ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

デ・コンストラクションという精神性

2007-03-10 19:37:13 | Weblog
だいぶ前にこの場で紹介した<哲学的・文学的青年>のことを書いた。その青年とは、ずっとメールと電話で通じ合って来たが、このところ僕のメールに返信がなかった。心配だった。大体、天才的な存在というのは何をやらかすのか、凡庸な僕なんかには分からないことがあるからである。電話の向こうの彼の声はくぐもっていた。落ち込んでいる、と言う。僕は正直嬉しかった。落ち込んだままの彼が、その落ち込んだ自分を僕にさらけ出したのだ。それは僕という人間を信用してくれている証左だろうから。彼は25歳にして、生の生き難さを体感している青年である。挫折体験をいまや、乗り切ろうとしている真っ只中にいる青年なのである。結局何を話したのか、よく覚えていないが、かなり僕自身は真剣に彼の話に耳を傾けていたつもりである。友人だからだ。それが最低限の彼に対するまっとうな態度であろう、と思ったからである。
彼には小阪修平という日本の若き哲学者で、僕はかなり高い評価をしている哲学者の「記号の死」(作品社)と、イギリスの左翼系の文芸評論家というか哲学者のテリー・イーグルトンの「哲学とは何か」(平凡社)の2冊を薦めておいた。たぶん、彼は生真面目に読んでくれることだろう。そういう青年なのである。彼にはこの場に何度も書いている重松 清の作品は敢えて薦めなかった。彼の気持ちが動いて読む気になればそれでよいし、そうでないなら、まだ読まなくてよい作家だと思ったからである。
重松は僕より丁度10歳年下の作家である。そしてやはり登場人物の主人公に当たる人々は30代後半から40代前半の人々の心理をよく描ききっている、と思うが、しかし、重松の凄さは、僕のような50代の中高年層にはぐっと来る作家なのである。たぶん若者は十分な感情移入は出来ない。40代前半の人々も、生活の中に埋もれて頑張っている最中だから、よほど成熟度の高い人でないと、重松の人生における切なさ、取り返しのつかなさ、に共感しつつ、それでも人生を生きねばならない、と感得できる人は少ないのではないか、と思う。彼は多作の作家であり、人気の高い作家ではあるが、彼の本質を掴んで読んでいる人はたぶん団塊の世代とそのほんの少し年下の世代だろう、と僕は思っている。彼が人気作家であるのは、プロットの運びの巧さと切なさだけは、人生にすでに倦み疲れた人生の後半期を生きている僕たちのような世代だけに限らず、若者にもファンをつくってしまうのであろう、と思う。
さて、この間から何度かフランスの哲学者のことを書いてきたが、やはり抜かして通れない思想は、デ・コンストラクション(脱構築)という思想性である。それは近代思想に見られるような構築の論理でもなく、やたら元気な表層的な作家たちの、たぶん彼らにも認識はされていない、再構築でもない。デ・コンストラクションとはあくまで、構築という概念をもう逸脱し続けるような思想性であり、これは20世紀の後半期に生まれて21世紀へと受け継がれた思想性である。簡単に言えば、お茶の水博士も存在せず、鉄腕アトムも存在しない21世紀という未来が、現代となったいま、もう僕たちは構築するという虚妄の世界像から限りなく逸脱していく過程で行き着く思想性に巡り合うことに期待をかけてもよい時期なのである。そういう意味で僕は、デ・コンストラクションという思想性に想いを馳せているのである。また期待もしているのである。
デ・コンストラクションを意識せずに作品として表現しているのが、一見読みやすい印象を与える重松 清なのである。しかし、彼は決して大衆作家などではない。彼の作品は近代に於ける夢の挫折をいかんなく表現し、その挫折を超えて、再構築という単純な思想性を読者に語りかけるのでは決してない。彼の作品の結論は常に、読者の判断に委ねられている。それは彼が単なる娯楽作家ではないことを否応なく証明している証左である。重松は、新たな精神性の価値意識をすでに人生の後半期を迎えてしまった世代に、20世紀とは異なった生の価値意識を提出しているのではないか、と僕は思っている。それはちょうど、精神のデ・コンストラクションに相当する思想性なのだ、と僕には直観的に分かるのである。何度か夢の挫折を味わった登場人物たちの精神のイニシエーションストーリーを描く作家であると書いてきたが、そのイニシエーションには、フランス哲学がこれまで21世紀に生きる人間たちに突きつけてきた、脱構築という思想性が透けて見えるのである。
直木賞作家に「ビタミンF」でなったが、選考委員たちはそこまで考えてこの人を選んだのか、少し疑問に思うこの頃なのである。

〇推薦図書「エイジ」重松 清著。新潮文庫。イニシエーションストーリーの形式はとっているのですが、深読みをすると、確かに重松は脱構築の思想性を物語の中に散りばめているような気がします。また本文中の作品についても興味が湧いた方はどうぞ。

生きるために過去を忘れろと、主張する人がいるが・・・

2007-03-10 00:42:59 | 観想
○生きるために過去を忘れろと、主張する人がいるが・・・

最近、よく出版される軽い人生論ふうの読み物の中には、過去は忘れろ! と書いてあるのだが、僕も過去に悩まされている人間の一人として、何冊かのこの類の本はあさったことがある。しかし、この種の本には、大体において、忘れていることが一つある。それは、これらの類の本は、あくまで啓発本であり、人生を変えるような力はない。これが僕のこの種の本の読後感である。そうできれば楽だろうな、というくらいのものである。また、この種の本にそれ以上の期待をしても仕方がないのである。過去はどうしたって蘇ってくるものだし、その蘇ってくる過去に苦しいことがあればあるほど、過去から追いかけてくる人や出来事などは重くて、取り除き難いものなのであるから。だから、人間はどうしようもなく過去という人生の残滓を生唾を呑み込むように生きているのである。簡単には吐き出すことの出来ない生唾である。それが、それぞれの人生を縛っている過去、という産物である。そうして現在とは連綿として、それぞれの過去によって規定され、拘束されているのである。

つらい過去だけを忘れることが出来るようには人間の心は出来ていない。忘れたくない喜びに満ちた過去もあれば、忘れたくても忘れられないつらい過去もある。それが、生というものの実体である。

しかし、できることなら、人間は現在をより生き生きと生き抜きたいものだ、とは考えている。だから、つら過ぎる過去は、癌細胞みたいに手術で切り取ってしまいたいとつい思う。でも人生とは癌の摘出手術を常に失敗して、癌細胞が他の臓器へと転移するようなものではないか、とも僕には思えるのである。だから、人間の苦しみは消えないし、消えにくいのではないか、と思うのである。生きるに従って人生の苦さが増えるのは確実である。そうでない、と思っている人は、脅かすわけではないが、そのうちに、生の苦さが生きている間に襲ってくる。それが生の真実の姿であるから仕方がないのである。

では、生には救いがないのか? というとそうでもない。僕は宗教家ではないから、何かの絶対者に、己の苦悩を任せてしまう、というような思考回路は間違っている、と思っている。そんなふうに考えたことも僕の永い人生の中では確かにあったが、それはどうしても僕の腑に落ちない思考回路であった。だから僕は宗教というものを信じるのを決定的に止めた。そうして結局僕に残ったのは実存的に生を生き抜くという態度と、その覚悟だった。何らかの宗教で救われている人はここから先は読む必要はない。そういうことの出来なかった人だけがこの先を読んでくださればよい。

人生に苦悩はつきものである。それを前提としたい。問題はその苦悩は過去と深く繋がっていて、簡単には取り去ることが出来ないから人間は悩むのである。苦しいのである。生に過去は常についてまわるが、苦しく、苦かった過去を引きずって生きている人ほど、自分のその苦しさや苦さに蓋をして潜在意識の中に隠してしまっている人が多い。しかし、その蓋たるや、鍵もかからず、簡単に開け閉めできるような代物であるようである。だから、人生に苦しんでいる人ほど、過去を忘れようと思う気分が強いのだが、実際には後生大事に自分の裡に苦しい過去を抱えているのである。そして苦しめられている実体と向き合うことをせずに、目を背けて生きているのである。それがわけの分からない人生の苦しさの実質である。実存的に人生と向き合う、とは心の奥底に隠し得たと思っている苦悩にかぶせた蓋を一旦取り払ってみて、その苦悩の実体と面と向き合う、というのが前提である。そして、向き合ってみて、自分が抱えもっている苦悩が苦悩の実体をすでに失った幻影のようなものである、ということを思い知ることである。そこからしか、生に再び生き生きと繋がる細い糸は見えては来ないのである。簡単なことだ、とは僕は言っていない。それはかなりの努力が必要である。ただ一つ言えることはその努力は必ず報われるということだけは確かな真実である。簡単に言ってしまえば、実存的に生を生きる、というのは、こういうかなり人間的で危ういが、必ずやそこにはつかみとれる生への道筋が開けているということである。少なくとも僕はそういう生き方を選んだ。過去は忘れるものではなく、向き合うものである。そして向き合って苦悩という癌細胞のように変化してしまった実体を超克するのである。生への道筋を見つけ直すのである。

その意味で、生に対する夢の挫折とその超克という課題は、中高年にとってこそ、大いなる課題である。もう過ぎたことだ、と安心している場合ではない。いまを生きるのである。人生の折返点を過ぎた人々も。いや、生きなければならないのである。中高年の自殺が多いが、実際は、中高年にとっても人生は、これからなのである。生とはいつも、これからの要素を含みつつ僕たちの前に立ち現れてくるような存在なのだ。苦悩と向き合って初めて、その向こうに<希望>という二文字の意義が視えてくるのではないだろうか。僕はそんなことを考えつつ、今日一日をやり過ごした。残念ながら、僕にはまだ新たな<希望>という二文字が見えただけで、それを自分の手で掴みとれてはいないけれど・・・・・

〇推薦図書「共同幻想論」吉本隆明著。いまは文庫で出ています。アマゾンには出版社が出てこないのです。いま手元にはないので、もし興味があれば本屋で見つけてください。吉本が実存主義者か、というとかなりずれた見方になってしまいます。どちらかというと、彼はずっと真正の左翼主義者だ、という感じがします。いつも彼は一人きりで思想の深みに分け入って生き抜いてきた哲学者だと思います。彼が伊豆でしたか、海水浴をしていて死にかけたことがありましたが、そんなありきたりの死に方はしないでくれよーと僕は祈るような気持ちを抱いた記憶があります。幸運にも彼は蘇生し、現在も活躍しています。もしこの本を読まれて共感された方はかなり難しいですが、「言語にとって美とは何か」(これも文庫でいまは読めるはずです)に挑戦してください。お勧めです。

文学ノートぼくはかつてここにいた   長野安晃