僕はいっとき、生きるのがもう嫌になって、何とかこの世界に停まることはできないか、と必死になって救いを求めていた時期がある。そのとき、僕は本屋で谷口雅春の書いた一般者向きの、宗教色を弱めた書物を手にとった。僕は何故かその本を購入することになった。読み進めるうちに、谷口の宗教的色彩が僕の頭の中で鮮やかに広がりはじめた。正直、この人は天才だ、と思った。その瞬間から、数カ月間、僕は谷口雅春の手に入る限りの著作を読みあさった。そして、彼のはじめた「生長の家」という宗教にも興味をもった。僕はこれで救われるかも知れない、と思った。そのとき、僕はすでに無神論者ではなくなっていた。
僕は京都の左京区にある「生長の家」本部に飛び込んだ。そしてすぐにでもこの宗教に入れてもらう旨、息せき切って訴えた。そこで出会った最初の方が、僕のあるブログにもコメントをくださった恩人である。すばらしい方である。さらに僕は京都の中京区に住んでいるので、その誌友会(月1回集まって講師を招いて勉強会をするのだ)に入るように薦められた。当然僕は参加することになった。お世話してくださった家の方々もみなさん、一人、一人がすばらしかった。いまでもこの人々に対する感謝の念は忘れてはいない。またこの時点で、僕は西本願寺という宗教的偽善に永年反抗し続けてきたことすら馬鹿らしくなったくらいであった。僕はその誌友会の副会長? だったか、ともかくその方々に認めていただいて、名前だけではあったが、大切な役割をいただいた。これで僕は救われる、あの僕の、母親の、父親の胸を刺し貫いた、汚らしい血が、僕の裡から浄化されるのだ、と僕は感じた。
しかし、谷口雅春の書いた膨大な量の書物を読み尽くした頃、その立場を受け継いだ谷口清超の書物を読みはじめた。つまらなかった。谷口雅春の書物の域ではなかった。分かりやすく書いたつもりであろうが、全てがエッセイとしても二級品だった。谷口清超は、谷口雅春の娘の入り婿であった、そして、ここで生長の家も世襲制(ネポティズム)をとるはめになっていたことが、僕の西本願寺という世襲制度の創った怪物の存在を思い出すハメになった。宗教というものがネポティズムに陥ったとき、その瞬間から宗教的退落がはじまる、という僕の予感が当たったような気がした。僕はそれでも辛抱した。谷口清超のこれも膨大な殆どがエッセイ風の書物を頑張って読んだ。しかし、僕はそこからどのような意味においても谷口雅春から得た宗教的啓示を受けとることが出来なかった。もう名前も覚えていないが、谷口清超の息子が、月刊誌に「秘境」という小説を連載していた。読もうとしたが、その努力自体が不可能な代物だった。それはもう廃れ果てた自然主義小説の、質の悪い小説だった。僕は、もう「生長の家」という宗教は谷口雅春の死をもって、消滅したのだ、と感じた。確かに組織は実在している。しかし、それらの組織は、谷口雅春が残した宗教的・知的財産を食いつぶしつつ生き残っているようなものであった。たぶん、現在の誌友会は谷口雅春の頃の誌友会とは形は似ていても、その実質はまるで違ったものになっているはずである。
もう一つの出来事がある。僕の知り合いの中年の女性のことだ。両親は熱烈な「生長の家」の信者だった。そして、彼女の両親はもう宗教的求心力がなくなった宗教から、親子のあり方や人間観などをことごとく間違って解釈して、誤解して、実践した。その壮大な誤謬が、この女性を見事なほどの精神疾患持ちの、人ともまともに口が聞けぬ女性にしてしまった。そして、この女性は精神的な傲岸さだけを身につけ、救いを家庭の外に見出そうとした。宗教的堕落が、やはり個々の部分に現れ初めていることを深く実感せざるを得なかった。もうこういう一家の顔も見たくはないが、僕の確信が当たったという点で、僕の心はますますこの宗教とは離れていった。さらに、彼女は「生長の家」の偉い講師だけが集まる学習会に、彼女に某かの能力があるとのことで、参加資格もないのに参加させることまでした。講師たちが、このレベルにまで落ちてしまったのだ。この女性は単なる身勝手な自分だけが可愛いだけの被害者づらした人間に過ぎないというのに、だ。
「生長の家」には西本願寺のようなエセ物の仏像などはない。ただ、谷口雅春の手による「実相」という掛け軸があるだけだった。僕は谷口雅春の手による「実相」のコピーを額に入れて飾っていた。なぜか、その字体がとても素敵だったからである。もう宗教的な入れ込み方はしなかったが、その額だけは残っていた。が、上記の女性やその家族、その両親の教育のあり方がさらにその「実相」という字体まで認めなくさせた。僕は昨夜、その額を外した。そして、僕はどのような意味においても、「生長の家」とは縁が切れた。これが僕の宗教との出会いと別れの顛末である。そして、僕は無神論者であり実存主義者として生き直すことになった。
〇推薦図書「「悩み」の正体」香山リカ著。岩波新書。精神科医の香山リカが書いた本の中でも最も親しみやすく、内容も人間関係・仕事/経済・恋愛/結婚/子育て・身体/健康・こころ・社会・人生、といった総花的な内容で語られた分かりやすくも切ない内容の本です。一読の価値はあると思いますよろしければどうぞ。
僕は京都の左京区にある「生長の家」本部に飛び込んだ。そしてすぐにでもこの宗教に入れてもらう旨、息せき切って訴えた。そこで出会った最初の方が、僕のあるブログにもコメントをくださった恩人である。すばらしい方である。さらに僕は京都の中京区に住んでいるので、その誌友会(月1回集まって講師を招いて勉強会をするのだ)に入るように薦められた。当然僕は参加することになった。お世話してくださった家の方々もみなさん、一人、一人がすばらしかった。いまでもこの人々に対する感謝の念は忘れてはいない。またこの時点で、僕は西本願寺という宗教的偽善に永年反抗し続けてきたことすら馬鹿らしくなったくらいであった。僕はその誌友会の副会長? だったか、ともかくその方々に認めていただいて、名前だけではあったが、大切な役割をいただいた。これで僕は救われる、あの僕の、母親の、父親の胸を刺し貫いた、汚らしい血が、僕の裡から浄化されるのだ、と僕は感じた。
しかし、谷口雅春の書いた膨大な量の書物を読み尽くした頃、その立場を受け継いだ谷口清超の書物を読みはじめた。つまらなかった。谷口雅春の書物の域ではなかった。分かりやすく書いたつもりであろうが、全てがエッセイとしても二級品だった。谷口清超は、谷口雅春の娘の入り婿であった、そして、ここで生長の家も世襲制(ネポティズム)をとるはめになっていたことが、僕の西本願寺という世襲制度の創った怪物の存在を思い出すハメになった。宗教というものがネポティズムに陥ったとき、その瞬間から宗教的退落がはじまる、という僕の予感が当たったような気がした。僕はそれでも辛抱した。谷口清超のこれも膨大な殆どがエッセイ風の書物を頑張って読んだ。しかし、僕はそこからどのような意味においても谷口雅春から得た宗教的啓示を受けとることが出来なかった。もう名前も覚えていないが、谷口清超の息子が、月刊誌に「秘境」という小説を連載していた。読もうとしたが、その努力自体が不可能な代物だった。それはもう廃れ果てた自然主義小説の、質の悪い小説だった。僕は、もう「生長の家」という宗教は谷口雅春の死をもって、消滅したのだ、と感じた。確かに組織は実在している。しかし、それらの組織は、谷口雅春が残した宗教的・知的財産を食いつぶしつつ生き残っているようなものであった。たぶん、現在の誌友会は谷口雅春の頃の誌友会とは形は似ていても、その実質はまるで違ったものになっているはずである。
もう一つの出来事がある。僕の知り合いの中年の女性のことだ。両親は熱烈な「生長の家」の信者だった。そして、彼女の両親はもう宗教的求心力がなくなった宗教から、親子のあり方や人間観などをことごとく間違って解釈して、誤解して、実践した。その壮大な誤謬が、この女性を見事なほどの精神疾患持ちの、人ともまともに口が聞けぬ女性にしてしまった。そして、この女性は精神的な傲岸さだけを身につけ、救いを家庭の外に見出そうとした。宗教的堕落が、やはり個々の部分に現れ初めていることを深く実感せざるを得なかった。もうこういう一家の顔も見たくはないが、僕の確信が当たったという点で、僕の心はますますこの宗教とは離れていった。さらに、彼女は「生長の家」の偉い講師だけが集まる学習会に、彼女に某かの能力があるとのことで、参加資格もないのに参加させることまでした。講師たちが、このレベルにまで落ちてしまったのだ。この女性は単なる身勝手な自分だけが可愛いだけの被害者づらした人間に過ぎないというのに、だ。
「生長の家」には西本願寺のようなエセ物の仏像などはない。ただ、谷口雅春の手による「実相」という掛け軸があるだけだった。僕は谷口雅春の手による「実相」のコピーを額に入れて飾っていた。なぜか、その字体がとても素敵だったからである。もう宗教的な入れ込み方はしなかったが、その額だけは残っていた。が、上記の女性やその家族、その両親の教育のあり方がさらにその「実相」という字体まで認めなくさせた。僕は昨夜、その額を外した。そして、僕はどのような意味においても、「生長の家」とは縁が切れた。これが僕の宗教との出会いと別れの顛末である。そして、僕は無神論者であり実存主義者として生き直すことになった。
〇推薦図書「「悩み」の正体」香山リカ著。岩波新書。精神科医の香山リカが書いた本の中でも最も親しみやすく、内容も人間関係・仕事/経済・恋愛/結婚/子育て・身体/健康・こころ・社会・人生、といった総花的な内容で語られた分かりやすくも切ない内容の本です。一読の価値はあると思いますよろしければどうぞ。