中島らもという作家はおもしろい、というよりおもろい作家である。最初に彼の存在を知ったのは、「探偵ナイトスクープ」という、お笑いタレントがおもしろいネタを捜し出してきて紹介する番組であった。当時の探偵長はもう芸能界を引退した上岡龍太郎だった。そこに中島らもが大阪にある、もうつぶれかけの喫茶店を紹介した。そこで、妖怪のようなオバサンが出してきたのは、ネーポンという不思議なオレンジジュースだった。それをこの世界に蘇らせたのが、中島らもその人だった。ネーポンというオレンジジュースは僕も知っていた。何十年も前に確かに僕も飲んだことのある懐かしい味が口の中にひろがるような感じがした。そのときの中島らもというタレント(だと僕は勝手に思い込んでいた)は、もうこれ以上ゆっくりとは喋れないであろう、というスピードで、のらりくらりと喋るのだが、そのしゃべり口調がとてもおもろいのであった。(それはおもしろいのではなく、あくまで<おもろい>のであった) 話は中島らもからそれるが、ネーポンというオレンジジュースは神戸でつくられていて、たった一人のおばちゃんがいろいろな形の瓶に入れて出荷していたことが先日の新聞に載っていた。今年限りで生産はとりやめるのだそうだ。だから、中島らもが、中島らもらしくこの世を去ったように、ネーポンもネーポンらしく、この世界から姿を消すのである。
中島らもはかの有名な灘中・灘高出身だから、順当に勉強していれば、東大卒という肩書をもった作家になっていたかも知れない。いや、順当に東大に進学していれば、作家にはなれなかったかも知れない。中島らもは高校時代から、灘高から東大というレールの上から逸脱していった青年であった。それも限りなく逸脱していったのである。生の逸脱とは彼のためにあるような代物であるように、僕は思う。灘高生の中島らもは、酒に溺れ、クスリに溺れ、女に溺れ、いつもラリっているような、いつ精神病院に収監されてもいいほどに、壊れていった。自ら壊れていったのである。
中島らもは酒とクスリと女によって生を逸脱し、壊し切り、崩壊の中から、自らの芸術性を自らの頭の片隅から拾い出してきたような作家である。彼の作品は、初めから壊れていて、その瓦解の中に壊れ物で建てたような存在である。何もかも捨て去った後にやってくる、もうどうにでもなれ、という居直りが、中島らもの<笑い>である。そして同時に、<哀しみ>でもある。だから読者は笑いながら、泣いてもいる、という不思議な感覚に襲われる。実生活においても灘中・灘高から大阪芸術大に進学した。勿論学校に真面目に通っていた形跡はない。籍を置いたというだけだっただろう。だって、彼は酒とクスリでずっとラリっていたから、学校なんかへは通えなかったはずである。ひどい落ちこぼれである。そして、彼は落ちこぼれることに酔っていた青年でもあった。酒に酔うように落ちこぼれた自分に酔っていた。それが中島らもという存在のあり方であった、と僕は思う。
中島らもという作家は酒とクスリから作品を編み出したような作家であった。だからいつも彼の作品や人生相談には、現実感が薄くて、力は抜けてはいるが、中島の作品を手にする読者にとっては、その崩壊感覚が、自分の崩壊感覚と重なるのである。重なるだけではない。中島はその重複から、笑いが漏れるように、作品を編み出していった。そこが素人でない玄人肌の作家と言えるところである。
晩年、といっても中島らもが亡くなったのは50歳そこそこだったから、晩年という言葉を使うこと自体が<おもろい>のであるが、ともあれ、晩年はもう酒とクスリの影響で手が震えて、自分では原稿も書けなかった。彼の晩年の作品は奥さんが口述筆記したものである。それだけ彼はギリギリのところに来ていた、と思うが、それを崖っぷちとは考えない個性でもあった。だからこそ中島の作品には、どんなに真剣なテーマを取り上げても、その底には哀しい笑い、それをペーソスと呼んでもよいが、そのペーソスが、彼の生きざまと彼の作品の普遍性を高めたのだ、と思う。
中島らもの最期は、当然のように酔っぱらって階段から落ちて頭を強く打って死んだ。まるで、それが正当な死に方ででもあるかのように。そして、中島らもという作家はネーポンと同じように、この世界から姿を消すことになった。彼の代表作は「今夜、すべてのバーで」だが、僕は敢えて中島らしい短編集を紹介して、このブログを終わろう、と思う。
〇推薦図書「白いメリーさん」中島らも著。講談社文庫。生を逸脱し続ける作家、中島らも、ここに在り、という短編集です。これはやはり関西弁で、おもろい作品群なのです。あくまで、おもしろいではなく、おもろいのです。
中島らもはかの有名な灘中・灘高出身だから、順当に勉強していれば、東大卒という肩書をもった作家になっていたかも知れない。いや、順当に東大に進学していれば、作家にはなれなかったかも知れない。中島らもは高校時代から、灘高から東大というレールの上から逸脱していった青年であった。それも限りなく逸脱していったのである。生の逸脱とは彼のためにあるような代物であるように、僕は思う。灘高生の中島らもは、酒に溺れ、クスリに溺れ、女に溺れ、いつもラリっているような、いつ精神病院に収監されてもいいほどに、壊れていった。自ら壊れていったのである。
中島らもは酒とクスリと女によって生を逸脱し、壊し切り、崩壊の中から、自らの芸術性を自らの頭の片隅から拾い出してきたような作家である。彼の作品は、初めから壊れていて、その瓦解の中に壊れ物で建てたような存在である。何もかも捨て去った後にやってくる、もうどうにでもなれ、という居直りが、中島らもの<笑い>である。そして同時に、<哀しみ>でもある。だから読者は笑いながら、泣いてもいる、という不思議な感覚に襲われる。実生活においても灘中・灘高から大阪芸術大に進学した。勿論学校に真面目に通っていた形跡はない。籍を置いたというだけだっただろう。だって、彼は酒とクスリでずっとラリっていたから、学校なんかへは通えなかったはずである。ひどい落ちこぼれである。そして、彼は落ちこぼれることに酔っていた青年でもあった。酒に酔うように落ちこぼれた自分に酔っていた。それが中島らもという存在のあり方であった、と僕は思う。
中島らもという作家は酒とクスリから作品を編み出したような作家であった。だからいつも彼の作品や人生相談には、現実感が薄くて、力は抜けてはいるが、中島の作品を手にする読者にとっては、その崩壊感覚が、自分の崩壊感覚と重なるのである。重なるだけではない。中島はその重複から、笑いが漏れるように、作品を編み出していった。そこが素人でない玄人肌の作家と言えるところである。
晩年、といっても中島らもが亡くなったのは50歳そこそこだったから、晩年という言葉を使うこと自体が<おもろい>のであるが、ともあれ、晩年はもう酒とクスリの影響で手が震えて、自分では原稿も書けなかった。彼の晩年の作品は奥さんが口述筆記したものである。それだけ彼はギリギリのところに来ていた、と思うが、それを崖っぷちとは考えない個性でもあった。だからこそ中島の作品には、どんなに真剣なテーマを取り上げても、その底には哀しい笑い、それをペーソスと呼んでもよいが、そのペーソスが、彼の生きざまと彼の作品の普遍性を高めたのだ、と思う。
中島らもの最期は、当然のように酔っぱらって階段から落ちて頭を強く打って死んだ。まるで、それが正当な死に方ででもあるかのように。そして、中島らもという作家はネーポンと同じように、この世界から姿を消すことになった。彼の代表作は「今夜、すべてのバーで」だが、僕は敢えて中島らしい短編集を紹介して、このブログを終わろう、と思う。
〇推薦図書「白いメリーさん」中島らも著。講談社文庫。生を逸脱し続ける作家、中島らも、ここに在り、という短編集です。これはやはり関西弁で、おもろい作品群なのです。あくまで、おもしろいではなく、おもろいのです。