だいぶ前にこの場で紹介した<哲学的・文学的青年>のことを書いた。その青年とは、ずっとメールと電話で通じ合って来たが、このところ僕のメールに返信がなかった。心配だった。大体、天才的な存在というのは何をやらかすのか、凡庸な僕なんかには分からないことがあるからである。電話の向こうの彼の声はくぐもっていた。落ち込んでいる、と言う。僕は正直嬉しかった。落ち込んだままの彼が、その落ち込んだ自分を僕にさらけ出したのだ。それは僕という人間を信用してくれている証左だろうから。彼は25歳にして、生の生き難さを体感している青年である。挫折体験をいまや、乗り切ろうとしている真っ只中にいる青年なのである。結局何を話したのか、よく覚えていないが、かなり僕自身は真剣に彼の話に耳を傾けていたつもりである。友人だからだ。それが最低限の彼に対するまっとうな態度であろう、と思ったからである。
彼には小阪修平という日本の若き哲学者で、僕はかなり高い評価をしている哲学者の「記号の死」(作品社)と、イギリスの左翼系の文芸評論家というか哲学者のテリー・イーグルトンの「哲学とは何か」(平凡社)の2冊を薦めておいた。たぶん、彼は生真面目に読んでくれることだろう。そういう青年なのである。彼にはこの場に何度も書いている重松 清の作品は敢えて薦めなかった。彼の気持ちが動いて読む気になればそれでよいし、そうでないなら、まだ読まなくてよい作家だと思ったからである。
重松は僕より丁度10歳年下の作家である。そしてやはり登場人物の主人公に当たる人々は30代後半から40代前半の人々の心理をよく描ききっている、と思うが、しかし、重松の凄さは、僕のような50代の中高年層にはぐっと来る作家なのである。たぶん若者は十分な感情移入は出来ない。40代前半の人々も、生活の中に埋もれて頑張っている最中だから、よほど成熟度の高い人でないと、重松の人生における切なさ、取り返しのつかなさ、に共感しつつ、それでも人生を生きねばならない、と感得できる人は少ないのではないか、と思う。彼は多作の作家であり、人気の高い作家ではあるが、彼の本質を掴んで読んでいる人はたぶん団塊の世代とそのほんの少し年下の世代だろう、と僕は思っている。彼が人気作家であるのは、プロットの運びの巧さと切なさだけは、人生にすでに倦み疲れた人生の後半期を生きている僕たちのような世代だけに限らず、若者にもファンをつくってしまうのであろう、と思う。
さて、この間から何度かフランスの哲学者のことを書いてきたが、やはり抜かして通れない思想は、デ・コンストラクション(脱構築)という思想性である。それは近代思想に見られるような構築の論理でもなく、やたら元気な表層的な作家たちの、たぶん彼らにも認識はされていない、再構築でもない。デ・コンストラクションとはあくまで、構築という概念をもう逸脱し続けるような思想性であり、これは20世紀の後半期に生まれて21世紀へと受け継がれた思想性である。簡単に言えば、お茶の水博士も存在せず、鉄腕アトムも存在しない21世紀という未来が、現代となったいま、もう僕たちは構築するという虚妄の世界像から限りなく逸脱していく過程で行き着く思想性に巡り合うことに期待をかけてもよい時期なのである。そういう意味で僕は、デ・コンストラクションという思想性に想いを馳せているのである。また期待もしているのである。
デ・コンストラクションを意識せずに作品として表現しているのが、一見読みやすい印象を与える重松 清なのである。しかし、彼は決して大衆作家などではない。彼の作品は近代に於ける夢の挫折をいかんなく表現し、その挫折を超えて、再構築という単純な思想性を読者に語りかけるのでは決してない。彼の作品の結論は常に、読者の判断に委ねられている。それは彼が単なる娯楽作家ではないことを否応なく証明している証左である。重松は、新たな精神性の価値意識をすでに人生の後半期を迎えてしまった世代に、20世紀とは異なった生の価値意識を提出しているのではないか、と僕は思っている。それはちょうど、精神のデ・コンストラクションに相当する思想性なのだ、と僕には直観的に分かるのである。何度か夢の挫折を味わった登場人物たちの精神のイニシエーションストーリーを描く作家であると書いてきたが、そのイニシエーションには、フランス哲学がこれまで21世紀に生きる人間たちに突きつけてきた、脱構築という思想性が透けて見えるのである。
直木賞作家に「ビタミンF」でなったが、選考委員たちはそこまで考えてこの人を選んだのか、少し疑問に思うこの頃なのである。
〇推薦図書「エイジ」重松 清著。新潮文庫。イニシエーションストーリーの形式はとっているのですが、深読みをすると、確かに重松は脱構築の思想性を物語の中に散りばめているような気がします。また本文中の作品についても興味が湧いた方はどうぞ。
彼には小阪修平という日本の若き哲学者で、僕はかなり高い評価をしている哲学者の「記号の死」(作品社)と、イギリスの左翼系の文芸評論家というか哲学者のテリー・イーグルトンの「哲学とは何か」(平凡社)の2冊を薦めておいた。たぶん、彼は生真面目に読んでくれることだろう。そういう青年なのである。彼にはこの場に何度も書いている重松 清の作品は敢えて薦めなかった。彼の気持ちが動いて読む気になればそれでよいし、そうでないなら、まだ読まなくてよい作家だと思ったからである。
重松は僕より丁度10歳年下の作家である。そしてやはり登場人物の主人公に当たる人々は30代後半から40代前半の人々の心理をよく描ききっている、と思うが、しかし、重松の凄さは、僕のような50代の中高年層にはぐっと来る作家なのである。たぶん若者は十分な感情移入は出来ない。40代前半の人々も、生活の中に埋もれて頑張っている最中だから、よほど成熟度の高い人でないと、重松の人生における切なさ、取り返しのつかなさ、に共感しつつ、それでも人生を生きねばならない、と感得できる人は少ないのではないか、と思う。彼は多作の作家であり、人気の高い作家ではあるが、彼の本質を掴んで読んでいる人はたぶん団塊の世代とそのほんの少し年下の世代だろう、と僕は思っている。彼が人気作家であるのは、プロットの運びの巧さと切なさだけは、人生にすでに倦み疲れた人生の後半期を生きている僕たちのような世代だけに限らず、若者にもファンをつくってしまうのであろう、と思う。
さて、この間から何度かフランスの哲学者のことを書いてきたが、やはり抜かして通れない思想は、デ・コンストラクション(脱構築)という思想性である。それは近代思想に見られるような構築の論理でもなく、やたら元気な表層的な作家たちの、たぶん彼らにも認識はされていない、再構築でもない。デ・コンストラクションとはあくまで、構築という概念をもう逸脱し続けるような思想性であり、これは20世紀の後半期に生まれて21世紀へと受け継がれた思想性である。簡単に言えば、お茶の水博士も存在せず、鉄腕アトムも存在しない21世紀という未来が、現代となったいま、もう僕たちは構築するという虚妄の世界像から限りなく逸脱していく過程で行き着く思想性に巡り合うことに期待をかけてもよい時期なのである。そういう意味で僕は、デ・コンストラクションという思想性に想いを馳せているのである。また期待もしているのである。
デ・コンストラクションを意識せずに作品として表現しているのが、一見読みやすい印象を与える重松 清なのである。しかし、彼は決して大衆作家などではない。彼の作品は近代に於ける夢の挫折をいかんなく表現し、その挫折を超えて、再構築という単純な思想性を読者に語りかけるのでは決してない。彼の作品の結論は常に、読者の判断に委ねられている。それは彼が単なる娯楽作家ではないことを否応なく証明している証左である。重松は、新たな精神性の価値意識をすでに人生の後半期を迎えてしまった世代に、20世紀とは異なった生の価値意識を提出しているのではないか、と僕は思っている。それはちょうど、精神のデ・コンストラクションに相当する思想性なのだ、と僕には直観的に分かるのである。何度か夢の挫折を味わった登場人物たちの精神のイニシエーションストーリーを描く作家であると書いてきたが、そのイニシエーションには、フランス哲学がこれまで21世紀に生きる人間たちに突きつけてきた、脱構築という思想性が透けて見えるのである。
直木賞作家に「ビタミンF」でなったが、選考委員たちはそこまで考えてこの人を選んだのか、少し疑問に思うこの頃なのである。
〇推薦図書「エイジ」重松 清著。新潮文庫。イニシエーションストーリーの形式はとっているのですが、深読みをすると、確かに重松は脱構築の思想性を物語の中に散りばめているような気がします。また本文中の作品についても興味が湧いた方はどうぞ。