することはたぶんない。だからこそ、現実には職場の人間関係で人は簡単に挫折し、夢が描けなくなり、自分の人生、こんなはずではなかった、という想いに苛まれるのである。僕たちは、もうドラマの中でしか、こんな牧歌的な人間の関係性はもてないのであろう。それが現代に生きる人間が背負った、少しうるさくはあったが、過去には確実に存在したご近所さんや、かなり横暴な夫と、それを許す妻のイメージをなくしてしまった宿命なのかも知れない。実存主義者の僕が宿命などという言葉を使ってはいけないのかも知れないが、こんなドラマを観てしまうとつい、オセンチになるのが、何故か僕には少し誇らしい気分でもある。これでいいのだ、と思うのである。
〇推薦図書「リッスン」(ジャズとロックと青春の日々)中山康樹著。講談社文庫。著者の中山は1952年生まれの音楽評論家です。僕は1953年生まれですから、同時代人です。この小説を読みながら、そういえば、遠い青春の頃、ジャズとロックは僕の周りにも溢れていて、まだ人間が夢を追いかけられる時代の中に確実にいたように感じます。感傷です。でも、こういう小説が読みたい時も僕にはあります。同じ心境になられた方にはお勧めの一冊です。
来週の展開はどうなるかは知らない。が、今週のドラマは、結局、この夫婦は離婚することになる。そして、強い雨の降りしきる日に夫のユースケ・サンタマリアが離婚届けを出す。子どもは妻に引き取られ、妻のご両親のもとに、ユースケ・サンタマリア演じるところの夫は、自分たちは離婚するが、妻はご両親が頼りなので、よろしくお願いする旨を、頭を畳に擦り付けて頼む。妻のご両親は夫役のユースケ・サンタマリアに同情的で、もう自分の娘とは縁を切る、とまで言ってくれる。そこを夫はそうしないで、妻の力になってほしい、と言って頼み込むのである。石田ゆり子は別れた後もそつなく仕事をこなす。上司にそのことを褒められる、その時、石田ゆり子(と言ってもいいだろうか)は、私、がんばります。これまで肩に力が入りすぎました。だから、がんばりすぎずにがんばります、と答える。夫のユースケ・サンタマリアも元気に仕事をこなす。だが、その出版社は大手の出版社に吸収されるという話を上司から聞いたところで、今日のドラマは終わった。
僕は役者としてのユースケ・サンタマリアも好きだし、石田ゆり子も好きだ。そして、この二人の役どころは、それぞれぴったりと当てはまった感じのするドラマだ、と思う。二人の演じる夫婦はともに優し過ぎるし、誠実であり過ぎるのだ、と思う。こんな二人は実生活の上では決して離婚などしない。こんな爽やかで、哀しすぎる離婚は実生活上は存在しない、と僕は同じ離婚経験者として思う。だいたいにおいて、この二人にはとりもどせないと思い込んではいるが、愛の炎が燃え続けている。そこに憎悪という悪魔的存在はない。夫婦という存在が壊れてしまうのは結局は、この悪魔的存在である憎悪という怪物が、永年築いてきた夫婦の精神の根底をまず破壊する。二人の間の愛は、その力の埒外に置かれてしまうことになる。夫婦の絆はじわじわと壊れていく場合もあるが、古いビルディングがダイナマイトで破壊されるように一挙に崩壊する場合もある。それが愛の崩壊のあり方、だ。もう二人の関係性の中に優しさのかけらも残っていない。血が繋がっていようと、いまいと、人間における関係性が根底から壊れるときの、これがある意味、正しい崩壊のあり方である。もう誰にも止められはしない。それが現実の過酷さ、である。そしてそれが、絆というものの崩壊感覚なのである。
その意味で、このドラマはユースケ・サンタマリアも石田ゆり子も、その他の登場人物も優しすぎるのである。現代における大人のファンタジーだ。ユースケ・サンタマリアが置かれた職場のような人間関係が、現実に存在することはたぶんない。だからこそ、現実には職場の人間関係で人は簡単に挫折し、夢が描けなくなり、自分の人生、こんなはずではなかった、という想いに苛まれるのである。僕たちは、もうドラマの中でしか、こんな牧歌的な人間の関係性はもてないのであろう。それが現代に生きる人間が背負った、少しうるさくはあったが、過去には確実に存在したご近所さんや、かなり横暴な夫と、それを許す妻のイメージをなくしてしまった宿命なのかも知れない。実存主義者の僕が宿命などという言葉を使ってはいけないのかも知れないが、こんなドラマを観てしまうとつい、オセンチになるのが、何故か僕には少し誇らしい気分でもある。これでいいのだ、と思うのである。
〇推薦図書「リッスン」(ジャズとロックと青春の日々)中山康樹著。講談社文庫。著者の中山は1952年生まれの音楽評論家です。僕は1953年生まれですから、同時代人です。この小説を読みながら、そういえば、遠い青春の頃、ジャズとロックは僕の周りにも溢れていて、まだ人間が夢を追いかけられる時代の中に確実にいたように感じます。感傷です。でも、こういう小説が読みたい時も僕にはあります。同じ心境になられた方にはお勧めの一冊です。