ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

メメント・モリ(死を想え!)

2007-03-12 00:49:33 | 観想
○メメント・モリ(死を想え!)

60歳である。7月にはまた歳を一つ重ねてしまう。だからこそ、いま控えめに言っても、人生の折返点をとっくに通り過ぎた男が、自分の死を想うことの重要性を感じている。過去の出来事はもう参考にはならない。新たな地平を自分で切り開いていかねばならない。自分の死という終着点をはっきりと定め直す時期なのである。そうであるからこそ、僕は常にメメント・モリ! と自分に言い聞かせているのである。

人間の生とは、起きて、寝て、の繰り返しの中で、仕事をしたり、勉強をしたり、読書したり、娯楽に興じたり、愛し合ったり、憎み合ったりしてのかたちとして在る。こうして書いてみるとたいしたことがないのが人生というものである。しかし、その中に生の喜びや哀しみを感じられるのも人間にとって優れた点である。この経緯がどこかで行き詰まると、精神を病む。それが心の病の原型である。だから、人間は自分の気分や感情を詰まらせてはならないのである。すっきりと流してやる必要が不可欠だ。その過程で、感情のもつれや、対立や、失敗があってもよいのである。自分の感情を押し殺して、安逸な生を貪る方がそのツケが後で大きく襲ってくる。その意味で人間は正直でなければならない、と僕は思う。自分をごまかしてはならないのだ、と思う。ある時、それは日常性からの逸脱を伴うのかも知れないが、逸脱することで、生の充溢が感じられるなら、いくらでも逸脱することである。平穏な日常を守ることだけを考えていると、いずれは、その守りの殻にひび割れが生じることになる。だから、長い目で見ると人生の帳尻は合っているのである。いま、失敗している
、と思っている人も必ずその失敗は取り戻せるのであるし、また、いま我慢に我慢を重ねて日常性だけに縛られていると、それは必ずと言ってよいが、どこかで崩壊する危機に直面させられることになる。それが人生というものの姿ではないか、と思う。

さて、人生というものに想いを馳せる時、忘れてはならないのは、生を充溢させているかどうか、という点検である。生き生きと生きているか、という自己観察である。そして、その底には死をいうものが隠れているから、自分の死から目を離さないことである。若者は生の充溢感をどれだけ感じているか、ということに神経を集中させていればよい。またそうでなければならない。若者が生の只中で死を選んではならない。これだけは誤解のないように力を込めて言っておく。が、僕のような人生の折り返し点を通りすぎてしまった人間は、その死に方については、きちんとした覚悟の仕方があってしかるべきである。僕にとっては、どう生きるかということと、どう死ぬかということとは同義語である。それが、僕にとってのメメント・モリ(死を想え!)ということの実体である。もういまとなっては何もかもが命がけである。そういうふうに感じるのである。残された日々を大切に? 甘い! そんなものではない。あくまで、命がけなのである。それはたとえば、自分の生が、明日終わってもよい、という覚悟のつけかたである。であるから、僕に不自由な心の垣根はない。もうそんな面倒なものはかなぐり捨てた。いま、僕の裡にあるのは、<自由>と<希望>という二つの概念だけである。だから、何だって出来る。老いとは可能性の収縮を意味しない。老いこそ、可能性の拡大だ。破れかぶれで言っているのではない。それは前記したような二つの大切な概念性が元にあってこそ言える真実である。

抽象論だけではいけないので、僕が死に直面している場面を想像するのだが、もう助からないのに、医者の言いなりになってたとえば転移した癌細胞を取り除く手術は繰り返したくはない。抗ガン剤などはもっての他だ。絶対に使わせはしない。拒否する。家族のために一度くらいは手術してもよい。だが、しないのが、僕の原則的な考え方である。癌が発症したら、そのまま死を迎えたい。しかし、腹立たしいのは、日本の医療の現実である。死と直面した人間に対して無意味な延命治療をする。癌のことを話題にしたが、どんな病気であれ、延命治療はごめん被る。むしろ、積極的な死を選びたい。その意味で安楽死が理想的である。残念ながら、日本は安楽死を法制化して認めていないので、お金があれば、その制度が認められているオランダかベルギーで安楽死したいものだが、死ぬためだけにそれだけの甲斐性はないだろうから、消極的に死を待つしかない。変に延命をされると死の直前の苦しみが持続するばかりで、これは絶対に避けたいものである。その意味では突然死というのは僕にとっては都合のよい死にざまである。お年寄りがポックリ寺という、ある種の安楽死を願う。

気持ちでそういう信仰?を持つのは理解出来る。たいていのご老人は積極的な言葉にはしないが、老いと死とは、普遍的な課題である証拠だ。苦しまずに、周りに迷惑をかけずに死ぬことが、生きる目的になるという逆転現象が起こるのは、安楽死というものの意味を日本人は深く考えないからおかしなことが起こるだけなのである。

もう僕は確実に死にゆく者の領域に足を踏み入れた。それは動かしようのない事実である。誰もが死ぬ。だから一生懸命に生きるのである。と同時に、僕は心の中であらためてメメント・モリ、と呟いているのである。それが、僕の現実である。

〇推薦図書「ダイイング・アニマル」フィリップ・ロス著。集英社刊。「死にゆく獣」としての男の生と性とをあますところなく描ききった作品です。あのアメリカン・ドリームの実現と青春のほろ苦さを描いて有名なフィリップ・ロスが老年を迎えて、ここまで考え抜いて書いてくれたことに感謝したい気分で読みました。おもしろく読めますので推薦しておきます。

文学ノートぼくはかつてここにいた  長野安晃