ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

佇んで考えること

2008-07-05 23:49:11 | 観想
○佇んで考えること

人がものごとを考えるとき、その人の個性、その人がおかれた状況、考えるべき内実の違いによって、獲得した思想の現れ方はさまざまだろう、と思う。思考の現れにどのようなバリエーションがあっても何の問題もない、と僕は思う。要は考えることを放棄しない生きかただけが重要な問題なのである。人が考えることをどのような状況であれ、放棄したとすれば、後に残るのは無残な、思想とは無縁の、思考の脱け殻としての、嫉妬、怨念、悔恨、未来への視野遮断等々が残るのは当然である。この時点からはいかなる生産的な思考も生まれ出て来る可能性はない。延々と続く暗夜だけが、眼前に広がっていることになる。

僕は、控えめに言っても、ものを考える人間であった、と自負する。たぶんかなり広い視点で物事を考え詰めた経験が、いまの僕を支えているものと推察する。思想は、その意味において、生きる力そのものである。思想の欠落した、あるいは、思想の脱け殻に閉じこもってしまった人間から紡ぎだされる言葉は、無意味・無価値というジャンルに集約される、と僕は思う。だからこそ、人は考えなければならないのである。考えることを放棄した人間など、金があろうと、地位があろうと、何を持っていようと、いずれは、持っているはずのものさえ、自らの手からすり抜けていくものなのである。少なくとも僕はそのように考えている。僕の思考回路は正しかったと思うが、間違いも確かにあった。僕の最大の欠点は思考が産み落とした形のないアイディアを造形化していく手段にあった。一見、僕は常に前向きであった。後ろなど振り返ったことなどない、と言って過言ではない。前進あるのみ。それが僕の思考の後の行動パターンであった。つまりは、僕においては、考えることと行動することとの隙間がなかった、ということである。このような思考のありようを続けていれば、小さな思考の乱れくらいなら、まだ行動する過程で修正も出来はするが、取り返しのつかない欠陥があるとすれば、すでにはじまった行動は、欠陥が内包する破局に向かってひた走ることになる。たぶん、僕はこのような破局への道のりを幾度も踏んで前進していたのではなかろうか? その意味で、僕の生きかたの中に誤謬が多く見つかるのは必然だ、とも言える。僕にとっては生の総括そのものが、かなりきつい自己分析と自己解剖を伴ったある種の精神的拷問に近いそれになる。その覚悟で僕は自分の生の総括をはじめたのである。

苦悩と同居しているはずの生に対する執着であるのはわかっていた。僕がいま、前進あるのみ、という思考の回路に瑞々しい新たな回路を継ぎ足してやれるとするなら、それは、立ち止まること、あるいは佇むことから産み落とされる新たな価値意識の可能性でしかない、と思う。自分の生のあり方を佇んで考え直すことが、僕に新たな生きかたを開いてくれる格率が高い、と確信している。これまであまりに走り過ぎた。走り過ぎた結果が、挫折でしかなかったこと、挫折が何をもたらしたかのかは、凝縮して言えば、孤独でしかなかった。僕は矢継ぎ早に生み出されて来る思想を後生大事に抱え持ち、ただ自己の人生を走り抜けた。しかし、駆け抜けたところは、ドロ沼の底だった。僕は如何なる意味においても新たな価値観を構築することなど出来ず、ドロ沼から這いだすために、何もかも投げ出すことしか出来はしなかった。僕はその結果、思想を創り出す力も、そこから派生する行動力も、同時に失った。喪失感が、僕のこの10数年近い年月を支配した。もし、それでも細々とした思想のかけらなりとも生み出したとすれば、それは絶望の果てに嘔吐するように吐き出した汚れた言葉の端くれに過ぎない、と思う。

いま、僕はたぶん間違いはないと思うが、全ての過去の遺物たる思想の残骸までも嘔吐するように投げ捨てた、と感じる。全てがクリアーになった、とまでは言わないが、かなりの受容力が立ち戻っている。そのことだけは確かに実感できる。この事実を、僕はいま、佇んで考えている途上である。何かが生まれる可能性がある、とも思う。まるで見当違いの道を歩みはじめているやも知れぬが、いまは、これが僕の行き着いた果ての結論である。

○推薦図書「浄土」町田 康著。集英社文庫。全ての短編が、人間の本音だけで出来ているような物語です。おもしろくも、また人生の切なさも同時に読みながら感じ取ることの出来る書です。お薦めです。どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

人生は挫折しつつ生きるのだ、という論理はあるにせよ・・・

2008-07-05 02:26:13 | 観想
○人生は挫折しつつ生きるのだ、という論理はあるにせよ・・・

人は生きているかぎり、常に挫折という二文字の恐怖に晒されて生きていかねばならない。とくに順風満帆たる生を謳歌しているかのごとき人々にとっては、この挫折という言葉が時折頭の中を掠め去っては、その度に挫折なき生を確認しては、ホッと胸をなで降ろすのかも知れない。経済的な成功者たちの中に、意外に新興宗教に嵌まっている人々が多いのも何となく頷ける気がする。たぶん、彼らだって必死なのだ、と思う。挫折が人の精神を強靱にする、などという発想を僕は受け入れない。むしろ挫折の経験が多ければ多いほどに、その人の心の傷口は広がり、血を流し、場合によっては化膿して醜い膿を垂れ流す。ある意味において、挫折は人の心を荒廃させる。もし、挫折体験が人を強く見せることがあるとするなら、荒廃し尽くした心の傷口に瘡蓋が出来、瘡蓋の固さが強靱さを装わせているもの、と推察する。しかし、いずれにしても瘡蓋はあくまで瘡蓋なのであって、いずれは剥がれ去る。剥がれ去った後には、痛々しいほどのか弱い皮膚がその姿を現しているだけである。挫折体験はいっときの仮初めの精神の強靱さを仄めかしはするが、やがては挫折という敗北を内包した惨めな結果が待ち受けているだけである。

もし、挫折がもたらす表層的な結果論を素朴に信じる人がいれば、たとえば僕のような存在と接触してみればよろしい。僕の人生においては、挫折のなかった時代の方が圧倒的に少ないのである。さて、僕は挫折体験によって、精神の強靱さを勝ち得たのであろうか? 答は断然否、である。僕は挫折する度に自分の限界点を引き下げることによって、何とか生き抜いてきたに過ぎない。挫折が自分の命さえ奪おうとした。生きることの怖さも知らず、無知であるが故の、根拠のない勇気を唯一の拠り所としていた青年の頃の僕は、いまとなっては、すでに度重なる挫折体験によって、精神的強靱さの次元が下がり、さらに忍耐の限界点が下がり、全ての価値を下げた自分を嫌悪する間はまだそれでよかった、と思う。だが、そのプロセスで徐々に自己の裡から嫌悪感すら喪失していったのである。僕は、くだらない人間になってしまった、と心底思う。もう既に自分の可能性は閉じ切った、と素直に告白しておく。

大きな権威に対する抗いの無意味さについても、すでにその総括を終えた。僕の中には、いまや如何なる意味においても、立ちはだかる人生の壁を乗り越えるだけの余力はない。ただ、僕はその壁の前で立ち止まり、深く頭を垂れ、考え込むばかりである。そこに生の躍動感など一切生まれ出ては来ない。これが僕が行き着いた果ての果ての、60歳を迎えてしまった現在の正直な観想である。屈強なる精神の持主からは、そのような人間にはすでに生きる価値などなかろうから、早急に人生という劇場から去るべきである、というご批判を頂くだろうことは分かり過ぎるほどに分かっている。僕はそのことに気づかぬほどには、まだ心の繊細さを失ってはいない。恐らくは、僕という存在は、去り行くべき者の一人なのであろう。よく諒解している。

僕が生をまだ何とか保っている理由は一つしかない。それはとても小さな希望である。小さいが、僕自身はその小ささにこそ残りの人生の意味を懸けようとしているのではなかろうか、と思う。人生の不可能性の壁の前で立ち尽くし、頭を垂れて、ひたすら考え込むことの意味。ここに僕が恐らくはこれまでとりこぼしてきた生のファクターが残されているような気がする。僕はいまの直感をあくまで信じたい、と思う。ご批判は受ける。今日の観想である。

○推薦図書「神さまからひと言」 萩原 浩著。光文社文庫。サラリーマンとしては挫折の連続に見えるハードな日々を生きる主人公の、生に対する奮闘ぶりを痛快な小説世界の中で楽しもうではありませんか? ぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃