ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

尾崎 豊という意味

2008-07-02 22:21:32 | Weblog
○尾崎 豊という意味

尾崎 豊という夭逝の天才歌手の存在を知ったのは、尾崎がすでに亡くなってからのことであった。尾崎に関する知識など何一つ知らないアホなおっさんに過ぎなかった僕は、40歳を幾つか過ぎたある日、尾崎 豊の特番を偶然観るともなしに観ることになったのである。それが尾崎 豊という天才歌手を知るキッカケとなった。まさに僕にとっては偶然のなせる業であり、その特番の中の尾崎のイメージと彼の歌の絶妙なるマッチングは、おっさんである僕の心を大きく揺るがせた。その瞬時、僕は強烈な尾崎のファンになった。遅まきながらの出会いであったが、それでもたぶんかなり尾崎の深い理解者にはなり得た、と思う。

尾崎 豊という天才の悲劇は、尾崎の熱烈なるファンにこそ、尾崎の本質が理解されなかった、ということに集約される、と僕は確信する。尾崎の歌のメッセージ性には確かに大人社会に対する強烈な抗いが含まれてはいる。抑圧された尾崎と同時代人である若者の殆どが、大人たちに対する表層的には同種の反抗の芽を、体中に漲らせていたと想像した方が自然であろう。尾崎は、このような若者たちの代弁者としての抗いを、自己の裡に取り込まざるを得なかったのではなかったか? まさに、この点にこそ尾崎の悲劇の本質が在り、その過激な装いのために、尾崎は手を染める必要のなかった違法薬物の力を借りて、あるいは過剰なる酒の力に頼って、自分の中の、本来は尾崎にとっては単なる一要素であったはずの、大人社会に対するメッセージ性を無理に自己の中で膨張させつつ、尾崎信奉者たちに吐き出し続けたのではなかろうか? その意味において、尾崎にとっての酒も薬も、彼の本意としないものを創り出すための起爆剤に過ぎなかったのではなかろうか? 尾崎は、尾崎信奉者たちによって勝手に創られたイメージを増幅させ、強靱にさせるために、酒と薬の犠牲になったのだ、と僕は思う。いま、もしいまだ尾崎もどきの歌を歌って憚らないファンたちがいるとするなら、彼らこそが、尾崎 豊という天才の命を縮じめた張本人たちである。

尾崎の歌は、正確に言うと、歌そのものではない。歌の形式を借りた、日常性という退屈感の破壊と、その再構築が、尾崎の存在理由である。しかし、もっと重要な問題は、尾崎は、僕たち凡庸なる日常生活者に対して、生における美しさとは一体どのようなものなのか?ということに自己の試みの全てを懸けた。さらに生の泥沼の底にキラリと光輝くように眠っている美の原石に磨きをかけるかのごとき、繊細で手間隙のかかる芸術的試みを披瀝させてもみせたのだ、と僕は思う。

尾崎 豊という天才的才能が、凡庸なる生という水たまりの中に落としてみせた鮮やかすぎる一条の光のごときもの、それが、尾崎のめざした美意識そのものではなかったか、と思う。<OH MY LITTLE GIRL>という美しい曲のイントロで、尾崎は次のように歌った。「こんなにも騒がしい街並にたたずむ君は、とても小さくとっても寒がりで、泣きむしな女の子さ」と。尾崎は、この少女への掛け値なしの、素朴で、純粋なる愛の示し方を美しいメロディにのせて歌ってみせる。その愛がたとえ幼くてもよいのである。幼くともそこに在るのは、日常の雑多な要素を全てはぎ取った後の、原質だけで存在し続けるような愛のあり方である。これを美と呼ばずして何を美意識と規定できるであろうか?

尾崎が表現したかったのは、日常性を破壊するほどの力を備えた美という存在だった、と僕は確信して疑わない。<FORGET-ME-NOT>の一節。「行くあてもない街角にたたずみ、君に口づけても・・・幸福せかい 狂った街では、二人のこの愛さえうつろい踏みにじられる」という尾崎の美しすぎる絶叫の中のいったいどこに、反社会的な要素など存在し得えようか? 尾崎はただ優しい、美しい行為を自分の旋律にのせて表現しただけなのである。<15の夜>や<卒業>は、最も尾崎を誤解させやすい美しい曲である。ここから、大人社会への抗いのメッセージ性をしか汲み取れなかった多くのエセ尾崎ファンが尾崎の死を早めたのだ、と思う。尾崎はこの二曲においても、抗いよりは、日常性という虚飾から見出し得る美を僕たちに示してみせたのではなかったか? <15の夜>で「盗んだバイクで走り出す、行き先も解らぬまま 暗い夜の帳の中へ・・・・・誰にも縛られたくない、と逃げ込んだこの夜に、自由になれた気がした15の夜」と尾崎は美しい歌声で絶叫する。尾崎は決して「自由になった15の夜」とは歌わない。あくまで「自由になれた気がした15の夜」と歌わざるを得なかったのである。抗いだけのメッセージ性を狙うならば、絶対にこのようには締めくくりはしない。抗っても抗い切れない自分がいるが、それでも自分に正直に生き抜こうとする心の純真さ、美しさに満ち溢れているではないか! <卒業>こそは誤解の極北に在る名曲である。尾崎の歌う「支配からの卒業」というリフレインは、あるいは「支配からの卒業」や「闘いからの卒業」という絶叫は、大人社会への反抗のように見えて、実はもっと視点が広く、日常性に隠れた、その底の底に在る美しきものに対する憧憬が尾崎のテーマでなくて何であろう?

尾崎 豊は、あくまでその美し過ぎる歌声にのせて、人が喪失してはならぬもの、人生の中から掘り起こしておくべき大切な美しさ、それらを愛という表現形式の中に散りばめて、僕たちにやさしく語りかけているではないか。尾崎の絶叫は、あくまで、静かな語りかけの延長線上に在るものだ、と僕は思う。今日の観想である。

○推薦CD 尾崎 豊が亡くなったのは1992年のことだ、と記憶しています。いまの青年たちに尾崎の存在を知らない人たちが多いのは当然でしょう。尾崎を初めて聴く方には、『愛すべきものすべてに』をお薦めしますが、その後にリリースされた『街路樹』や『誕生』もぜひお聞きのがしなく。

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