○佇んで考えること
人がものごとを考えるとき、その人の個性、その人がおかれた状況、考えるべき内実の違いによって、獲得した思想の現れ方はさまざまだろう、と思う。思考の現れにどのようなバリエーションがあっても何の問題もない、と僕は思う。要は考えることを放棄しない生きかただけが重要な問題なのである。人が考えることをどのような状況であれ、放棄したとすれば、後に残るのは無残な、思想とは無縁の、思考の脱け殻としての、嫉妬、怨念、悔恨、未来への視野遮断等々が残るのは当然である。この時点からはいかなる生産的な思考も生まれ出て来る可能性はない。延々と続く暗夜だけが、眼前に広がっていることになる。
僕は、控えめに言っても、ものを考える人間であった、と自負する。たぶんかなり広い視点で物事を考え詰めた経験が、いまの僕を支えているものと推察する。思想は、その意味において、生きる力そのものである。思想の欠落した、あるいは、思想の脱け殻に閉じこもってしまった人間から紡ぎだされる言葉は、無意味・無価値というジャンルに集約される、と僕は思う。だからこそ、人は考えなければならないのである。考えることを放棄した人間など、金があろうと、地位があろうと、何を持っていようと、いずれは、持っているはずのものさえ、自らの手からすり抜けていくものなのである。少なくとも僕はそのように考えている。僕の思考回路は正しかったと思うが、間違いも確かにあった。僕の最大の欠点は思考が産み落とした形のないアイディアを造形化していく手段にあった。一見、僕は常に前向きであった。後ろなど振り返ったことなどない、と言って過言ではない。前進あるのみ。それが僕の思考の後の行動パターンであった。つまりは、僕においては、考えることと行動することとの隙間がなかった、ということである。このような思考のありようを続けていれば、小さな思考の乱れくらいなら、まだ行動する過程で修正も出来はするが、取り返しのつかない欠陥があるとすれば、すでにはじまった行動は、欠陥が内包する破局に向かってひた走ることになる。たぶん、僕はこのような破局への道のりを幾度も踏んで前進していたのではなかろうか? その意味で、僕の生きかたの中に誤謬が多く見つかるのは必然だ、とも言える。僕にとっては生の総括そのものが、かなりきつい自己分析と自己解剖を伴ったある種の精神的拷問に近いそれになる。その覚悟で僕は自分の生の総括をはじめたのである。
苦悩と同居しているはずの生に対する執着であるのはわかっていた。僕がいま、前進あるのみ、という思考の回路に瑞々しい新たな回路を継ぎ足してやれるとするなら、それは、立ち止まること、あるいは佇むことから産み落とされる新たな価値意識の可能性でしかない、と思う。自分の生のあり方を佇んで考え直すことが、僕に新たな生きかたを開いてくれる格率が高い、と確信している。これまであまりに走り過ぎた。走り過ぎた結果が、挫折でしかなかったこと、挫折が何をもたらしたかのかは、凝縮して言えば、孤独でしかなかった。僕は矢継ぎ早に生み出されて来る思想を後生大事に抱え持ち、ただ自己の人生を走り抜けた。しかし、駆け抜けたところは、ドロ沼の底だった。僕は如何なる意味においても新たな価値観を構築することなど出来ず、ドロ沼から這いだすために、何もかも投げ出すことしか出来はしなかった。僕はその結果、思想を創り出す力も、そこから派生する行動力も、同時に失った。喪失感が、僕のこの10数年近い年月を支配した。もし、それでも細々とした思想のかけらなりとも生み出したとすれば、それは絶望の果てに嘔吐するように吐き出した汚れた言葉の端くれに過ぎない、と思う。
いま、僕はたぶん間違いはないと思うが、全ての過去の遺物たる思想の残骸までも嘔吐するように投げ捨てた、と感じる。全てがクリアーになった、とまでは言わないが、かなりの受容力が立ち戻っている。そのことだけは確かに実感できる。この事実を、僕はいま、佇んで考えている途上である。何かが生まれる可能性がある、とも思う。まるで見当違いの道を歩みはじめているやも知れぬが、いまは、これが僕の行き着いた果ての結論である。
○推薦図書「浄土」町田 康著。集英社文庫。全ての短編が、人間の本音だけで出来ているような物語です。おもしろくも、また人生の切なさも同時に読みながら感じ取ることの出来る書です。お薦めです。どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人がものごとを考えるとき、その人の個性、その人がおかれた状況、考えるべき内実の違いによって、獲得した思想の現れ方はさまざまだろう、と思う。思考の現れにどのようなバリエーションがあっても何の問題もない、と僕は思う。要は考えることを放棄しない生きかただけが重要な問題なのである。人が考えることをどのような状況であれ、放棄したとすれば、後に残るのは無残な、思想とは無縁の、思考の脱け殻としての、嫉妬、怨念、悔恨、未来への視野遮断等々が残るのは当然である。この時点からはいかなる生産的な思考も生まれ出て来る可能性はない。延々と続く暗夜だけが、眼前に広がっていることになる。
僕は、控えめに言っても、ものを考える人間であった、と自負する。たぶんかなり広い視点で物事を考え詰めた経験が、いまの僕を支えているものと推察する。思想は、その意味において、生きる力そのものである。思想の欠落した、あるいは、思想の脱け殻に閉じこもってしまった人間から紡ぎだされる言葉は、無意味・無価値というジャンルに集約される、と僕は思う。だからこそ、人は考えなければならないのである。考えることを放棄した人間など、金があろうと、地位があろうと、何を持っていようと、いずれは、持っているはずのものさえ、自らの手からすり抜けていくものなのである。少なくとも僕はそのように考えている。僕の思考回路は正しかったと思うが、間違いも確かにあった。僕の最大の欠点は思考が産み落とした形のないアイディアを造形化していく手段にあった。一見、僕は常に前向きであった。後ろなど振り返ったことなどない、と言って過言ではない。前進あるのみ。それが僕の思考の後の行動パターンであった。つまりは、僕においては、考えることと行動することとの隙間がなかった、ということである。このような思考のありようを続けていれば、小さな思考の乱れくらいなら、まだ行動する過程で修正も出来はするが、取り返しのつかない欠陥があるとすれば、すでにはじまった行動は、欠陥が内包する破局に向かってひた走ることになる。たぶん、僕はこのような破局への道のりを幾度も踏んで前進していたのではなかろうか? その意味で、僕の生きかたの中に誤謬が多く見つかるのは必然だ、とも言える。僕にとっては生の総括そのものが、かなりきつい自己分析と自己解剖を伴ったある種の精神的拷問に近いそれになる。その覚悟で僕は自分の生の総括をはじめたのである。
苦悩と同居しているはずの生に対する執着であるのはわかっていた。僕がいま、前進あるのみ、という思考の回路に瑞々しい新たな回路を継ぎ足してやれるとするなら、それは、立ち止まること、あるいは佇むことから産み落とされる新たな価値意識の可能性でしかない、と思う。自分の生のあり方を佇んで考え直すことが、僕に新たな生きかたを開いてくれる格率が高い、と確信している。これまであまりに走り過ぎた。走り過ぎた結果が、挫折でしかなかったこと、挫折が何をもたらしたかのかは、凝縮して言えば、孤独でしかなかった。僕は矢継ぎ早に生み出されて来る思想を後生大事に抱え持ち、ただ自己の人生を走り抜けた。しかし、駆け抜けたところは、ドロ沼の底だった。僕は如何なる意味においても新たな価値観を構築することなど出来ず、ドロ沼から這いだすために、何もかも投げ出すことしか出来はしなかった。僕はその結果、思想を創り出す力も、そこから派生する行動力も、同時に失った。喪失感が、僕のこの10数年近い年月を支配した。もし、それでも細々とした思想のかけらなりとも生み出したとすれば、それは絶望の果てに嘔吐するように吐き出した汚れた言葉の端くれに過ぎない、と思う。
いま、僕はたぶん間違いはないと思うが、全ての過去の遺物たる思想の残骸までも嘔吐するように投げ捨てた、と感じる。全てがクリアーになった、とまでは言わないが、かなりの受容力が立ち戻っている。そのことだけは確かに実感できる。この事実を、僕はいま、佇んで考えている途上である。何かが生まれる可能性がある、とも思う。まるで見当違いの道を歩みはじめているやも知れぬが、いまは、これが僕の行き着いた果ての結論である。
○推薦図書「浄土」町田 康著。集英社文庫。全ての短編が、人間の本音だけで出来ているような物語です。おもしろくも、また人生の切なさも同時に読みながら感じ取ることの出来る書です。お薦めです。どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃